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メシア -前編-

レベッカ・J・プリマー/BFP国際会長(CEO)

(c)Israelimages / Eyal Bartov

クリスチャンもユダヤ人も、メシアが来られるのを熱心に待ち望んでいます。しかし、両者の最大の争点は、メシアが誰かということです。

クリスチャンは、イエス・キリスト(イェシュア・ハマシヤ)がメシアであることを知っていますが、ユダヤ人はイエスはメシアではないと思い込んでいます。キリスト教国が長年にわたってユダヤ人を迫害してきたのは、彼らがイエスをメシアとして認めなかったことが原因でした。なぜユダヤ人はイエスを拒絶したのでしょうか。イエスはなぜご自身がメシアであることを、ことばをもって主張されなかったのでしょうか。

用語の定義

メシアはヘブライ語で「マシヤ」という言葉が使われており、これには「油注がれた者」という意味があります。ヘブライ語旧約聖書には、マシヤという言葉が39回出てきますが、ほとんどの英語訳ではメシアという言葉は2回しか出てきません。残りの37回は「油注がれた者」と訳されています。古代イスラエルには、権威ある立場に任命された人の頭に油を注ぐ習慣がありました。

メシアという言葉はギリシャ語では「クリストス」で、この言葉が英語に訳されて「キリスト」となりました。ですからキリストという言葉は文字どおり「油注がれた者」という意味になります。名前と共にこれを口にするのは、信仰を告白するのと同じことです。ヘブライ語では「イェシュア・ハマシヤ」であり、文字どおり「イエスは油注がれた者です」という意味だからです。

ブーツ

私はイスラエルに住むようになって、英語を話す者同士でさえ、同じ言葉を全く違う意味で使うことがあるということが分かってきました。例えば私はブーツを履きますが、イギリス人は車のブーツ(トランク)に荷物を入れるのです。同様に、クリスチャンとユダヤ人は互いに話が通じたと思っても、相手の言いたいことを全く理解していない場合があります。

モシェ・ケンピンスキーは、「終わりの日が来るまで、この二つの共同体は同じ言葉と同じ用語を使い続けるであろう。しかし、それが同じことを意味しているとは限らない。ゆえに、これまでにあったように誤解と混乱が生じることは避けられない」と言っています。

マシヤという言葉もそのうちの一つです。最も一般的な誤解は、「聖書にメシアは一人しか出てこない」というものです。しかし、ヘブライ語旧約聖書には祭司、王、預言者にも使われています。

「もし油そそがれた[マシヤ]祭司が、罪を犯し、民が咎を覚えるなら、……」(レビ4:3)

「彼[ダビデ]は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方[マシヤ]、私の主君[サウル]に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方[マシヤ]だから。』」(1サム24:6)

「わたしの油そそがれた者たち[マシヤ]に触れるな。」(1歴代16:22)

「主は、油そそがれた者[マシヤ]クロス[ペルシャの王]に、こう仰せられた。」(イザヤ45:1)

ユダヤ人のメシア観

10万人のユダヤ人が熱心に、「マシヤ、マシヤ、マシヤ」と歌う野外の集会に参加したことがあります。その詞を書いたのはラビ・モーシェ・ベン=マイモーン(1135-1204)です。マイモーンの生み出した13の原則は、ユダヤ教の信仰の原則として広く受け入れられていますが、その12番目の原則は、「私はマシヤの来臨を確信している。たとえマシヤの来るのが遅くなったとしても、毎日マシヤを待ち望む」というものです。ユダヤ人は次のようなメシアを待ち望んでいます。

  1. ダビデ王の血を引く偉大な政治的指導者。(エレミヤ23:5)
  2. ユダヤの律法に精通し、その戒めを遵守する。(イザヤ11:2-5)
  3. 人々が模範にしたいと思うようなカリスマ的指導者。
  4. イスラエルを勝利に導く偉大な軍事的指導者。
  5. 正しい判決を行う偉大な裁き司で、イスラエルの宗教的法廷制度を回復し、ユダヤ教の律法をイスラエルの法とする。(エレミヤ33:15)
  6. ユダヤ人をイスラエルに連れ戻し、エルサレムを再建してユダヤ人を政治的、霊的にあがなう。(イザヤ11:11-12、エレミヤ23:8、30:3、ホセア3:4-5
  7. イスラエルにユダヤ人と異邦人を含む世界政治の中心となる政府を打ち立てる。(イザヤ2:2-4、11:10、42:1)
  8. 神殿を再建し礼拝を回復する。(エレミヤ33:18)
    www.jewfaq.orgより)

実際、ユダヤ人の歴史を通して大勢の「メシアたち」が名乗り出ました。例えば、紀元6年から135年までには、イエスを含む7人のメシアが現れたとされています。ユダヤ関連のホームページ(http://www.jewfaq.org)には、「どんな時代にも、潜在的にマシヤになる可能性をもった人が誕生すると言われている。その生涯の間に時が満ちたなら、その人はマシヤとなる。しかし、その人がマシヤの使命を終える前に死んだなら、その人はマシヤではない」と書かれています。

ラビ・ハイーム・ハレビー・ドニンは、『ユダヤ人になるには』という著書の中で以下のように解説しています。

嘆きの壁でトーラーの巻き物を担ぐ
www.Israelimages.com/Gideon Levin

「ユダヤ的思索の中で、メシアが神だと考えられたことは一度もない。メシアは神によって油注がれた代理人として、ユダヤ人を彼らの父祖に約束されたイスラエルの土地、イスラエルに集め、エルサレムの霊的栄光を回復してイスラエルの民を政治的霊的にあがなう者である。メシアは全人類を道徳的完成へと導き、全民族が調和して共存する、戦争、恐怖、憎しみのない寛大な時代を打ち立てる。(イザヤ2、11章、ミカ4章参照)

自分がメシアであると名乗る人々は、ユダヤ史上さまざまな時代に現れている。そういった人々がメシアかどうかは、メシアが達成すると考えられていることを成し遂げたかどうかに基づいて判断された。しかし、その基準を満たした者はいない。メシアの時代が、まだ来ていないからである。われわれの時代にユダヤ人国家が再建され、統一されたエルサレムがイスラエルの首都として回復されたことによって、大勢の熱心なユダヤ人はこの時代にあがないの過程が始まると期待するようになった。そのあがないによって、最終的にメシア信仰に基づくすべての目標が実現する」。

第二神殿の模型
www.Israelimages.com/Hanan Isachar

つまり、メシアの統治によって起こると言われていたことが成就しなかったため、ユダヤ人はイエスをメシアと認めることができませんでした。ラビ・イェキール・エクスティーンは、次のように語っています。

「この考えは、ユダヤ教とキリスト教の間にある最も重要な相違点の一つを明らかにしている。即ち、キリスト教は、メシアはすでに来臨したと信じているが、ユダヤ教ではメシアはまだ来臨していないと主張している。ユダヤ教ではメシアによってイスラエルと世界があがなわれない限り、個人的な救いと聖化は完成しないと断言している。一方、キリスト教ではメシアはすでに来臨しているので、イエスを個人的な救い主、あがない主として受け入れることによって、霊的回復と成就を得ることができると主張している。ユダヤ教の使命は人類と世界を完成させ、預言の成就に至らせること、すなわちメシアを来臨させることである。世界に悪と苦難がいまだに存在し、ユダヤ人が存続しているという奥義は、ユダヤ人の使命がまだ完了していないことを雄弁に物語っている。すなわち、世界は、まだ完全な平和の日を迎えていない」。

イエスは自分がメシアであると宣言されたか?

イエスは激動の1世紀に、イスラエルで正統派のユダヤ人として生活していました。ユダヤ人は、冷酷なローマ帝国の圧政の下で奴隷状態にあったので、そこから自分たちを解放するメシアが必要だと感じていました。ユダヤ人はメシアを待望していたのです。ユダヤ人作家ゲルショム・ゴレンバーグは次のように説明しています。

黄金門
イエス・キリストがロバに乗ってエルサレムに
入場された門。終末にメシアによって
開け放たれる門とされている。
16世紀にイスラム教徒により封鎖され、
現在は開かずの門となっている。

「イエスはこのような激動の時代に出現した。キリスト教は単なるユダヤ教から誕生したのではない。終末の時期に飛び込む準備をし、つま先立ちになり、期待に燃えていたユダヤ教から誕生したのである。マルコの福音書でイエスはまず、『時が満ち、神の国は近くなった。』と語った。キリスト教の信仰では、メシアはすでに来臨され、それ以降の時代は、メシアについて預言されたことが成就するまでのしばらくの休止期間なのである」。

注意深く新約聖書を見ると、イエスが明確に「私がメシアである」と言われたことはないということが分かります。しかし、ヘブル的考えを理解するなら、イエスがご自身をメシアであると主張されたことは明白なのです。

イエスは何度も、メシアを指し示す聖句を行いとことばによって成就し、ご自身がメシアであることを示されました。また、ヘブライ語で書かれた聖書の中から、メシアについて書かれた聖句を用いてヘブル的方法で話されました。ですから本当のメシアを求めていた人々には、イエスが約束のメシアであることが分かったはずなのです。

「人の子」として

福音書の中でイエスは、ご自身をしばしば「人の子」と呼ばれました。これは、ダニエル書7章13節、14節のことばから取られています。それは、「バル・エナシュ」というよく知られたメシアの称号で、神から遣わされたメシア像を説明しているものです。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子(バル・エナシュ)のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

イエスはこの称号を用い、ご自身が霊的な使命をもって天から来たと主張されたのです。ステパノは石打ちで殺されるとき、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:56)と言って自分の見た天の幻を説明しました。イエスがご自身のことを「人の子」と呼んでいる聖書の箇所ではどこでも、ご自身がメシアであることを明確にされています。また、イエスはご自身が「人の子」であるがゆえに罪を赦す権威をもっていると、はっきり言われました。(マタイ9:2、5、6、マルコ2:5、9:1、ルカ5:23-24、7:47-48

「神の子」として

イエスは12歳のとき、両親が帰途に着いた後もエルサレムに残っておられました。イエスがいないことに気付き、探していた両親は、神殿で教師と議論しているイエスを見つけました。教師たちはイエスの知恵と答えに驚いていました(ルカ2:46-50)。母のマリヤに、なぜこんなことをしたのかと尋ねられたイエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(49節)と答えられました。少年時代からイエスは神を「わたしの父」と呼んでおられました。

次号では、1世紀のユダヤ世界に生きるラビとして、ご自身がメシアであることをイエスが明確にされていた事実をさらに掘り下げて学びます。また、クリスチャンとユダヤ人双方が待ち望んでいる将来についても確認してまいりましょう。

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