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ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇1篇-詩篇に学ぶ礼拝

この記事は、2013年6月に掲載されたティーチングレターと同じ内容のものです。

詩篇を正しく読むには、詩篇が書かれた時代背景と詩篇を書いたユダヤ人の信仰を正しく理解することが必要です。なぜなら、聖書のことばは、「すべての人のため」に書かれていますが、詩篇のことばを執筆したユダヤ人の著者たちは、その当時、「神の民として選ばれたイスラエル人」を対象にこれらの詩を書きました。そのため、当時のユダヤ人の視点に立ってこれらの詩を読むことで、詩篇の持っている本来の美しさと霊的な力を体験することができます。

詩篇1篇は詩篇の冒頭を飾るにふさわしい詩です。詩篇の編集者がこの詩を最初にしたことには、理由があります。詩篇には数多くの礼拝や賛美の歌が含まれていますが、神が求められるのは、そうした歌そのものではなく、礼拝者の心です。

もし神と特別な契約を結んだユダヤ人が、神を恐れず、契約に反した生き方をしているなら、どれほど美しい詩歌を紡いだとしても「神を礼拝している」と言うことはできません。詩篇1篇には、「礼拝をするなら、まず神との契約を覚えて律法を守りなさい」という礼拝の前提条件が書かれているのです。

この詩篇1篇を正しく理解するために知っておくべき大切なことが、二つあります。一つは、当時のユダヤ人がモーセの律法をどのように理解していたか。もう一つは、神の言葉を守ることと礼拝することについての関係性です。

「モーセの律法」の大切さ

詩篇1篇には「悪者」、「罪人」、「正しい者」などの表現が含まれています。何を基準としてこのような表現をしているのでしょうか。社会の基準でしょうか。それとも、個人の感覚でしょうか。答えは、「モーセの律法」です。

モーセの律法は、神がモーセを通してイスラエルの民だけにお与えになった生き方の指針・原則です。600以上の戒律によって成り、道徳律に限らず、宗教的儀式、民法なども含まれていました。モーセの律法を守った生活を送ることは、ユダヤ人にとって何よりも大事なことでした。なぜなら、律法に書かれている言葉をすべて行えば、祝福されるという約束が付いていたからです。律法を守れば彼らはどの民よりも祝福され、守らなければ災いに遭うのです。

作者は、まず不信仰を悔い改め、契約によって約束された祝福を体験できるよう、律法のことばに戻りましょう、と励ましているのです。

「神の言葉を守ること」と「神を礼拝すること」の関係

ユダヤ人にとってモーセの律法を守ることと、礼拝することは表裏一体でした。モーセは、イスラエルの民に「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです」(出エジプト20:20)と言いました。

「神への恐れ」とは、神を怖がることではなく、敬虔の念を持つということです。ですから、モーセは、どれほど神が偉大で素晴らしい存在であるかを理解することで生まれる礼拝の心が、彼らに律法を守らせる、つまり、神に対して罪を犯すことをやめさせるのだ、と語ったのです。

神を礼拝する言葉を口にしても、神の律法を守らなければ、神を正しく恐れていることになりません。そのような礼拝を神は喜ばれないと、聖書は教えます(参照:イザヤ29:13)。詩篇1篇は、そのようなことに警鐘を鳴らす知恵の詩篇なのです。

ヘブライ語で読む詩篇1篇の美しさ

こうした背景を理解して詩篇1篇を読むと、さらに内容の濃さと重みを楽しむことができます。

1節 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

1節は、感嘆詞によって始まります。「幸いなことよ」とは、「次のような人は、幸せである」ということです。どのような人が幸せであるかというと、「神が与えた律法の言葉から離れた生活を送らない人」のことです。

作者が言いたいことを強調する詩的技法として、この節では、同義型パラレリズム(対句法)が使われています。

この種のパラレリズムの特徴は、初めの対で最も基本的な表現を用い、その後に続く対で基本で伝えた事柄をさらに具体的に展開させていく手法です。

1節では、
悪者のはかりごと」に「歩まず
罪人の道」に「立たず
あざける者の座」に「着かない
と書かれています。

「悪者」とは、「神の前で正しくない人」のことを指します。次に「罪人」という言葉で、特に「神の律法を破った人」を指します。そして最後の対に、「あざける者」とありますが、これは、神の律法に逆らう人の具体例で、旧約聖書では「最も忌まわしい人」の代表として用いられます(箴言24:9)。「悪者」が最終的に「あざける者」と進化する、と教えているのではありません。さまざまな角度から神の律法を無視する人の有様を表現することで、この一節の中に一つの真理をより印象深く書いているのです。

「歩む」、「立つ」、「座る」という詩的表現で強調されているのは、律法を守らない「悪者」と時間を過ごせば誰でも徐々に「悪者」に染まっていくということではなく、そのような人たちと同じ生活をせず、神の律法を大切にする人は、神から祝福される幸せな者である、ということを言い表しているのです。

2節 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

モーセ契約では、律法を守る人には神からの特別な祝福があると約束されています。幸いな人とは、律法を破らないだけではなく、主の教えを喜びの源とし、その言葉から離れないように常にそれを口ずさむ人であると言っています。「主の教え」とは、ヘブライ語(原文)では、「ヤハウェのトーラー」と書かれています。「ヤハウェ」は、神がイスラエル人との契約関係を思い出してほしい時に用いる特別な呼び名であり、トーラーとは一般的に「モーセの律法」を指す専門用語です。また「口ずさむ」という表現の原語は、「小声で読む」の意で、一言一句をかしこまって読み、書かれている内容について深く思いを巡らすという意味があります。ここで言いたいのは、「聖句を暗唱すれば自動的に祝福される」ということではなく、契約の民がモーセの律法の言葉をしっかりと学び、そこからそれずに歩めば、その人は必ず祝福されるということです。

3節 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
4節 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

ユダヤ人が大切にしてきたトーラー
(ポーランドのクラクフにあるシナゴーグに保存されていたもの)

3-4節には、契約を守る者と守らない者の差が書かれています。契約の言葉を守る者は、水路のそばに植わった木のようである、とあります。イスラエルの地は、年間の半分が乾期で、植物も自然の水源がなければ成長することができません。しかし、契約の主の律法を守る人は、誰かの手によって作られた水路のそばに植わった木のようであると書かれています。

ですから時が来ると実がなり、その葉が枯れないのは、その木の力によるのではなく、それに命を与える存在の働きと力によるのです。「その人は、何をしても栄える」と訳されている文章は、原語では「その人は、何をしても栄えさせられる」と受動態で書かれています。その人は、契約の約束に信仰を持って、律法の言葉を喜びながら守るので、神が約束通りにその人を栄えさせる、つまり、栄えないことがあり得ないのです。しかし、モーセの律法を守らない神の民は、風が吹いたら瞬く間に吹き飛ばされてしまう籾殻のようだ、と言います。

5節 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
6節 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

最後にユニークな対照的パラレリズム(「正しい者の道」「悪者の道」)を用いることによって、この詩の結論を告げています。ここで筆者は伝えたいことを半分しか書かないことで、そこにあえて書かれていない事実に心を留めるように意図しています。本来、著者が言いたかったのは、悪者の道がたどり着く場所が「滅び」であるように、正しい者の道のたどり着くところは「祝福」であることを主は知っておられる、ということです。それを詩的表現を用いて、短く、また覚えやすいように書いているのは詩人のセンスと実力の現れです。

教会時代の私たちへの適用

モーセの律法を守ることによって祝福を受ける、また、それを破ることによって災いを招くという原則は、モーセの契約を与えられたユダヤ人たちに与えられた特別な条件です。では、この詩篇をモーセの律法の下にいない私たちクリスチャンは、どのように生活に当てはめれば良いのでしょうか。

私たちには、モーセの律法ではなく、真理と恵みをもたらしたイエスの律法を守ることが求められるのです(ヨハネ1:17ヤコブ2:8-12)。イエスの律法とは、私たちがイエスに愛されたように「互いに愛し合う」ということです(ヨハネ13:34、15:10-12、Iヨハネ4:21、IIヨハネ1:5)。つまり、私たちは、互いに愛し合うというイエスの律法を守ることで幸いな者とされ、兄弟や隣人を愛する命令を昼も夜も口ずさむことで、詩篇1篇の原則を実践できるのです。

教会時代の私たちはイエスの律法
を守ることで幸いな者とされる

また、もう一つの時代を超えた詩篇1篇の適用は、もし、私たちが神を礼拝するのであれば、口だけでなく、まず神に従うことが求められるということです。隣人を愛しなさいと命じられている者が、兄弟を赦さない状態のままで、神を礼拝することを、主は好まれません。イエスも言われました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5:23-24)

このように、詩篇の真理は時代を超えて、私たちに希望と生きる目的を与えます。神の言葉を時代背景や原語を学びながら読むと、さらに正しい理解と生き方を見いだすことができるのです。

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