神は人間を礼拝者として創られたと聖書は教えます。礼拝者として創られたということは人間の本能に礼拝する性質が組み込まれており、無意識であったとしても自然に礼拝するように、いや礼拝しなければいけないように創られているのです。その結果、礼拝とは宗教をしている人たちだけがすることではなく、すべての人が自然に行っているものなのです。
大切なことは、私たちがどのように礼拝しているかではなく、「何を」礼拝しているかです。
聖書が教える礼拝とは、教会に行って歌を歌ったり、祈ったりすることではありません。それらの形を通して、礼拝の役割を果たすことはできるかもしれませんが、本当の礼拝とは「言葉や生き方を通して心が認める礼拝の対象の価値を形にする」ことです。
私たちの心は、誰から教わらなくても自分たちに価値を与える、または安心と安全を約束するものを礼拝します。まことの神を見いだし、礼拝する人は、その神の価値と偉大さに相応しい礼拝を捧げます。その礼拝は、多くの場合、口先によるだけのものではなく、自分たちに委ねられている時間やお金や能力の投資の仕方によって形になります。
仕事が自分に価値を与え、安心と安全を約束してくれると信じる人は、自分に与えられている時間や能力をすべてそのために捧げます。自分の子どもがそれらを与えてくれると思う人は、生活のすべてを子ども中心に計画します。その人たちの心の中では、仕事や子どもが「偶像」になっているのです。
人が自分の心で選ぶ「偶像」はそれぞれ異なります。しかし、 人間は常に何かを礼拝しており、常に礼拝するに相応しいと心が決めたものに、自分たちの人生を捧げるということは変わりません。
聖書は、私たちが礼拝者として創られたことを教えるだけではなく、私たちが礼拝するものに私たち自身が似てくることも教えています。詩篇115篇、ならびに詩篇135篇はこの事実を明確に教えます。
詩篇115篇の背景
この詩篇はイスラエルの民が敵国に囲まれていた時に書かれたものだとされます。彼らの生存がかかっている状態の中で、著者は神を呼び求めます。そして、神が彼らと結んだモーセの契約の約束どおりに、主に信頼する彼らを敵の手から救い出してくださることを祈ります。そのことによって、イスラエルの神は存在しない、またその民を守る力がない、と主の名を冒涜する人たちの口が塞がれることを求めたのです。(具体的な説明は、前回の記事を読んでください)
この詩篇の大きな目的は、主に信頼する知恵と偶像に信頼する愚かさを比較することです。天地万物を創られたまことの神と人間の手によって作られたいのちのない偶像の力の差を改めて考え直すことによってまことの神に信頼することがどれほど正しいのかを思い起こさせます。
詩篇115篇3-18節
115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
この節は、詩篇2篇1-4節に書かれている内容と似ています。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。(2:1-4)」
聖書は天と地が遥かに離れているように、この地上の王たちと天の御座に着かれている王の間にも遥かにかけ離れた権力の違いがあることを教えます。天にいる王は、主であるゆえにその望むことを何でも、いつでも行うことができる権力(主権)を持っているというのです。
ですから、イスラエルが窮地の状態に追い込まれているのも天の王の計画があるからであり、人間の王が主よりも強いためではありません。まことの神はその主権によってその状況をすぐにでも覆すことができます。しかし、このような状況でなければ神に目を向けない不信仰な神の民に神の誠実さと恵みを示されようとしているのです。
そのような主にくらべ、人間が作り上げる偶像には力もいのちのもありません。ただの金属で作られた偶像が勝利を与えてくれると信じる敵の確信には何の根拠も保証も無いのです。
115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
115:7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
ここで、この詩篇の著者は偶像に信頼する人たちを風刺します。
まことの神は、人のように口や目を持っていなかったとしても、神の意思をその民に告げ知らせます。また、人の状態をご覧になられ、行動を取られます(創世16:13、詩33:13)。
耳や鼻がなくても、神の前でへりくだる人の祈りを聞かれ(創世21:17、詩34:15、2歴代7:14-15)、香ばしい捧げものの香りを楽しまれます(創世8:21、民15:3)。
主はその力強い御手によってイスラエルをエジプトから救い(出エジ7:4)、その手が地を触るとそれが溶け始め(アモス9:5)、山を触られると煙が立ち上ります(詩104:32、144:5)。そして、神はこの地上を歩くことができるとも書かれています。(創世3:8)。
人間と同じ肉体を持っていない神に、人間の器官や肢体を与えて表す詩的表現を「人間形態化」、または「擬人化」と呼びます。しかし、これらの表現の背後には一切の根拠がないというわけではありません。手足が無くても、神が人を導かれる、または共に人生を歩まれることには違いがありません。神に耳という器官がなくても、祈りを聞いてくださる事実には変わりがないのです。
それにくらべて、偶像は「のどがあっても声をたてることもできない」と書かれています。それは、「口があっても語れず」とは異なる表現です。口で語るということは、理性を働かせて人間の言語で語るということです。それと比べて「のどで声をたてる」というのは理性が無い動物でさえ出すことができるうめき声や鳴き声のことです。
そのように命がなく、動くこともできない金属の固まりに信頼することよって、それが 自分たちのいのちを守ってくれることができるのか、と著者は問いかけるのです。
115:8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。
その結論は、偶像を造る者も、それに信頼する者も、偶像と同じようになるということです。「これと同じである」と訳されている表現は、「これと同じようになる」と未来形として訳される方が文法的に正確です。
ここで、偶像を礼拝するとそれと同じようになると書かれていますが、この詩篇の文脈を正しく理解すると、その人たちが偶像の外見に似てくるという印象よりも、偶像に命がないように、それに信頼する者も 偶像と同じようにいのちが宿っていない状態になることを指しています。それは偶像には人を救う力がないからです。
115:9 イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
115:10 アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
115:11 主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
この詩篇の著者の願うことは、イスラエルの民全体が主に信頼することによって神の救いと誠実さを体験することです。つまり、偶像に助けを求めることによって命を落とすのではなく、神に信頼して神の御名の素晴らしさを体験することを求めるのです。
ここでも詩篇で頻繁に登場するパラレリズムが使われています。ここで、「イスラエル」とは、神が契約を与えたアブラハムの民族的子孫のことを指します。「アロンの家」とは、祭司の責任が与えられている家系のことで、イスラエルの民が契約の律法を守っていることを確認し、そのことによって彼らが神の前で契約の祝福を体験できるように働く人たちでした。そして、「主を恐れる者たち」とは、アブラハムの子孫ではないが、彼らの神を恐れ、契約の祝福を体験できるように、モーセの律法を守るイスラエルの民に足されたいと願った異邦人のことを指すと考えられています。
つまり、神と契約を結んだすべての人が主に信頼することによって主が民全体に与えた契約の祝福が災いに変わらないように願うのです。
115:12 主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、
115:13 主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。
115:14 主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。
115:15 あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。
神の誠実さに確信を持った詩篇の著者の言葉に耳を傾けることによって、偶像を取り除き、まことの主により頼む根拠を示された民は、一つの民として主の前にへりくだりました。民全体が主を恐れ、モーセの律法に従ったことを前提に神の祝福を確信したのです。
彼らの信仰の土台となったのは、申命記28章で与えられている契約の約束です。
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。(28:1-7)」
この短い箇所だけで「祝福」という言葉が5回も登場するということは、彼らが一つの民となって主の期待に応えたことを表しています。繰り返し述べているように、モーセの契約は個人との契約ではなく、民全体との契約でした。そのため、神の祝福も個人ではなく、民全体に与えられるものとして考えられていました。その結果、すべての民が主に従う決心をしたことによって民全体が敵の手から救われる確信を持つことができたのです。
115:16 天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。
115:17 死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。
115:18 しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。
この箇所では天地万物を創られたまことの主が地上の管理、また神の御心をこの地上で前進させる責任を人間に委ねられていることを教えます。そして、 神の救いと誠実さを体験した民が、残りの人生を用いてこの地上にいる間にしか果たすことのできない責任を果たすように教えます。その責任とは「主をほめたたえる」ことです。
ここで多くのクリスチャンは「死んだ者が主を誉め称えることができない」という表現につまずきます。現代のクリスチャンは、「主をほめたたえる」という表現を聞く時、それをすぐに礼拝と結びつけます。そして、私たちは死んだ後も永遠に神を礼拝すると考えます。その結果、「死んだ者が主を誉め称えることができない」という表現を聞くとそれが間違っているように感じるのです。
しかし、そのような印象を受けるのは、私たちの「主をほめたたる」という表現の理解が偏っているからです。聖書を読み返すと、「主をほめたたえる」理由は主を礼拝するだけではなく、その賛美の重みを通してこの世に神の存在と救いの力を証明する役割があることを学びます。つまり、「主をほめたたえる」ことは、その人たちの信仰の証しと救いの喜びを通して、この世が神の真理を知り、神の存在と偉大さを発見する、神の選ばれた手段の一つなのです。
実際、聖書に死人は賛美ができないと何度も書かれています。
「あなたは死人のために奇しいわざを行なわれるでしょうか。亡霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの恵みが墓の中で宣べられましょうか、あなたの真実が滅びの中で。あなたの奇しいわざが、やみの中で知られるでしょうか、あなたの義が忘却の地で。(詩88:10-12)」
「私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。(詩30:9 、参照118:17)」
また預言者イザヤも「よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます(38:18-19)」と教えます。
ですから、これらの箇所を読むといくつかのことを発見します。
一つ目は、「主をほめたたえる」ことが同義型パラレリズムによって「主のまことを告げる」を同一扱いされているということです。そのことによって、主をほめたたえることは、主のまことを他人に告げることと結びついているという理解が当時の人たちの間にあったということです。
つまり、イスラエルの民にとって神をほめたたえる理由は神の喜びのためだけではなく、神の約束の内容、そしてそれを体験した後の証しなどを通して、次世代の子供たちに、または神の民と接点を持っている異邦人たちに神の真理を伝えることだったのです。
二つ目は、もし「主をほめたたえる」動機が自分の周囲にいる人たちに神の真理を語ることなのであれば、その働きはこの地上で生かされている間でしかできないということです。
新約聖書の「ラザロと金持ち」(ルカ16:19-31)の話しのように、一度死んでしまったら、地上に戻って自分の大切な人たちに神の救いの力について伝えたいと願ってもすでに手遅れであるという考えと同じです。
事実、イエスご自身が、死んだ状態では果たせない神の働きがあることを教えています。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます(ヨハネ9:4)」。
この考えは、この詩篇を締めくくる最後の言葉である「ハレルヤ」の一言によって立証されます。ヘブライ語で「ハレルヤ」という表現は、2人称複数形の命令です。ですから、「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえます」という意味ではなく、「あなたがたが主をほめたたえるように」という意味です。
時に、「ハレルヤ」という言葉が間違って使われていることがあります。礼拝のプログラムで礼拝のムードを盛り上げるためや、リーダーの人が場繋ぎの言葉として使うことを目にすることがあります。しかし、この言葉は主の約束に信頼し、生活の中で主の恵みの力を体験した人だけが周りの人たちに求めることができる言葉です。
「平和と自由は何よりも大切だ」ということを戦争に行って戻ってきた人がいうのと、一度も戦争を体験していない人がいうのとでは言葉の重みが異なります。
同じように、「ハレルヤ」と周りに命じることも、その言葉を発する人の体験、または会衆の体験によってその重みが異なります。この詩篇を書いた著者は、イスラエルの民の代表者としてこの詩篇を執筆しました。彼らは、敵に囲まれ、絶体絶命の危機に追い込まれていました。しかし、そこで彼らは神の契約の約束を思い起こし、偶像に助けを求めるのではなく、まことの神に信頼しました。それによって、彼らは神の言葉どおりに救われ、生かされたのです。
そのような体験をしたからこそお互いに神をほめたたえよ、と命じることができたのです。そのような体験を通されたこそ、かれらの賛美には説得力があったのです。
教会として学ばされること
1.一つ目は、人間の心は偶像を造りやすいということです。
冒頭に書かれているように、人間は神によって神だけを礼拝するように創られました。そのため、人間の心には神を礼拝しなければ満たされない健全な礼拝欲が与えられたのです。しかし、その直後、人間の心が堕落したことによって、その欲が不健全にねじれ、神以外のものでその欲を満たすようになってしまったのです。
そのため、私たちの心は常に新しい偶像を作り上げる工場のようになってしまいました。古い偶像が自分の期待を裏切ると、新しい偶像を造ることによって自分の歪んだ礼拝欲を満たそうとするのです。
偶像は、今の時代、金や銀で造られた仏像などを指すだけではなく、私たちの心が神以上に価値を見いだすすべてのことを指します。
聖書は、私たちの拝む物に私たちが似てくると教えます。なぜなら、私たちが拝む物が私たちの生活の中心となり、私たちのするすべてがその中心になっているものの価値を讃えるようになるからです。
現代的な例をあげると、子育てが親の偶像になることがあります。もし、ある親がまことの主よりも子に価値を見いだしているのであれば、自然とその親の時間と能力とお金の使い方が神ではなくすべて育児中心になります。そして、一週間のスケジュールから食事の献立まですべて子どもを中心にして組み込みます。そして、神に目を向けるときも、子育ての助けを求めるために祈るか、気づくと教会に足を運ぶのも子供のためになっていることもあります。
しかし、キリストが十字架に架かってくださったのは、私たちが上手に子育てをできるためではありません。返って、子育てにしか生きる目的を見いだせない、または喜びがない生き方から解放するためなのです。子どもは神が与える宝です。しかし、神が望むのは私たちがその宝を礼拝することではなく、その宝の与え主を礼拝することです。そして、その宝を神の栄光が表れる形で管理することです。人によって、その人の心の偶像は子どもではなく、仕事かもしれません。お金かもしれません。ファッションや芸術、エンターテイメントや知識も偶像になることができます。言ってみれば、罪深い心はどのようなものでも偶像にできてしまうのです。
2.二つ目に学べることは、信仰の真剣さや量よりも、信仰の対象の方が大切であると言う事実です。
偶像礼拝者は信仰がないというわけではありません。彼らは、彼らの仕える偶像に価値があり、それらの偶像が私たちに安心と安全、生きる目的と存在価値を与えてくれると信じているのです。
しかし、間違った対象を信じ、礼拝することは人生を無駄にすることにつながります。当時の時代では、彼らを救うことができない偶像に信頼することは、実際のいのちを落とすことでもありました。現代では、そのようなことは一般的にありませんが、それでも人生を無駄なものに捧げることによって、一度しかないこの地上での生活をすべて永遠の視点から見て棒に振ることはできます。
偶像は、文化的に古い人たちだけが拝むものではありません。目に見えない偶像は現代でも多くの人たちによって拝まれています。また、クリスチャンであると告白していても、気付けば心が主から離れて、偶像に仕えていることもあります。
それゆえ、ヨハネは神の家族に属している人たちに、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい(Iヨハネ 5:21)」と警告するのです。偶像を礼拝している人は、神が与えたいと望む祝福を体験できません。そして、この地上で生かされている間に神の誠実さを体験し、それを人前で賛美することによって神の御名の栄光を広めることができません。そのように考えると、偶像礼拝をしている人は、生きているように振る舞っていますが、土に帰って神を賛美できない死人と変わりないと言えるでしょう。
3.最後に学べることは、私たちの賛美の重みは、私たちの信仰の体験と比例するということです。
神に信頼しない、または試練がくるとすぐに偶像に助けを求める人の賛美の言葉には説得力がありません。まして、他人に主をほめたたえるように命じることさえも場違いに感じます。
私たちの賛美の言葉に自分たちの心が動かされないのであれば、その人が神の祝福を体験していないという可能性があります。もちろん、健康や仕事が与えられていることを感謝することはできるかもしれませんが、それらは神を無視して生きる人たちにも与えられる神の一般的な祝福であり、神の家族だけが体験できる祝福と異なります。
神の特別な祝福を体験できないのにはいくつかの理由があります。代表的な理由としては、神の約束を知らない、または間違って理解していることによって正しい確信を持って生活できないというケースがあります。その場合は、聖書の言葉を正しく理解することができるよう、聖書を正しく学べる環境に自分を置く必要があります。
聖書の言葉を知っているがその力を体験しない人たちもいます。その人たちは、神の言葉を知っていることで甘んじ、それを実践していないケースです。イエスご自身が、「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです(ヨハネ13:17)」と言われたように、信仰に行動が伴って初めて祝福を体験することができるのです。
または、偶像礼拝をやめないことによって神からの祝福を得られない人たちもいます。そのような人たちは神を完全に捨てているわけではないのですが、つねに偶像が優先されます。神により頼む場合も、自分の心の偶像が祝福されるように祈ります。しかし、人は同時に二人の主人に仕えることができません。一方を愛し、一方を憎みます。そのことによって、自分の心の偶像が何であるのかを考えない人たちは自然と偶像を愛し、神を利用する姿勢を持ってしまいます。
主をほめたたえることは子供でもできますが、本当に賛美の栄光を輝かせる人の背後には多くの試練と長年の信仰によって増し加えられた多くの失敗と勝利の傷跡が残っているのです。
すべてのクリスチャンが一日でそのような場所にたどり着けるわけではありません。そして、すべてのクリスチャンが同じ道を通されるわけではありません。しかし、どのような道を通されたとしても、もし私たちが神の民から離れず、神の言葉を共に実践するのであれば、私たちは常に新しい主をほめたたえる理由を発見できるようにされているのです。そして、教会全体が神の約束に信頼し、みんなで主の祝福を体験する時に、この世は説得力のある神の存在と偉大さを目撃することになるのです。