ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇115篇 【前半】

詩篇115編は、確信の詩です。主の約束に対する誠実さに著者の命をかけるほど、主に確信することができるという信仰がこの詩の土台にあります。その信仰は、ただの思い込みによるのではなく、事実に基づくものだと教えます。そして、その結果として、主を誉め称え、主に守ってくださるように助けの祈りを捧げるように神の民に訴えかけます。

この詩篇も他の多くの詩篇と同じように、交差対句法によって構成されています。なので、この詩篇の中心は主の御名に信頼することによって与えられる確かな報いに確信をもちなさいということです。

A. 神の民による祈り (1-2節)
B. 偶像の無力さ (3-8節)
C. 主に対する確信 (9-11節)
C'. 主に対する信仰の報い (12-15節)
B'. 主の力強さ (16節)
A'. 神の民による賛美 (17-18節)

神の民の祈り

115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
115:2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。

イスラエルの歴史には数多くの戦いが書き記されています。ユダヤ人たちを根絶やしにしようと企んでいたのは、現代の反ユダヤ主義者やテロリストだけではありません。旧約聖書が書かれた時代にもイスラエルの地を占領しようとする多くの強力な敵国がありました。

この詩篇が書かれた背景もそのような数多くあるエピソードの一つでしょう。敵は、「お前たちを守る神はどこにいるのか」と彼らをけしかけて、彼らを攻め落とす最終準備を刻々と進めているような光景を思い浮かべることができます。敵軍は、イスラエルを守るとされる神が彼らを見放している、また守る力がないとあざけ笑い、彼らの仕える偶像の方がイスラエルの神よりも偉大であると誇っていたのでしょう。

この詩はそのように切羽詰まったイスラエルの民がみんなで心を合わせ、モーセの契約に基づいた祈りを捧げることによって、神の救いへの希望を告白するために書かれたものだと思われます。

モーセの契約とイスラエルの勝利

イスラエルの民には、現代の教会とは異なる約束が与えられていました。なぜなら、彼らはアブラハムの子孫として主と特別な契約を結び、その一環として特別な「律法」という掟が与えられていました。

その契約の内容とは、もし彼らがモーセの律法に書かれているすべてのことを守るなら神が彼らに特別な祝福を約束し、それを万が一破って悔い改めないなら、約束された祝福と対照的な災いを神が与えるというものでした。

そこに書かれている祝福や災いの約束は、現代の教会には与えられていない特別なものでした。戦争に関して言えば、レビ記26章に次のように書かれています。

もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら(3節)...わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる(6-8節)

このような祝福の背後には、彼らの代わりに主ご自身が戦ってくださるという約束があったからです。申命記20章には、イスラエルの民がモーセの律法に従い、契約の義務を果たすなら、主が彼らのために勝利を得させるという約束が書かれています。

あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。『聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である』(申命20:1-4)

ヨシュア記23章では、イスラエルのいくさの勝敗は、彼らの律法に対する従順によって決まることが明確に宣言されています。

「あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである...あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない...主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない...あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。(23:3,5-6,9-16)」

これらの具体的な約束は教会に与えられていませんが、モーセの契約を与えられていたイスラエルの民には与えられていたのです。そして、この約束は、文字通り実際の戦いで果たされました。現代の教会はこの約束を与えられていませんが、当時のユダヤ人たちはこの言葉に信仰を持ち、主が彼らを守り、勝利を体験させてくれると、希望を持つことができたのです。

主の御名に栄光が

敵は、イスラエルの民を守るはずの神は彼らを守る力がないとあざけりました。ですから、著者は、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの御名にのみ栄光を与えてください」と民を代表して祈ります。神の契約に対して誠実な「恵み」(ヘセッド)と約束を破らない主の「まこと」(誠実さ)が侮られないためです。

ここで著者が大切に思っているものは、彼らの身の安全ではなく、神の名誉です。ですから、彼は「私たちにではなく」というフレーズを2回も続けて使います。著者としては、「あなたがイスラエルの民に約束した不変の恵みの約束を彼らが疑っています。そして、彼らはあなたが約束に不誠実であると言っています。だからこそ、私たちのためではなく、あなたが私たちに与えた契約に忠実であり、約束を破られない方であることを彼らに証明してください。あなたをなぶる敵がどれだけ弱く、あなたがどれほど言葉どおりに力強いまことの神であるかを世界中に証明してください」と言っているのです。

イスラエルの王になる前の若きダビデも神の陣をなぶるゴリアテに似たようなことを言いました。

ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。(Iサムエル17:45-47)」

詩篇115篇にも、ダビデのゴリアテに言ったせりふのなかにも、「主の御名」という表現が登場します。では、「主の御名」またそれに「栄光を与える」という表現には具体的にどのような意味があるのでしょうか。一番簡単に説明すると「主の御名」とは、主の呼び名のことではなく、その呼び名の背後にある意味、またはその名前が思い起こさせる神の性質のことを指します。そして、「栄光を与える」という表現は、それを与える存在に「重み」、または「実質」を与えるということです。

名前に関していうと、聖書が書かれた時代では、名前とその人の存在には運命的な深い関連性があったことがうかがわれます。

代表例としては、Iサムエル記25章の物語をあげることができます。そこには、ナバルという金持ちがとダビデ王の家来たちの間で起こった事件が書かれています。ナバルは神を恐れず、その神を代表するダビデとその家来たちに恥をかかせ、恩をあだで返しました。そこでダビデがナバルに復讐しようとしたとき、ナバルの妻のアビガイルが仲介に入り、「ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした(25:25)」 と言いました。

ヘブライ語で「ナバル」とは、愚かさ、罪深さ、聡明さの無さ、などという意味があります。アビガイルは、自分の夫が名前のとおりの者である言いました。ここで、ナバルという名が親につけられたものか、後ほどあだ名としてつけられたものかは知らされません。しかし、この箇所が明かすことは、当時の理解では名前とは、本人の呼び名だけではなく、その人の人格やアイデンティティを指すとされていたことです。

ですから、新約聖書でも旧約聖書でも、神から特別な約束を与えられたり、体験をしたりした人は、自分の名前を変えることによって、自分の新しいアイデンティティや生かされている目的をこの世に示したのです。

アブラムは、アブラハムという名に変わり、ヤコブはイスラエルという名前に変えられました。シモンはペテロに、そして、サウロはパウロに改名されました。それぞれの名前には、彼らの新しい人生、目的、または神の約束が含まれていました。

多くの聖書に登場する人物の名前はただの呼び名ではありません。ですから、主の名前には力がある、という場合、「イエス」という呼び名に力があるのではなく、その名前が意味する真理にあるのです。(イエスの場合、「主は救われる」、「主が救い主」という意味があります)

キリストの名によって祈るときも、同じです。「イエスの御名によって祈ります」というフレーズを決まり文句のように付け足すことで祈りが聞かれるのではなく、キリストとの関係があり、キリストの言葉に基づいたことを神に願っているのだと告白することによって、父なる神が聞いてくださるということです。

ですから、おまじないのように神の名前を唱えれば奇跡が起こるとか、神の呼び名に超自然的な力があると思ってはいけないでしょう。その証拠が使徒の働きの19章に書かれています。神は、パウロの手によって多くの奇跡を行っていました。そこで、ある魔除け奇術師たちがイエスと言う固有名詞に力があると勘違いし、「悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。』と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。』と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった(19:13-17)」と書かれています。

詩篇115篇に戻り、主の御名にだけ栄光が与えられるようにと書かれていますが、ここでイスラエルの民が呼び求める神の名前は「主」(ヤハウェ)です。

これは、神を指す一般的な呼び名ではなく、神とイスラエルの民との間で契られた特別な契約を思い起こさせるために、神ご自身がイスラエルの民に明かされ新しい名前です。神はモーセに「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主(ヤハウェ)という名では、わたしを彼らに知らせなかった(出エジプト6:3)」と言いました。ですから、旧約聖書であえて「主」(ヤハウェ)という名前が使われているときは、モーセの契約に誠実でいてくださる神を思い起こさせることを意識しているのです。(新改訳聖書だと「主」を太文字にすることによってその原語が「ヤハウェ」であることを示します。口語訳と新共同訳は、太字でない「主」を採用しているので区別がつきません)

そこで、主のめぐみとまことのゆえに、その名前だけに「栄光」を与えるということはどのようなことでしょうか。ここで、「栄光」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「カヴェイド」という言葉で「重み」という意味があります。この言葉の形容詞形は、預言者サムエルの師であったエリが肥満であったことを指すのに使われることもあり(「彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである(Iサムエル4:18)」)、重量感、存在感のことを指します。

ここで著者が求めることは、イスラエルの神を冒涜する敵国が、主がイスラエルの民に示される契約に基づいた恵みと誠実さを目撃することによって、イスラエルの力ではなく、彼らのために戦ってくださる神の存在の大きさに圧倒されることです。

つまり、「主の御名だけに栄光を帰す」ということは、イスラエルに恵みの約束を与えた主がその約束どおりにイスラエルのために戦い、その誠実さを国々に証明するために、イスラエルを愛し、救われるというヤハウェの名声を世界にはせることです。

教会として主の御名について考える

「御名」という言葉は、クリスチャン文化の間で一人歩きすることがあります。主の御名に感謝する、主の御名を誉め称える、主の御名は麗しい、主の御名には力がある、などという表現を教会の中でよく耳にしますが、その意味をよく理解しないで使っている人たちが、比較的多いのではないでしょうか。

私たちを創造された存在はあまりにも偉大すぎて私たちの力では理解することができません。そのような存在をどのように呼び求めていいのかさえ分かりません。そのような時に、神がご自身の名前を教えてくださる時、それらの呼び名の背後にはまことの神がどのような方であるかを指摘する意味が含まれています。

同じ女性が「娘」、「妻」、「妹」、「母」などと異なった呼ばれ方ができるのは、その人を呼ぶ人と本人に異なった関係があるからです。そして、その呼び方によって異なる責任、または親密さが見えます。

それと同じように、一つの神が複数の名前でご自分を表すのは、それぞれの呼び名にその名を与えた人たちとの特別な関係、または責任が含まれているからです。

旧約聖書には、神を呼び求める時の異なる呼び名が、最低16個書かれています。そして、時と場合によってその場で相応しい呼び名を選ぶことによって、その人が呼び求める神がどのような方であるか思い出し、神がその名前の通りに応答してくださることによって、神の誠実さと恵みを体験できます。そして、主がその呼び名どおりに答えてくださったことによって、神の力を体験し、その御名に栄光を与えることができるようになるのです。

私たちは、どれだけ神が明かされるご自身の名前の意味を知っているでしょうか。また、それらの名前に信頼することによって神の誠実さを体験しているでしょうか。

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