ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇73篇13~28節

詩篇73篇の著者アサフは、まことの神を主と認めない人たちの成功を見て、信仰が揺らぎました。もし悪が栄え、善が苦しむことを神が許されるのであれば、モーセを通して与えられた契約の約束が無視されていると感じたのです。そして、神が契約の言葉を守らないのであれば、それに従って生きることには価値がないと結論しました。

73:13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。
73:14 私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。

アサフは、同義型パラレリズムを使って、彼の主に捧げた生活のすべての面が無駄であったように感じたことを表しています。

「心」と訳されている言葉は、人間の思いと動機を司る器官として使われる言葉です。そして、「手」とはその思いを行動に移す手段です。つまり、アサフは内面も外面もすべて主の栄光のために捧げたことがむなしかった、と感じているのです。「きよめる」、また「洗う」というのは、神に仕える祭司たちが神の前に立つ時に必要とされた儀式のことですが、ここではアサフの道徳的な生き方のことを指しています。

14節では アサフが被害妄想に陥っていることが分かります。自分のことしか考えることができなくなった彼は、常に自分が責められ、辛い生活を強いられているように感じていました。自分だけが辛い思いをしていると感じ、朝ごとに挫折感を味わっていたのです。

73:15 もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。
73:16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。

15節は、もしアサフが感じていたことをそのまま公に告白したら、彼を礼拝の指導者として敬っていたイスラエルの民全体がつまずくぐらいのスキャンダルになるだろうという意味です。彼の気持ち、彼の仕事、彼の信仰、彼の将来。それらのことをどう整理すればよいのか…。考えても、あまりにも複雑であるために、苦役であったと続く16節では述べています。

しかし、17節から彼の心の思いは大きく変わり、神の現実の世界に立ち返ることができるようになりました。彼は、大切なことを悟ったのです。

73:17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

彼は、「神の聖所」に入ったと書かれています。これは、ただ霊的に神の御前に立ったというだけではありません。「聖所」が複数形で書かれていることから、実際に、幕屋、あるいは神殿の境内に入ったということが分かります。そして、そこで祭司たちが聖書から罪人のたどり着く滅びについて語っているのを耳にして(参照:詩篇1、11、12、37、112など)、彼らの最後を悟ったのではないかと考えられます。

73:18 まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。
73:19 まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。
73:20 目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。

アサフの心が変わったのは、自分の内面を見つめて悟りを開いたからではありませんでした。自分の中にはない、神のことばを聞いたことによって真理を悟ったのです。

この18-20節の大切な点は、神を無視して成功している人たちの成功は一時的でしかないということ。彼らの人の目から見た成功は神の目から見れば破滅のもとでしかないということです。

神に信頼する人は、揺るぐことない土台の上に立たされます。しかし、自ら神を否定し、侮る人は「すべりやすい所」に立たされます。彼らの成功はほんのひと時にしか過ぎず、少し目を離したら足を滑らせ、底のない暗闇に転落するのです。

誰かが夢から目覚めたとき、その夢の記憶には実質が伴いません。同じように、彼らの成功を神の目から見た時、それはまるで夢のように、実質がないと書かれています。20節で彼らの「姿」と訳されている言葉は、詩篇39:6(「まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。」 )においては「幻」と訳されています。

罪人は、偶像礼拝をして、この地上での成功を収めます。そして、その成功の度合いが自分の偉大さの度合いであると考えます。しかし神は、彼らの成功は夢と同じほどの実質しかなく、彼らの価値もそれに比例すると教えます。

73:21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
73:22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

アサフの抱えていた問題は、彼の環境解釈にあったのです。アサフは、自分が「愚かで、わけまえがなかった」と告白します。彼が主の前で獣のようだったというからです。聖書は、動物には人間のような理性が働かないことを教えています(参照:IIペテロ2:12、ユダ1:10)。

ここでのキーワードは「主の前で」ということです。本当の現実の世界は、まことの神がすべてを治められている世界です。しかし、アサフはその現実を忘れてまわりの状況を解釈していたのです。もちろん、アサフは偶像礼拝者のように神の存在を否定することはしなかったでしょう。しかし、アサフの頭の中で思い描いていた神の姿は、現実の神とは異なる、アサフの想像によって作り上げた小さな存在だったのです。

73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

アサフは、理性を放棄して、神のことばではなく自分の解釈や印象に信仰を置いてしまいました。アサフは、「まことの神が約束に誠実ではない」という空想の世界観を描いていました。それでも、神はアサフから離れず、アサフの手をしっかりと捕まえられていたのです。偶像礼拝者の足が滑りやすい場所に置かれるのと対照的に、神の家族とされた人との運命の違いが表現されています。

73:24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
73:26 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
73:27 それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。
73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

24-28節には、アサフの不信仰や疑問が、かけらも見当たりません。すべての問題が解決していない状態で、アサフは悩みから解放されたのです。偶像礼拝者たちのこの世の成功はそのまま続いています。しかし、アサフの目は神だけに釘付けになり、神の近くにいる、そしてそのことによって与えられる本当の安心感と安全観の中で心を休めることを見出したのです。

詩篇の中でも、これほど美しい信仰の表れはないかもしれません。しかし、これらの結論にたどり着くまで、著者の心は苦しみ、神の誠実さに対する疑いと奮闘しなければいけなかったのです。

アサフが美しい賛美を捧げることができたのは、彼の生活のすべてが順調にいっていたからではありません。その美しさの背後にある自分の罪の自覚、神の言葉の確かさ、そしてそれをそのまま受け入れる信仰が、すべてアサフの心の中で交差したことによって生まれたのです。

詩篇73篇を現代人にいかすには

この詩篇を読んで、現代人として考えさせられることが多くあります。その中でも、大切なことを3つあげてみたいと思います。

1.経済的社会的成功についての認識

人によっては、クリスチャンとして成長すればするほど、健康と経済的な祝福に恵まれると信じている方がいますが、そのようなことは聖書には約束されていません。

アサフは、神の民の霊的指導者でした。にもかかわらず、彼は「一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた」という精神状況に追い詰められるほど、罪人の成功を嫉妬する状態に陥りました。

聖書は経済的や社会的優位者からの視点ではなく、主のために迫害され、この世の富や快適さを放棄した人たちの視点から書かれています。しかし、聖書を、経済的・社会的に成功している人たちが解釈するとき、自己改善や成功の秘訣の教科書であるかのように利用されることがあります。

キリストは33歳で十字架に架かり、弟子たちはヨハネを除いてみな若くして殉教しました。パウロが数回に渡って、小アジアやヨーロッパを巡ったのは貧しいエルサレム教会の信徒たちの必要をまかなうため、献金を集金するためでした。その目的のために捧げた教会も極度の貧しさを体験していた人たちでした。

キリストに習う者として、クリスチャンは、貧しい人たちや社会的に追い込まれた人たちと共に歩みます。そして、この世での賞賛と成功のためにイエスを告白するのではなく、イエスを通して神の近くにいることのできる幸せと、私たちが罪を犯しても私たちの手を離さない主の恵みを知り、イエスを救い主として告白するのです。

2.クリスチャンとしての心の態度

二つ目に大切なのは、クリスチャンは他人の罪を批判したり、彼らの成功を羨むことに時間を使うのではなく、自分の罪に敏感になり、主の目から見て成功した人になることを目指すということです。

アサフは、偶像礼拝者の罪や傲慢に対して敏感でした。同時に、自分の心の中にある嫉妬や間違った世界観に対しては鈍感でした。

すべての人は罪人です。人は個性や環境の差によって、異なる種類の罪を犯します。他人が自分と異なる種類の罪を犯すからといって、その人たちを裁いたりすることは、クリスチャンのすべきことではありません。

他人の罪に焦点を当てるのではなく、その人たちのために祈り、自分自身も悔い改める。そして、他人の成功を羨ましがるのではなく、主が自分の近くにいてくださる幸せが何よりも優れていることを聖書のみことばから学び続けることが信仰のあるべき姿なのではないでしょうか。みことばから離れると、アサフのように間違った世界観と現実感の中で苦しむことになります。

3.神のことばを通して諭される

そして、最後に学ぶことは、神のことばがなければ、私たちは何が現実であり、真理なのかを理解することができないということです。

ギリシャ語で「真理」と訳される言葉は、同時に「現実」という意味を持っています。つまり、神の真理は、この世界の現実であるという考え方です。ですから、聖書がなければ私たちは何が現実であるのかを知ることさえできないのです。

アサフは、彼の身の回りの環境を観察し、自分の感性や常識に頼ってものごとを解釈しました。彼は自分の理性に信頼して自分の感情と信仰を導こうとしました。しかし、そもそも神のことばから離れた世界観が出発点になっていたため、間違った結論しか生み出すことができなかったのです。

彼が信仰を捨てようと考えた状態から喜びと希望にあふれた礼拝者に変えられたのは、神の神殿に入り神のことばを聞いたことがきっかけとなりました。それまで、アサフは聖書を知らなかったわけではありません。ただ、彼の限られた視点や考えではバランスがとれていなかったのでしょう。アサフは、恐らく新しいことを学んだのではなく、神殿に行って、それまで忘れていたことを思い起こさせられたのでしょう。

私たちは常に新しいことを学ぶ必要はありません。私たちは、すでに知っていることを常に思い起こさせられる必要があります。キリストの十字架、福音の目的、神の家族に属しているアイデンティティ、その中で隣人を愛するライフスタイルなど、頭で理解していることを、日々の生活の中で聖書から諭される必要があるのです。そして、何よりも信仰によってそれらを行動に移すことによって神が喜んでくださるのです。

アサフは、私たちのよい見本です。この詩篇73篇は、忘れてしまいがちな大切なことを思い起こさせてくれる詩篇です。神の前で、神に仕えることは決して無駄になりません。そして、たとえ私たちの信仰が揺さぶられたとしても、常に私たちの手を離さない主がおられるのです。

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