ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇91篇1~13節

150篇ある詩篇の中でも、詩篇91篇ほど神に信頼する喜びと祝福を美しく表している詩は多くありません。どのような状況に置かれていても、神を主としている人しか味わうことのできない安心と安全感が描かれており、読む人の心に安らぎと希望を与えます。

また、詩篇91篇は、まことの神と契約関係にあることがどれほど素晴らしく、その神を主として愛する人がどれほど幸せなのかという真理を、巧みな詩的表現で際立てています。

この詩篇を通して、神に信頼する人の生き方を再発見できます。また、無限で、全能の神が私たちにどれだけ近いのかを学ぶことができるでしょう。

91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。

「隠れ場に住む」とは、「守り/保護の下に自分を置く」という意味です。住むとは、そこに留まり続ける、常にそこに戻ってくるというニュアンスが含まれています。

この始めの二節には、創造主を表す四つの名前が使われています。それぞれの呼び名は、創造主の異なる側面を表しています。

「いと高き方」はヘブライ語で「エリオーン」という言葉です。この名前は、創造主を「他の神々よりもはるかに優れた存在」、または「天と地を所有し、治める存在」として呼び求める時に使われた名前です(参照:創世記14:18-20)。まことの神より遥かに劣った偶像には提供できない本当の保護を主は与えることができるのです。

「全能者」はヘブライ語で「シャダーイ」という言葉です。この言葉の語源は明確ではありませんが、「山」、または「女性の胸」を意味する言葉から来ているとされます。つまり、山のような備えがある存在、または山ほどに祝福される存在。または赤ちゃんに必要な乳を母親が与えるように、私たちに必要なものをすべて備えてくださる。そのような豊かな恵みの神として崇める時に、この名前が使われました。

2節では、著者は創造者を「ヤハウェ」と呼びます。この名前は、ユダヤ人にとって神聖な名前であり、軽々しく口にしてはならない名前です。なぜなら、この名前は、主がモーセを通してユダヤ人と契約を結んだ時に与えた名前だったからです。この「ヤハウェ」を用いる時、ユダヤ人は神と特別な関係と責任があったことを強調していたのです。

そして、最後に神は「エロヒーム」と呼ばれます。この言葉は、神を唯一の創造者として呼ぶときに使われた名前です。

背景にあったモーセ契約

著者がまことの神を避け所とすることができたのは、彼が霊的に優れていたからではありません。また、道徳的であったからでもありません。著者が神の保護に信頼できたのは、まことの神がイスラエルの民と契約を結ばれたからです。

神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。その契約によって、ユダヤ民族は神の似姿として、この世に神の聖さを表す責任が与えられました。そして、その責任を果たせば神は彼らを祝福し、それを放棄すれば災いが必ず降り掛かると約束されました。

その約束の一部が申命記28章に書かれています。もし、イスラエルの民がまことの主を愛し、主から与えられた責任を信仰によって果たすのであれば、このように書かれています。「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。(申命記28:7-10)」と約束されたのです。

このような特別な契約関係があったからこそ、著者は契約の神の名「ヤハウェ」によって請い求め、その契約の約束に従って神が彼を敵から守り、祝福されるであろうことを確信できたのです 。このような信頼の前提には、彼が神を愛し、神から与えられた責任を果たしていた、という現実がありました。

91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

「狩人のわな」という比喩表現は、著者に危害を与える存在(参照:詩篇140:1-5)、または神に与えられた責任を放棄する誘惑と考えることができます(参照:詩篇119:110)。

また、この著者は「恐ろしい疫病」からの救いについて語りますが、これもモーセの契約の祝福の一つです。たとえイスラエルの民が与えられた責任を放棄して、災いを招くようなことがあっても、彼らが悔い改めるのであれば神はその災いを取り除き、彼らを癒す約束がすでにされていたのです。

第二歴代誌7章13 節にこのように書かれている通りです。「…もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

つまり、この3節はどのようないのちの危険であったとしても、主は神の契約に忠実な人を助けるということを教えています。ここで大切なことは、この約束がモーセの契約の条件下にあったということです。現代のクリスチャンは、モーセの契約の下にはいません。そのため、イスラエルの民に約束された多くの祝福と災いは教会に当てはまりません。中世の時代から多くのクリスチャンたちが疫病でいのちを失いましたが、それは神が約束を守れないのではなく、それらの約束が教会にされていないからなのです。しかし、この詩篇に書かれている大まかな真理は読者の立場が変わったとしても、変わることがありません。

91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

「主の羽」という表現は、神をひなを守る雌鳥のように例えているか(出エジプト19:4、申命記32:11など)、契約の箱の上に彫られていたケルビムの羽を指していると言われます。主の羽の下でかくまわれている人たちに危害を与えようとする者たちは、彼らの周りに主の誠実さ(真実)が盾として彼らを守っていることを発見します。

91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

5-6節には、メリズム(merism)という詩的表現が含まれています。めリズムとは、一つのことを例えるために、それを分割して表現する手法です。例えば、「神が天と地を創造された」というのは、メリズムを使っています。「天と地」という二つの極端なものを使うことによって、実際には「天と地の間に存在するすべてのもの」を創造されたことを伝えています。新約聖書には神が「アルファであり、オメガである」という表現があります。アルファは、ギリシャ語のアルファベットの一番始めの文字、オメガは一番最後の文字です。つまり、神はすべての始まりであり、同時に終わりであり、その中間にあるすべてであるということを表しているのです。

著者は「夜‐恐怖」、「昼‐矢」、「暗やみ‐疫病」、「真昼‐滅び」と表現することによって、夜でも昼でも、いつでも、主は必ず自分を守ってくれるということを忘れてはならないと教えているのです。

91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

これらの節の背後にも、「剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。(レビ26:8)」という契約の約束があったのです。偶像ではなく、まことの神を避け所と選ぶ信仰が神に喜ばれ、神の誠実さを体験することにつながったのです。

91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

モーセの契約によると、神は超自然的な手段でイスラエルの民を守ることを約束されました。

しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。(出エジプト23:22-23)

ここでは、神の御使いたちが主に身を寄せる人たちを守ると教えます。獅子とコブラは、当時、思いがけない所から人を襲い、油断しているときにその人に危害を与える物の象徴でした。

しかし、ここでもユダヤ人が聖い民としての責任を果たすことが、この約束の成就の前提となっています。神を愛する者は、その命令を守ると聖書は教えます。旧約時代では、それがモーセの律法を守るということでした。現代に生きるクリスチャンにとって、その命令を守るとは、キリストから愛されたようにお互いを愛するということです。

ここまでは人間の視点から描かれていますが、14節以降は神の視点から描かれます。次回は残りの節を通して現代の私たちにも学ぶことのできる真理をさらに学びます。

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