詩篇19篇は、神の啓示を讃える歌です。「啓示」とは、人間の力では到達できない真理を、創造主が人間に伝えることです。この篇を書いた詩人は、神が二つの手段を用いて 私たちに真理を伝えていると讃え、その背後にある神の知恵と愛を賛美しています。ただし、礼拝ということは、神の素晴らしさを讃えるだけで終わるのではなく、その事実に対して私たちの心がへりくだり、神を認めて歩むことにつながります。
この詩は、神学的に大切な真理が多く含まれているだけではなく、文学的にも非常に高い評価を受けています。英国の詩人であったC.S.ルイスは、この詩篇を「詩篇全体の中で最も優れた詩であり、世界に残された多くの詩の中で最も優秀な詩の一つ」と言いました。
この詩は、二つの楽章で成り立っています。一つ目の楽章は「自然を通して神が示す啓示」について書かれており、二つ目は「モーセの律法を通して示されている神の具体的な啓示」について書かれています。そして、それらのまとめとして、神の啓示を真理として受け入れた人の信仰による応答が美しく描かれています。
自然界を通して神が与えている啓示 (1-6節)
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
この節は、神がどのようにご自身の存在を啓示されているか表現しています。同義型パラレリズムが使われており、天体すべてが神の大きさを物語っていると教えます。
「天」は、夜の天体を指し、「大空」は昼の空を指します。詩人は、パラレリズムを上手に使うことによって、一日中どの時間であったとしても、神の栄光とその能力の素晴らしさから逃れることができないと讃えます。
夜空には、数え切れないほどの星々と月光が輝き、昼空には、太陽の光と熱が照り注ぎます。詩人の思いは、もし、これらの「御手のわざ」によって創られた生命のないものが人の心をへりくだらせるほどの輝きと雄大さを持っているならば、それらを創られた創造主の栄光と偉大さは、それをさらに上回るものであろう、というものです。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
この神の存在とその力の偉大さについての啓示は、絶え間なく語られ、豊かに与えられています。
「昼は昼へ」という表現は、「来る日も来る日も」という意味ですが、同時に日の出から日の入りまでというニュアンスが含まれており、一日を通して観察できる軌道線上を移動する太陽の運動を指しているとも解釈できます。「夜は夜へ」という表現も、日暮れから夜明けまでの天体の運動を指していると理解できます(5節参照)。
いずれも、神の栄光と偉大さの啓示は、預言者の出現とは異なり、途切れることなく、常時表されていることが書かれています。天地が創造されてから、一日たりとも天体と大空が神の存在およびその偉大さを語らなかったことはありません。
この自然を通して語られている神の栄光の啓示は、絶え間なく語られているだけではなく、豊かに語られています。「話を伝え」と訳されている文章は、原語では、「(啓示の)言葉をほとばしらせ」と書かれています。原語の表現は、自然界が冷淡に神の存在を語っているのではなく、神の偉大さを「噴出するように」、また「勢いよく流れ出るように」物語っていると書いているのです。この言葉は、聖書のほかの箇所で、井戸から水が湧いている状態を指すときにも使われます。ですから、神の栄光を示す啓示を
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。…
自然界を通して明かされる神の啓示は、言葉によるものではありません。しかし、それが物語る真理から逃れることができる人は誰一人いません。なぜなら、この世界のすべての人が神の被造物の中に存在しているからです。
19:4 …神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
この詩の著者であるダビデ王は、太陽に焦点を当て、何者も神の栄光の啓示から逃れることができないと教えています。ダビデは、擬人法を使い、太陽を人間のように例えています。例えば「幕屋」(テント)はここでは夜を現し、 太陽が夜明けに上がってきて、日暮れに沈んでいく様を、仕事が終わって家に帰る人間に擬しています。
太陽は、夜が明けると、神の栄光の啓示を物語るために喜びを持って、力強く登場するのです。ここで、「部屋から出てくる花婿のようだ」という表現は、当時のユダヤ人文化に根付いています。聖書時代、夫が妻と一緒に天幕に入り、交わりによって婚姻を完成させるまでは、妻をめとったと言えませんでした。ですから、その儀終わった式が後、夫は妻を迎え入れたことを発表するために天幕から出てきたのです(参照:「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった」創世記24:67)。太陽は、婚姻を完成させた喜びに満ちて天幕から出てくる花婿のように、神の栄光をこの世に告げ知らせる喜びをもって、毎日上るのです。
また、太陽は、戦いに勝った勇士のように力強く、誇りに満ちてその定められた軌道を走ると書いてあります。その運動は、絶えることがなく、地上の隅々の人に日々目撃されます。太陽の光という言葉なき啓示は、耳が聞こえない人にも明確に神の栄光の素晴らしさと偉大さを語ります。また、目が見えず、太陽の光を視覚で体験できない人も、それから発する熱を感じますから、その偉大なるエネルギーを否定できません。つまり、人間が生きている限り、神の創られた被造物が神の栄光の素晴らしさを物語っているのです。
律法を通して神が与える具体的な啓示(7-14節)
この詩篇の後半は、自然界の啓示と比べて律法という神の啓示がどれほど素晴らしいかが書かれています。7-9節は、特に、モーセの契約を思い起こさせる神の名前、「主」(ヤハウェ)が6回も使われています。自然界は、創造主の大きさ、知恵、力を啓示します。しかし、律法は、神の民を特別に選ばれ、特別な契約を結んでくださった主の期待と祝福が伴う約束が含まれているのです。ここでは、モーセの律法を表現するために「みおしえ」(トーラー)、「あかし」、「戒め」、「仰せ」、「恐れ」、「さばき」と言う言葉を使い、律法のさまざまな側面に焦点を当てています。ユダヤ人は、彼らの神がまことの創造主であることを喜び、その方が彼らに特別な啓示を与えてくださったことを覚えて主を礼拝し、またその言葉に従って歩むことを目指したのです。
7〜9節の詩は、ヘブライ文学の中で最も美しく、分かりやすい同義型パラレリズムの一つと考えられます。それぞれの節は、「名詞」で始まり、「形容詞」が次に続き、最後は「動詞」によって完結します。名詞は、神の律法の側面を表し、形容詞はその完全さを讃え、動詞はそれがどのように神の民を祝福し、なぜそれが彼らの信仰の対象にふさわしいのかを伝えます。
19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
「主のみおしえ」とは、ヤハウェのトーラーという表現で、モーセの律法を表す最も基本的な表現です。トーラーとは、教示という意味があり、神が神の民に与えた指示ということです。その指示は、「完全である」と書かれています。この言葉は、「欠点がない」という意味があり、もし、神ご自身が愛と知恵と力の面で非の打ち所がないのであれば、その方の啓示もその完全さを忠実に映し出しているということです。そして、主のトーラーは、「たましいを生き返らせ」と書かれています。ここで「生き返らせ」と訳されている言葉は、「元の状態に戻す」という意味があります。実は、これとまるで同じ表現が詩篇23:3に登場します。そこでは、牧者が迷った羊を本来属しているべき群れに戻す姿を連想させ、神がその人の心を本来あるべき場所に戻す姿が描かれています(参照:イザヤ49:5)。ですから、ここでも「たましいを生き返らせ」という表現は、霊的な救いと捉えるよりも、完全な律法を心に留めることによって、その人の心が本来あるべき状態に戻ることができると理解する方が言語的には合っていると言えるでしょう。
「主のあかし」とは、主ご自身が証言されたことばを指します。もちろん、トーラー(専門的にモーセ五書)のすべてが神の啓示ですが、その中でも特に主ご自身が語られた言葉がここで注目されています。主の証言された言葉は「確か」です。この言葉は、ヘブライ語で信頼できるさまを表しているだけではなく、すでに決定していることを指す時にも使われます。神が証言された言葉は、すでに確定しているので、それがそのまま成就すると教えているのです。その証言は、わきまえのない者を賢くします。ここで「わきまえのない者」と訳されている言葉は、「若者」という言葉です。若者は、経験が少ないために、さまざまな意見に振り回されます。ですから、もし、その人が偏見の無い心で主のあかしを受け入れるなら、すでに確定した神の言葉によって、必要な知恵を受けることができるのです。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
「戒め」とは、神が与える生活の規範のことです。詩篇103篇18節では、この言葉が主の契約と同じ意味で使われています。つまり、戒めとは、神から与えられている責任が記されている言葉を指していると言えるでしょう。ですから、神の目から見て、正しい生き方をする人は、自分の生き方に間違いがないことを確信しているので、喜ぶことができるのです。また、モーセの律法を守るイスラエルの民は、必ず祝福される約束があるので、その希望が喜びを与えることにもつながるのです。
「仰せ」とは、命令のことです。ここで「きよい」と訳されている言葉は、「汚点がなく、きれいな」、という意味です。汚れがない真理は、「人の目を明るくする」と書かれています。「人の目を明るくする」とは、当時の表現で「洞察に富ませる」という意味です。人の目は洞察力の象徴であり、光が与えられるということは、問題をよく理解し正しい判断がくだせるようになるということです。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
「主への恐れ」という表現も実はモーセの律法のことを指しています。この表現は、主に対する正しい恐れの示し方が記されている律法、または主を恐れないと命じていることばを指します(参照:詩篇111:10)。ここで「きよく」と訳されている原語は、8節の「きよい」とは異なり、神の前でふさわしい状態を指すために用いられることがよくあります。つまり、道徳的に正しいという意味です。「とこしえまでも変わらない」という表現には、律法の不変性よりも、その不動さが強調されています。つまり、主を恐れなさいという命令は動かされることなく、どの時代にも変わらない神の期待であることが伝わります。
「主のさばき」というのは、神の罪に対する審判ではなく、神の判断の基準が記されている律法を指します。神の識別力によって書かれている律法は、「真理」そのものであり、神がことごとく正しいように、その啓示もすべて正しいのです。
たった3節にこれだけの真理を詰め込むことができるのが、ヘブライ語のすばらしいところであり、詩人ダビデ王の芸術家としてのセンスなのです。