詩篇23:4 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
ここで「むち」と訳されている言葉は誤訳です。この箇所で「むち」と訳されている言葉(ヘブライ語で「シェイベット」)は、杖、こん棒、王笏と言う意味があります。ミカ書7章14節では、同じ言葉が「どうか、あなたの杖(シェイベット)で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください」と正しく訳されています。このこん棒は、羊飼いが常備していた唯一の武器でした。このこん棒は羊を打つためではなく、野獣を追い払ったり、自分を守ったりするためにありました(Iサムエル17:35、ここでダビデが羊をさらった獅子や熊を「打ち殺した」と訳されている表現は、こん棒で打ち殺したという意味です)。
また、「杖」とは、羊飼いが持っていた、長く、先がフック状になっている杖のを指します。この杖は、羊が群れから迷い出ようとした時に群れに連れ戻す為に使われました。
敵が襲いかかってくる死の陰で道を迷うことがあっても、もし主が羊飼いであるなら、その人を天敵から守り、群れの中に引き戻してくれるのです。そのような確信が、不安や不信仰との戦いの時にダビデの慰めとなったのです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
詩篇のイメージはこの節を境に一変し、 舞台は羊飼いと羊の荒野生活から王家のバンケット(宴会)に変わります。ここで、主は宴会の主催者として描かれています。しかし、羊飼いと羊の親密な関係は引き継がれており、詩の主題も変わっていません。死の陰の谷を抜けた後にダビデを待っていたのは、主が個人的に用意してくれた特別な祝会でした。
この会の素晴らしさは4つの主の恵みによって表されています。
一つ目は、 ダビデの敵の脅威が主によって取り除かれているということです。主がダビデの敵の前でダビデのために食事を整えるということは、主がダビデの敵をすでに負かしていることを示します。羊飼いが羊に危害を与えようとする野獣を追い払うように、主も主に属する人に危害を与えようとする存在を取り除きます。主に属する羊を傷付けようとする者は、主の敵です。主は、それらを負かした後に、主が自分に属する者を愛されていることを敵の目前で証明されるのです。
二つ目は、主ご自身が食事の準備をし、食卓を整えてくださるということです。つまり、主が羊をもてなしてくださるというのです。本当であれば、私たちが主に仕えるべきであるにもかかわらず、私たちに安心と安全を与えてくださる神は、それ以上の祝福を与えてくださるのです。
この箇所は、主であられるイエス・キリストが示してくださった、しもべの姿を連想させます(ヨハネ13章)。世界の救い主でありながら、弟子たちの足を洗われた主のへりくだった手本がこの詩篇の主の姿と重なります。
三つ目は、頭に油を注がれるということです。香油は、当時の時代では高価な物であり、特別な来客をもてなす時の必需品でした。特に、食事前は、会の主催者がお客さんの額に香油を塗ることでに、中東の強い日射しと乾燥によって乾ききった皮膚に潤いを与え、気分をさわやかにしたのです。この習慣は、イエスの時代にも受け継がれていました。あるとき、罪深い女性がイエスのもとに来て、イエスの足に香油を塗りました。そのような女性がイエスの足に香油を塗っていることに不安を持ったシモンに対して、イエスは、「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。(ルカ7:46)」と言いました。ですから、頭に油を塗るという行為は、もてなしの表れと同時に、相手に敬意を示すことでもあったのです。
四つ目は、杯があふれているということです。「杯」は、聖書の中で、神がその人に与える宿命の象徴として頻繁に使われます。ここでも、この言葉はそのように使われています。この箇所が強調しているのは、主から与えられた杯があふれている、ということです。主が与えてくださる杯は、なみなみと注がれているのではなく、中側から勢いよく湧き出てくるほどの祝福によって満たされているということです。もちろん、羊である私たちはそのような宿命を与えられる資格や権利を持っていません。それは、ただ主の恵みの大きさを表しているのです。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
ダビデは、まことの神を主として生きる人の結末を理解しました。それは、ダビデの人生の幕が閉じる日まで、神のいつくしみと恵みがダビデの行く所々の後を追ってくるということです。ここで、「いつくしみ」と訳されている言葉は、「トーヴ」という言葉で、神が世界を創造された時に被造物を見られ、それらを「良い」と言われたときに使われているのと同じ言葉です。どの角度から見ても欠点がなく、良いものが「トーヴ」なのです。そのような良い祝福が一生自分の後を追いかけてくるのは、すべての面で「トーヴ」でおられる主が共にいてくださるからです。
また、「恵み」と訳されているのは、「ヘセッド」という言葉で、主がイスラエルの民に対して忠実で、約束を誠実に守られる神の愛情を示す言葉です。この言葉は、まだ実現していないけれども、神の誠実さによって必ず実現される神の将来の恵みを指すために使われることが多いです。
つまり、主から離れない生き方は、一生良いものと恵みによって満ちているということをダビデは悟ったのです。なぜなら、主に導かれ、死の陰の谷を抜け出すと、もうさすらう必要はなく、主の家で永遠に主と過ごすことができるからです。
この詩篇から学ぶこと
この詩篇は、神に対する確信と希望の詩です。世界を創られたまことの神が、私たちの日常の生活に関心を持ってくださり、手の届く存在となってくれるという事実は、私たちの信仰生活を大きく変えることができます。私たちの神は、遠く離れている存在ではないのです。
詩篇23篇に書かれているような親密な関係を主との歩みの中で体験したい人は、いくつかの前提を理解していなければいけません。
一つ目は、主は私たちの羊飼いですが、羊飼いである前に主だということです。主が私たちを求めてくださるのは、主のいつくしみと恵みが理由です。羊と羊飼いの価値が同じでないように、私たちと主の権力は同等のレベルにあるのではありません。主が私たちに近くなってくださっているのは、主が私たちを恵みによって選んでくださったからであり、私たちがそれにふさわしいからではありません。そのことを忘れて、主を同等の存在のように考えると、主の導きに従う心がなくなってしまいます。
イエス・キリストはその真実を明確に教えました。イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です(ヨハネ15:14)」と言いました。この友人関係も同等の関係ではなく、主の一方的な恵みによって成り立っています。なぜなら、私たちが主に対して、「主よ、あなたも私の命じる事を行うなら私の友です」と言えないからです。
羊の安全は、羊がどれだけ羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いの近くに留まるかによって決まります。羊の責任は、羊飼いの声に従うことであり、羊飼いを自分の声に従わせることではありません。
二つ目は、主が約束する安心と安全を求めるのではなく、それらを与えることができる主を求めることを学ぶということです。たましいの安心と安全は、主が与えてくださる恵みです。主から離れた場所にそれらのものは存在しません。しかし、主を愛するのではなく、主が約束する恵みをもっと愛しているのであれば、私たちの心はすぐに主から離れてしまいます。そして、主以外の場所からそれらを手に入れようとして、間違ったにせの羊飼いの声に従い、義の道からさまよい出てしまうのです。主から離れると、安心も安全も存在しません。しかし、主がおられるとそれらの祝福もついてくるのです。ですから、安心や安全を求めるよりも、主を愛して、その声に聞き従う事に専念すれば欲しかった物も自然と主のうちに与えられるのです。
三つ目は、このような関係は一日で成り立たないということを理解することです。人間同士の間でも言えることですが、人生を変える素晴らしい信頼関係はすぐに生まれません。時間をかけてお互いを知り合い、相手の生活や考えに関心を抱き、相手を無条件で受け入れることを学ぶ必要があります。
同じように、ダビデも一日でこのような信頼の詩を書けるようになったのではありません。ダビデは人生の最後に近付いても多くの失敗を繰り返し、人一倍罪を犯しました。しかし、ダビデの尊敬できるところは、主の訓戒を受け入れて、毎回悔い改めたということです(詩篇51篇、ヘブル12:5-7)。神から離れる場合があっても、主の杖によって引き戻されることを何度も繰り返した結果、主の杖が彼の慰めとなったと言えるようになったのです。
これらのことを心に刻み、主を正しく畏れ、主を愛し、そして、主の懲らしめを訓練と思って耐え忍ぶバランスを学ぶことによって、徐々に主を羊飼いとする特権と喜びを体験できるようになるのです。