ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇23篇 【前半】

詩篇23篇は、旧約聖書の中でも最も有名な詩篇の一つです。クリスチャン生活とは無関係な文学や映画などでもこの詩篇が引用されることが多く、西洋では葬儀の時に読まれる代表的な聖書箇所です。

英国の著名な牧師のチャールズ・スポルジョン氏は、この詩篇を「詩篇の中の真珠」と呼びました。この詩篇には、まことの神に完全により頼んだ人に与えられるたましいの喜びをとても美しく描かれています。詩篇は、人の心にある不安、恐れ、心配などの感情をテーマにする詩が多くあります。しかし、この詩にはそれらの存在が一かけらもなく、主に属することによって与えられる平安と満足がテーマとなっています。

始めの4節は、著者と主の関係を「羊と羊飼いの関係」として例えます。そして、5〜6節は、主と著者の関係を「豪華な宴会を主催する王とそれに招かれた主賓」として例えます。しかし、この最後の例えの中にも羊と羊飼いの関係は保たれており、全体的に一つのまとまった流れを保つ、美しい詩として出来上がっています。

23:1a 主は、私の羊飼い。

ヘブライ語によって書かれる詩の美しさは、俳句に通じるものがあります。限られた言葉数で、限りない世界を美しく描くことができるのがヘブライ語の特徴です。この詩篇の著者であるダビデ王はそのユニークさをこの節で最大限に生かしました。

「主は、私の羊飼い」という文章は、ヘブライ語でたった2文字で成り立っています。しかし、この2文字によって旧約聖書の中で最も美しく、愛情に満ちた神との信頼関係の姿が描かれています。

主を羊飼いとして呼ぶことは、当時の人たちにとって珍しいことだったと思われます。なぜなら、当時の社会では羊飼いの仕事は社会的に階級が最も低い人に与えられていたからです。羊飼いは一日24時間、羊と共に生活しました。昼も夜も羊のことを心にかけ、晴れでも雨でも羊の面倒を見て、雨期でも乾期でも羊の必要を考え、それらを導き、守り、癒やし、助けることが求められました。そのような生活ができる人は、社会的に何の貢献も期待もされていない人たちだけだったのです。

詩篇を含め、聖書の中では、まことの神を崇高で神聖な存在として表現します。神に人格を与える時は、「王」、「万軍の主」、また「贖い主」などというように一般の人が軽々しく近寄る事ができない存在として表現されています。または、時には「盾」や「岩」や「砦」など、人格のないシンボルとして表現されます。しかし、この詩篇では、主を羊飼いと表現することで、神を手の届かない存在としてではなく、常に自分のことを心配し、備え、導き、守り、癒やし、助けてくれる身近な存在として描いています。

ダビデが、主を羊飼いとして例えたのには、個人的な理由がありました。それは、ダビデ自身が王になる前に羊飼いだったということです(Iサムエル16:10-12)。ダビデは、羊飼いの意思と責任を個人的に理解していました。彼は八人兄弟の末っ子であったために、誰もしたくない羊飼いの仕事が与えられていました。しかし、ダビデは羊の世話をすることによって、羊飼いが羊に対して持っている責任感と役割を学び、羊飼いが羊をどのように扱うかを学びました。ダビデは、それらの経験を通し、主を羊飼いと例えることが一番相応しいと思ったのでしょう。

ダビデは、「主」は私の羊飼い、と言います。ここで「主」と訳されている言葉は、「ヤハウェ」という呼び名です。この名前は、まことの神がイスラエルの民と特別な契約を結んだことを思い起こさせる時に使われる特別な名前です。しかし、ここでは、ダビデは「主は、『我々の』羊飼い」ではなく、「私の」羊飼いと表現します。それは、神がイスラエルを通して前進させていく神の大きな計画だけに心を止めておられるのではなく、そこに属している一人ひとりのことも気にかけてくださっていることを教えます。

イエスはたとえ話の中で、100匹の羊を持っていても、もしその一匹が群れから外れたら、羊飼いはその一匹を探すために身の危険を冒すと教えました(ルカの福音書15:4-5)。ダビデも、獅子や熊が自分の群れに属する羊をさらうようなことがあれば、それを追跡し、それらを命がけで倒し、羊を取り戻したと言いました(Iサムエル17:34-35)。まさしく、良い羊飼いは、一匹の羊のために自分の身を捧げるのです(ヨハネ10:11)。ダビデは、主も羊飼いと同じように、群れ全体に目を向けながら、一人ひとりのことに心を留めてくださることを知っていました。羊飼いが羊を一匹も置いていかないのと同じように、主も神の家族に属する人を誰も置いていかれるようなことをしないのです。

ダビデは、主を個人の羊飼いとして呼ぶことによって、主が手に届かない抽象的な存在ではなく、自分の隣を歩み、安全へと導いてくださる存在だと理解していました。

23:1b 私は乏しい事がありません。

ヘブライ語では、この文章も2文字で書かれています。これを直訳すると、「ない、私には何かが欠けている」と書かれています。この表現には、主が私の羊飼いであるから、自分の必要はすべて満たされる、という意味があるのと同時に、主が私の羊飼いでいてくださるのであれば、それ以外のものは必要ないという確信が表れています。主さえ共にいてくださればそれ以上のものはいらない、と告白できる人は、知識だけではなく体験を通して主の価値を理解している人だけです。貧しくても、主が共におられるのであれば、決して乏しくなることはありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節の主題は、主が良い羊飼いであるから、私たちはどこにいても安全であり、いつでも安心できる、ということです。その真理を簡潔に表すために、ここでも同義型パラレリズムが使われています。羊が草に伏すとは、安心して休むという意味があります。羊は動物の中でも特に面倒が掛かる動物であり、さまざまな条件が整わないと草に伏しません。おなかが満たされていない羊は、草をたらふく食べるまで牧草を求めて歩き回り、横たわることをしません。また、外敵から狙われている気配がある間は、恐怖心のために横たわることをしません。さらに、病気を持っていたり、体調を崩している羊はそれが直るまで伏せません。ですから、羊が緑の牧場に伏せるとは、これらの条件がすべて満たされていることを意味します。

「いこいの水のほとり」とは、羊が休み、力付けられる水飲み場のことを指します。中東の荒野などで遊牧生活する羊飼いは、どの時期に、またどの場所に水飲み場があるのかを知らなければ、羊に脱水症状を起こさせて全滅させます。いつも、羊の状態を観察して、羊が群れで歩ける距離に次の水飲み場があることを確認します。このことは、長い乾期が続くユダヤの地では大切なことでした。

しかし、水飲み場があるだけでは、羊が自主的に水を飲むという訳ではありません。羊は、他の動物と比べて、自分の身を外敵から守るすべを持っていません。そのため、少しでも身の危険を察知すると羊は怯えて水を飲まなくなります。そのため、羊飼いは水飲み場を確保するのと同時に羊の害になる動物を追い払い、羊が安心できる環境を確保していました。

また、羊は病原体が入っている水を飲むと、すぐに病にかかってしまいます。そのため、汚い水ではなく、きれいな水を用意する必要がありました。人間の羊飼いが、羊のためにそこまで気を配るのであれば、私たちのたましいの牧者である主も私たちのことを心に掛けてくださり、人生の荒野をさまよう私たちが安心と安全を体験できるように導いてくださるのです。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ダビデはこの節でも同義型パラレリズムを使います。「私のたましいを生き返らせる」とはどのような意味でしょうか。パラリズムの役割を理解していると、それは「義の道に導かれる」ことと同じ意味があることだと分かります。聖書の世界観によると、不義の道のたどり着く所は滅びであり、義の道のたどり着く所にはいのちと繁栄があります(詩篇1:6)。つまり、羊飼いの示した道が義であり、その道に従って導かれることが著者のたましいをいのちに戻すということなのです。

主は、ご自分の名声を保つため(「御名のため」)に私たちを導いてくださいます。まことの神は、すべての人が主に希望を置くことを望み、誰一人として滅びてほしくないと願っています。そのため、まことの神の名が人に希望と確信を与えるものであることを望みます(参照:エゼキエル書36:22-32)。人が主の名前を出す時に、「その名の神は約束を守らない」とか、「その神には人を救う力がない」とか言われないように、約束した事は必ず成就させ、ご自分の信望が失われないように働かれます。

主は、イスラエルの民と特別な関係を築かれ、彼らが主を愛し、その御教えに従うのであれば、彼らを必ず祝福し、いのちを与えると約束されました。ですから、イスラエルの民が主に従っているにもかかわらず、その民が守られないというのであれば、まことの神には約束を守ることができず、言葉通りにご自分の民とされた人たちを守ることができないと偶像礼拝者たちから責められ、現実の世界では価値のない存在として忘れられてしまいます。主の名声が損なわれないように、主は神に属する人たちをいのちへつながる義の道に導かれるのです。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

義の道とは、必ずしも楽しさに満ちた道であるとは限りません。時には、その道が私たちにとって通りたくない道であるかもしれません。「死の陰」と訳されている言葉は、旧約聖書に20回ほど登場します。多くの場合、それは「深刻な闇」という意味を持っており、絶体絶命の状態や環境のことを指します。

しかし、もし全能の主が、私の羊飼いであり、その知恵の導きによって死の陰の谷を通るのであれば、その道が羊にとって最も安全な道であると確信を持つことができるのです。

ダビデは、この節で個人の信仰をさらに豊かに表現します。これまでは、主を三人称で表現してきましたが、この節では「あなた」と、二人称に変えることによって主との距離を縮めています。

なぜ、ダビデがそのような確信を持つ事ができたのでしょうか。それは、神はすでにイスラエルの民を「死の陰」の地を通し、無事に導いた実績があったからです。エレミヤ書2章6節では、主のことを「私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方」と呼んでいます。もし、だれも住むことができない不毛の「死の陰」の地で40年間も大きな国民を養うことができたのであれば、たった一人を守ることは主にとってたやすいことだと確信を持てるのです。

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