パウロの詩篇
ある日、宗教改革の指導者マルチン・ルターが生徒たちに、詩篇の中で最高の詩篇はどれですかと尋ねられました。そのとき、ルターは何の躊躇も無く「パウロの詩篇」(Psalmi Paulini)だと返答しました。
弟子たちがさらに質問するとルターは詩篇32篇、51篇、130篇、143篇を例にあげ、「これらの詩篇はみな、罪のゆるしが律法の行いによるのではなく、行いのない信じる者に与えられることを教えている。それゆえ、私はこれらを『パウロの詩篇』と呼ぶ。なぜなら、それがパウロの教えのすべてだからだ」と言ったと記録されています。
懺悔の詩篇
ルターがこれらの詩篇を「パウロの詩篇」と呼ぶ800年ほど前から、詩篇の中で7つが「懺悔の詩篇」(詩篇6、32、38、51、102、130、143)と認識されるようになりました。「懺悔」といってもカトリック教会のように、神父に罪を告白し、教会の許しを請うことではありません。
これらの詩篇は、神に対して何かしらの罪を犯した人が悔い改めることによって、神の赦しと回復の希望を確信するために書かれています。ですから、これらの詩篇の内容は罪を犯した人をさらに責める内容ではなく、罪を悔い改めた人の心を慰めるものとなっています。
「都上りの歌」について
詩篇130篇は、「都上りの歌」と説明されています。詩篇120-134篇には、すべてこのタイトルがついています。この特別なタイトルがどのような意味があるのかは未だに解釈が分かれています。
「上り」と訳されている言葉(「マアラー」)は、「上に向かう」、または「段を登る」という意味があります。ある学者たちは、これらの詩篇のメロディーが低い音から徐々に高くなる書かれ方がされていた、「上に向かう歌」、または歌詞が高音で歌われていたと考えます。
また、ある人たちは「都上り」と訳されているように、ユダヤ人たちが聖都エルサレムに上って行く旅路で、礼拝の心を整えるために歌った祈りと賛美のコレクションだと考えます。イスラエルの民はしきたりに従ってエルサレムの町を毎年3回訪問し、神殿でいけにえを捧げる習慣がありました。また、エルサレムはイスラエルの中央にそびえ立つ山脈の頂上に位置しています。そのため、誰でも聖都を訪ねる人は必然的に上に登る必要があったのです。
この二つ以外にも複数の解釈がありますが、これらが他よりも正しい可能性の高い解釈だとされます。
後者の考えが好ましい理由は、これら15篇の詩篇の共通点として「シオン」(エルサレムの別名)に対する関心が非常に強いことが挙げられます。都上りの歌の中で7つの詩篇(125、126、128、129、132-34)が「シオン」という言葉を使い、詩篇122篇は「エルサレム」という言葉を使います。詩篇130-31篇は「イスラエル」という言葉を、神を礼拝するユダヤ人たちに当てはめます。ですから、これらの詩篇を歌いながら、聖都エルサレムに旅することによって神の恵み、神の赦し、神の誠実さを思い起こすことができたと思われます。そして、いけにえを捧げる時には、すでに感謝の心が家族中に満ちあふれ、そのような素晴らしい神とつながれる喜びを、いけにえという形で表現することができたのです。
もし、前者の「上に向かう歌」の意味なら、その意味の大切さは失われています。なぜなら、これらの詩篇がどのようなメロディーで歌われていたか誰も知らないからです。もし、後者で考えるとするなら、私たちも、これらの詩篇を礼拝に行く前に歌うことによって神の恵みの大きさを再確認することができます。
詩篇130篇
詩篇130篇は、3つの段落で構成されています。そして、それぞれの段落は、各段落の主要動詞によってまとめられています。それらをまとめると、この詩篇の3つのポイントは、次のようになります。
1. 主を呼び求める (1-4節)
2. 主を待ち望む (5-6節)
3. 主に期待する[待つ] (7-8節)
主を呼び求める
130:1 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
著者の祈りが主に捧げられている場所は「深い淵」と訳されています。おそらく、この「深い淵」は罪を犯した人が自分の行いによってもたらした辛い状況のことを指しているのでしょう。ここで「深い淵」と訳されている同じ言葉が、「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています(詩篇69:2)」という聖句の中で「大水の底」と訳されています。これらの訳の共通点は、自分の力では抜け出すことができない状態、または希望のない状態を指します。
130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
この節では、同義型パラレリズムを使うことによって、著者がどれほど真剣に主を呼び求めているのかが伝わります。ヘブライ語で明確に書かれているパラレリズムも、訳によっては見えなくなってしまいますが、実際には下記のように書かれています。
主よ | 私の声を | 聞いてください |
あなたの耳を | 私の願いの声に | 傾けてください |
始めのパラレル(対句)は、「主」と「あなたの耳」です。一列目では、著者が主に訴えかけていますが、二列目では特に人の声を聞き取る器官に焦点を当てます。もちろん、主に耳はありませんが、擬人法を使うことによって著者がどれほど主に聞き入れて欲しいのかが伝わります。
二つ目のパラレルは、「声」と「願いの声」です。一列目は著者の発する声を指しますが、二列目はただの声ではなく願いの声です。彼が神に懇願している内容に心をとめて欲しいと強く願っているのが伝わります。
最後のパラレルは、「聞いてください」と「傾けてください」です。一列目は、声の存在に気付くということですが、二列目は、その声に関心を持ち、その願いのリクエストに応答して欲しいという気持ちが表現されています。
これらの表現を用いることによって、どれだけ著者が「深い淵」の中で切羽詰まっているか、窒息しそうになっているのか、そして、どれだけ解放を望んでいるのかが当時の読者たちに伝わったのです。
130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
しかし、著者はここで大きな発見をします。それは、彼の呼び求める主が聖い存在であり、その存在に罪を犯し続けた状態であれば、その主を呼び求める資格がない、ということです。
ここで「不義」(「アウォン」)と訳されている言葉は神の基準から外れたことを指すだけではなく、それによって与えられる責任を強調します。そして、「目を留める」という表現は、「記録を残す」、または「帳簿に付ける」という意味があります。
つまり、もし主が私たちの行うすべての違反とその責任を一つ一つ記録し、それらを毎回持ち出されるのであれば、誰一人として神の前に立ち、救出を期待することはできません。なぜなら、罪を持っている私たちは、軽々しく、または馴れ馴れしく聖なる神と接することができないからです。もし、神が私たちの罪を記録されるのであれば、誰一人主の御前に立つことができないことをこの節は教えます。
130:4 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
しかし、著者は同時に異なる発見をします。それは、聖なる主があわれみのゆえに罪人を赦してくださるという現実です。行いもない状態で、主のあわれみを請いて呼び求める人を退けない主の恵みを読んだルターがこの詩篇を「パウロの詩篇」と名付けた理由がわかります。
主がそのように赦される理由は、主が人に恐れられるためです。
聖書には二種類の主に対する「恐れ」が書かれています。一つは、罪人の恐れです。まことの生ける神に対して罪を犯すことは非常に恐ろしいことであり、生きている人と死んだ人を両方裁く権利を持っておられる「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです(ヘブル10:31)」と聖書に書かれているとおりです。このような「恐れ」は幼稚な恐れであり、神に敵対しない人は持つ必要が無い恐れです。
この詩篇で語られている「恐れ」は二つ目の「恐れ」であり、聖徒の恐れです。この恐れは自分の罪から発するのではなく、主のあわれみから発します。聖なる存在に対して罪人が持つ恐怖ではなく、聖なる存在に愛され、受け入れられる恵みから湧き出る自然な尊敬と慎みの感情です。
二つの「恐れ」の違いを理解することによって、私たちは罪を犯さなくなると聖書は教えます。出エジプト記20章20節でモーセはイスラエルの民に「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです」と言いました。ここで、「恐れ」という言葉が二度登場しますが、二つの異なる使い方がされています。一つ目は、主に対して恐怖心を抱いてはいけないということです。主が来られたのは恐怖心を植え付けるためではなく、彼らの中で健全な恐れ、つまり敬意、慎みなどが生まれることによって彼らが主に対して罪を犯さないようになるためであると言うのです。
罪人の恐れは、罪から生まれます。しかし、聖徒の恐れはあわれみから生まれ、主に対して罪を犯す生き方を選びません。
主に対して罪を犯し、その罪に悔いた心の持ち主の声を主が聞き入れてくださる理由は、罪人の力によるのではなく、主のあわれみによるのです。そして、そのような人の祈りの声に主は必ず耳を傾けてくださるのです。
現代の教会でこの詩篇を実践する
キリストが罪人の友であることは聖書が教える素晴らしい真理です。しかし、この「友」という表現を軽く扱う傾向が教会の中で多く見られます。イエスを人間と同等レベルの親友とイメージすることによって、主に対する身近さを求め、距離感、または恐怖心をなくそうとします。しかし、その代価として主を正しく恐れるという考えも薄れてしまっている現実があるのではないでしょうか。
主が私たちを友と呼んでくださる時、それは一般的な「友情関係」と異なります。アブラハムは、「神の友」と呼ばれましたが、一度も神は「アブラハムの友」と呼ばれていません。キリストの友とされる関係も同じように特別であり、一方的な関係であることを聖書から学ぶことができます。
キリストは、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です(ヨハネ15:14)」と言いました。この友の定義をもとに私たちもイエスに向かって、「イエスさま、あなたも私の命じることをあなたが行うならあなたも私の友です」とは言えません。
私たちが主の友であると言えるのは、私たちが主に従っている、また主を恐れている結果です。決してキリストが自分たちと同等であるからではありません。ここでキリストが語る「友」は「しもべ」と対比されています。主人はしもべにすべてのことを明かしません。しかし、キリストは私たちをしもべとして見られるのではなく、友として見てくださることによって父のみこころを私たちに明かしてくださるのです。
ですから、キリストの友となるということは、友情関係というよりも「愛によって成り立つ信頼関係」が強調される関係を持つということになるのです。
正しい信仰生活は、神を正しく理解することによって成り立ちます。無限の神をすべて正しく理解することは人間にとって不可能なことです。しかし、神が示してくださる聖書の言葉を正しく理解することは神の願われることでもあり、それが主を正しく恐れる聖徒の恐れにつながるのではないでしょうか。