ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇19篇 【後半】

19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

モーセの律法が、イスラエルの民に正しい世界観を教え、知恵を与え、心を喜ばせ、悟りのある生活をさせるのであれば、それは何よりも価値があるものです。しかし、すべてのイスラエルの民がその価値を認めた生活をしていたわけではありません。もし、神の啓示を当然のことと思い、毎日、神の創られた自然界に囲まれながら、それを創られた創造主の栄光に目を向けず、神から与えられた具体的な啓示が手元にあってもそれを読まないのであれば、それを与えられていない人たちよりも悪い状態になるのです。

19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

しかし、まことの創造主の栄光を讃え、律法の言葉を好む者は、そこに書かれている言葉に心を留めます。その人は、人間が神に仕えるために創られ、神が私たちに仕えるために存在するのではないことを覚えます。そして、「戒めを受ける」とは、「忠告を肝に銘じる」という意味があります。律法を守ればそれに応じて祝福され、それを破れば災いが与えられるという契約を思い起こし、神を恐れない心を持たないように注意するのです。

19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

モーセの律法は、すべての罪を同じように扱いませんでした。律法は、民が「故意に犯す罪」と、「知らずに犯した罪」を区別しました。レビ記で紹介される罪のいけにえやあがないの日に捧げられたいけにえは、知らずに誤って犯した罪しか覆いませんでした(レビ記5-6章、民数記15章、ヘブル9:7)。このような区別が設けられたのは、数多くの律法があり、すべてを常に意識して生活することが人間には不可能であることを神がご存知であったからです。そのため、本人が意図的に神に対して罪を犯そうとしない限り、いけにえという身代わりを捧げることによってその人の罪を覆うことができたのです(ローマ3:25)。ダビデ王は、故意に犯した罪のために捧げられるいけにえがないことを知っていました(詩篇51:16)。故意に罪を犯した時は、いけにえではなく、心からの悔い改めが求められたのです。

19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

ここで、「傲慢の罪」、「大きな罪」と書かれているのは、「意図的に神の律法を破る罪」のことです。神の律法を知っておきながら、それを破る罪は、「神の顔に拳を突き上げる罪」(民数記15:30)と書かれており、神を冒涜することであると書かれています。もし、私たちが故意に神に対して罪を犯し続ける生活から守られるのであれば、私たちは神の期待を満たし、神と交わりを保つことができるのです。

19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

詩人は、この詩を罪について書くことによって終わらせるのではなく、全世界を創られ、特別な啓示を与えてくださった神を礼拝する言葉で締めくくります。「受け入られますように」という表現は、当時のいけにえを捧げる時に使われる用語で、非難されることのないという意味があります。詩人は、創造者であり、契約の主である神に罪を犯さないことを決断し、その心と礼拝の言葉が神から拒絶されないように祈ります(参照:ホセア書14:2)。そして、最後に、創造主である神が特別に選んでくださり、守りと祝福を約束してくださったことを覚えます。神を不動の岩に例え、救いを与えてくださる救い主であることを覚え、契約の約束を守ってくださる主であることを告白し、この詩を締めくくっているのです。

詩篇19篇を応用する

①自然界ではなく、創造主を礼拝する

日本人は、自然と共存しながらきた民族です。そのため、自然界に対する思いとそれを敬う心は強く、神道では神秘を感じさせる岩や大木を神として祀ります。自然崇拝をしなくても、自然界とふれ合い、自然界によって癒やされることを求める人たちもいます。確かに、自然界には人を癒す要素があります。しかし、それは自然界を創られたまことの神が究極の癒やし主であることを大自然が物語っているからです。私たちが、被造物によって癒やされることで満足し、それを創られたまことの神を讃えなければ、私たちの自然界に対する姿勢は間違っているのです。大自然に限らず、神が創られた動物や食べ物などによって癒やされることだけで満足し、それらを与えてくださった神を求めないのであれば、それも間違っていると言えるでしょう。ローマ人への手紙1章には、創造主ではなく、被造物を讃える人たちに対して厳しい警告があります。自然界は、それを創られた創造主の栄光を語っていますから、自然界を通して神の存在を思い起こし、神の力と知恵を讃える環境に自分を置くことも大切です。

②具体的な啓示が与えられていることについて

聖書の言葉は、神の人間に対する期待が具体的に書かれている啓示です。そのような素晴らしいものが与えられていることを当たり前と思って生活するのではなく、それを何よりも貴重であり、直接生活のクオリティーを向上させるものであるという確信を持つことが大切です。なぜなら、神の言葉は、まさにそのようなものだからです。

ダビデ王が詩篇19篇を書いた当時、まだ旧約聖書の1/3ほどしか書かれていませんでした。しかし、ダビデ王は、それだけの限られた啓示でこれだけの喜びと確信を持ってこの詩を書き上げたのです。私たちは、それに加えて残りの旧約聖書と新約聖書のすべてが与えられています。ですから、私たちは、ダビデ王よりもさらに神の言葉を愛し、さらに学び、さらに確信を持って受け入れ、それらを実践する理由があるのです。

③傲慢な罪を犯さない信仰

傲慢な罪とは、神を知っていると告白しながら、神の言葉に従わない人の心や行動のことを指します。知識を与えられておきながらそれを行わないことは、何も知らずに神に対して罪を犯すことよりも大きな罪であるということは、実は、旧約聖書だけではなく、イエスご自身も教えられたことであり(ルカ12:42-48)、新約聖書でも教えられている真理です(ヘブル10:26、1テモテ1:13、1ヨハネ5:16-17)。神の言葉を与えられておきながらそれに従わない人は、それを与えられていない人よりも悪い状態にあると聖書は教えます(ヘブル10:26-27)。

そのような罪を犯している間は、まことの神を主と呼ぶことはできません。また、自分の人生の岩として、主に身を避けることもできません。そのような罪は、私たちを神の守りの中から外し、その人の口にする言葉と心の思いは神に受け入れられません。

モーセの律法の元ではそのような傲慢な罪は死罪に値しました。「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数記15:30-31)。ここで、「故意に」と訳されている言葉は、「拳を突き上げる」という意味があります。真理を知っておきながらそれを否定するということは、それを与えた主を否定するということです。

そのような傲慢から解放されるには、神のあわれみに寄り頼み、傲慢な心を悔い改める必要があります。聖書には、「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」(詩篇103:8-10)と書かれています。故意に罪を犯す傲慢な罪人さえも愛し、裁きを遅らせる神の前でへりくだり、心から悔い改めれば、神はその人を拒絶されることはありません。

このような素晴らしい詩篇を書いたダビデ王も、人生の後半に傲慢の罪を犯してしまいました。そして、それによって律法の約束通り多くの災いを体験しました。しかし、ダビデ王は自分の過ちによって心砕かれ、悔い改めて神との関係を回復することができました。その一連の出来事を思い起こし「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)と書き残しました。

多くの詩篇の著者であったダビデ王でも傲慢の罪を犯してしまうのであれば、私たちも日々の生活の中で、多くの罪を犯していることでしょう。しかし、私たちが神の栄光に目を向け、聖書の言葉に戻るなら、私たちの心の目に光が戻り、たましいを生き返らせることができるのです。そうするとき、神に対する礼拝の心がさらに力みなぎり、神によって受け入れられる言葉と心にで賛美を捧げることができるのです。

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