ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇73篇4~12節

詩篇73篇の著者アサフは、イスラエルの民の指導者でした。イスラエルの民は、モーセの契約によって神から特別な祝福と災いの約束を与えられていました。まことの神を彼らの主として礼拝し従えば、天から数えきれないほどの祝福と救いを体験し、もし神から離れ、偶像に従えば数えきれないほどの災いと滅びが降り掛かるというものでした。契約をいただいたイスラエルの民は、神に仕えることを選ぶ責任があり、それを放棄すれば自己崩壊につながると信じていたのです。

しかし、主に対するアサフの信仰は揺れ動かされていました。神の契約の約束が完全に果たされていないと感じ始めたからです。神を主とするイスラエルがあわれみを受けているのと同じように、神を主としない人たちも、あわれみを受けているのではないか。また、多くの場合、神を恐れている人たちよりも、神を恐れない人の方が苦しみも悩みもない喜びの生活を送っているではないかという疑念が生じていたのです。

アサフは、自分に与えられているものと、神を主としない人たちに与えられているものを比べ始めました。そして、彼らの生活が自分よりも優れていると見、神に仕える生き方が最終的に無駄であるように感じ始めたのです。

詩篇73:4-16は、そのようなアサフの心の混乱と葛藤を正直に告白しています。そして、神の礼拝者であったとしても、どれほど簡単に神から心が離れやすいかを表現しています。

詩篇73:4-12

73:4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。
73:5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。

アサフはまことの神を主と認めない人々を観察しました。彼らは、生活の苦しみを知らず、健康も守られ、ついには神がいなくても人生に何の影響もないと断言できるほどすべてが整えられているように見えました。

アサフは、偶像礼拝者たちを見て、

彼らの死には 苦痛がなく
彼らの体は 脂ぎっている

と言いました。ここで「苦痛」と訳されているヘブライ語は、「縛り」(参照:イザヤ書58:6)という言葉で、人生の喜びを制限する苦しみや痛みのことを指します。体が脂ぎっているというのは、必要以上の食べ物と富が常に備えられていたことを指します。体脂肪が少ないことが良いとされる現代日本文化と異なり、冷蔵庫もなく、食べ物の調達が困難だった当時、脂肪があることは富を持つ象徴だったのです。

彼らは、神の基準によって生活をしません。そのため、安息日や食物規定を守らず、弱者から搾取するなど、律法に逆らうことで楽をしていたのかもしれません。神に背いている人たちが何も苦労をしないで、神の祝福の約束を与えられているはずのイスラエルの民より楽な生活をしているのではないか。アサフがそのように感じていたことが、この同義型パラレリズムから分かります。

73:6 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。
73:7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。
73:9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

偶像礼拝者は、まことの神に仕える人の心に嫉妬心を引き起こす力を持っています。偶像礼拝者が神を無視しながら楽しんでいる姿を見て、時に義人の心が揺れ動かされるのです。

6節 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。

アサフが彼らを観察した時にまず目撃したのは、彼らの高慢な心です。趣味の良い人のファッションセンスが身に付ける洋服に反映されるように、人間の心にあるものは、その人の態度に現れます。首飾りとは、自分を飾る誇りです。また、着物とは他者がその人を見た時、まず始めに目に付くその人の自己表示です。

偶像礼拝者は、神の御顔に拳を突き上げる姿勢を自分の誇りとし、彼らの第一印象(着物)は暴虐であるということです。ここで暴虐と訳されている言葉は、「悪」や「偽りの証言」と訳されることもあり、自分に都合の良い嘘をつくことや、暴力を振るって他者に危害を与えることを指します。

7節 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

7節に書かれている表現は、多くの学者を悩ませており、実際にどのような意味があったのか定かではありません。しかし、この節も同義型パラレリズムで書かれているので、彼らの内側にある心の思いが高慢や暴虐という外側の態度に現れていることを伝えたいことが分かります。

8節  彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。

アサフは、彼らを観察し、彼らは神のように語ると表現します。「高い所」とは、「権威のある場所」という意味で、多くの場合偶像がまつられていた場所を指します。おそらく、彼らは自分たちが神であるかのように考え、神とその民をばかにしていたのでしょう。

9節  彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

また、「その口を天にすえ」というのは、偶像礼拝者をとても大きな巨人にたとえた表現です。まるで口が天にあり、あごが地上に届いている巨人の様子です。その大きな口で神の必要性を否定した言葉は、世界の果てまで届くほど広がっていると言っているのです。

73:10 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。

多くの学者の間で、この節は詩篇全体の中でおそらく一番解釈するのが難しいといわれる箇所です。なぜなら、この節の「民」が誰を指すのかが文脈の中で明確でないからです。

73:11 こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」
73:12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

アサフの観察はさらに続きます。神を無視してそれなりの成功を収めると、偶像礼拝者は神が必要ないという錯覚に陥ります。この偶像礼拝者は、無神論者ではありません。神の存在は否定しなくても、その神が私たちの世界に関与することがなく、私たちの生活には無関係であると誇っているのです。

アサフは、このように神の律法を無視しても裁かれず、かえって神の民より成功を収めているように見える彼らを眺め、うらやましがるようになり、神の約束に対する誠実さを疑うようになったのです。

信仰生活においてのヒント

クリスチャンの中には、罪に敏感な人が多くいます。しかし時として、自分の心の罪ではなく、他人の罪に敏感である場合があります。

アサフもそのような人間でした。彼は、偶像礼拝者のように罪を犯し、神をあざけることはしませんでした。しかし、神を無視した人の成功を見て、彼らを裁かない神に不信感を抱き、彼らの生活を妬むようになったのです。

殺人や姦淫は大きな罪とされますが、聖書によれば他人の生活を妬む、またはうらやましがることも同じだけの罪です。人を殺してはいけない、姦淫してはいけないと書かれているモーセの十戒には次の命令も含まれていることを忘れてはいけません。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。(出エジプト記20:17)

妬みとは、何らかの次元(所有物、業績、地位など)において、自分の方が優位か同等である、又はそうあるべきだと思っているにもかかわらず、実際には他者が優位に立っている時に生じる不快な感情のことを指します。

神を愛さず、理性だけで神に従っている人は特に、神に従わず成功を遂げる人に嫉妬することがあります。常に自分を他人と比べ、キリストと結ばれている喜びをなくしていくのです。

クリスチャンが嫉妬する時、その人の心はキリストとキリストの内にある諸々の祝福だけでは物足りないという状態になっています。又は、父なる神の知恵と愛によって自分に委ねられたものを不十分だとし、神よりも自分の方が自分に何が相応しいのかを知っているという心が表れているのです。

他人を妬む罪は、教会の中で比較的大きな問題にされない罪です。しかし、神の知恵と愛に信頼せず、神の備えで満足できていない心と態度は、ひょっとすると不倫や泥酔の罪よりも多くの未信者の関心をキリストから遠ざけるかもしれません。

嫉妬への対処法は、他の罪への対処法と同じです。それは、信仰によって、神の知恵と愛を受け入れ、自分に与えられているものが神の視点から見て最善であることに確信を持つことです。報いは、成功や所有物の量によるのではなく、自分に与えられているものをどのように納め、いかに神の栄光のためにそれらを投資したかに応じて神から与えられるのです。

詩篇73篇の最後では、アサフの心があるべき状態に回復します。しかし、そこにたどり着くまで、アサフは自分の心の罪を認め、自分の弱さを公に告白する必要があったのです。次回はアサフがどのように罪を認め、告白するかに至ったかを学びます。

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