ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇51篇5~15節

51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

5節は、聖書の中でも多くの論議を呼ぶ箇所です。なぜなら、この節をヘブライ語から直訳すると、「見よ、私は咎のうちに生み出され、罪のうちに私の母は私をみごもりました」と書かれているからです。

現代のユダヤ人たちもこの節に関しては、一致した答えを出せません。あるラビたちは、「子を授かるために必要なセックスが肉の欲と関連しているので罪である」と教えます。ほかの教師は、「ダビデの両親も罪人であったので、罪人たちによって儲けられる子も初めから罪を受け継いで生まれてくる」と教えます。

この節に関してさまざまな見解が提案されていますが、忘れてはいけないいくつかの前提があります。

まず、この節の文脈を忘れてこの節を理解しようとしてはいけません。この節は、ダビデの罪の告白の一部であって、ダビデ自身の罪の自覚が書かれています。つまり、この節はクリスチャンに人間の罪に関する神学を教えようとしているのではなく、ダビデ の罪深さの理解を表現しているのです。

また、この節は詩的に表現されており、額面どおりに受け取られるように書かれていないことを忘れてはいけません。詩篇は美しい詩の集合であり、芸術的に美しい詩的誇張が多く含まれています。ですから、詩的表現を文字通り理解しようとしすぎると、詩に含まれる美しさと本来の意味を曇らせてしまうことがあります。

これらのことを踏まえて、この節を理解すると、ダビデはこの詩の背景にあるバテシェバとの罪によって神の前に立てなくなったのではないことが分かります。同義型パラレリズムを使うことによって、ダビデは生まれた時から罪の心を持っていた、また母の胎にいる時から罪を背負った存在であったことを告白します。これは、 詩的表現で、 主の恵みがなければダビデは生まれる前から神の前に立つ権利がなかったことを表しています。

5節と6節は、両方とも「ああ」、または「見よ」と訳される間投詞によって始まります。この間投詞によって、5節にあるダビデの醜い現実と6節前半に書かれている神の期待のギャップの激しさが効果的に比較されています。

「心のうちの真実」とは、その人の心にある誠実さのことを指します(参照:創世記42:16で同じ言葉が「誠実」と訳されている)。つまり、その人が心から主を恐れ続け、その人が誠実であり続けることが神に喜びを与えると教えているのです。

ですから、生まれながらの罪人がいつも主から離れないようにするには、その心の奥に知恵が与えられる必要があるとダビデは求めるのです。

「心の奥に」とは、その人の感情や理性の土台にという意味です。知恵とは、神の目から見て成功した生活を送るために必要な実践的な知識のことを指します。ですから、ダビデは自分の失敗を通して、箴言28:13-14の真理と同じことを悟ったと言えるでしょう。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」(箴言28:13-14)

交差対句法で表現された刷新の願い

51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

7-15節では、緩い交差対句法と同義型パラレリズムが巧みに使われており、とても芸術的に、また信仰的に心を揺さぶる内容になっています。1-6節までは、ダビデの罪の告白がテーマでしたが、この箇所ではダビデの赦しと刷新の願いの祈りがテーマとなっています。

交差対句法とは、対になった表現で、後ろの部分を前の部分の語順と逆にするという表現方法です。言い換えれば、ハンバーガーのような構成となっており、一番外側が両方ともパン、そして、その次の層が野菜、そして、真ん中にお肉が入っていると想像することができます。パンと野菜の層はお互いに対になっており、中心に肉があります。同じように、交差対句法では、外側の対がパラレリズムとして成り立っており、中心にある節がその構成の中でもっとも大切な内容であると理解できます。この構成を知らなければ、多くの読者は、最後の一節が結論であると考えますが、これを知っている人はその構成の中心が結論であると理解します。

この表現を分かりやすくリストにすると次のようになります。

A. 私の罪を除いて清めてください。そうすれば、きよくなります。
 B. 私を洗ってください。そうすれば、白くなります。
  C. 楽しみと喜びを聞かせてください。そうすれば、罪によって砕かれた骨が喜ぶでしょう。
   D. 私の罪から御顔を隠し、咎をぬぐい去ってください。
    E. 私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
   D’. 私を御前から投げ捨てず、あなたの霊を取り去らないでください。
  C’. 喜びを返してください。そうすれば、罪人はあなたのもとに帰りましょう。
 B’. 私を救ってください。そうすれば、高らかに歌います。
A’. 私の唇を開いてください。そうずれば、誉れを告げます。

見ての通り、AとA’は対となっており、BとB’も対となっています。そうなると、この詩的構成の中で、もっとも中心的なテーマは、この構成の中心にあるEに書かれている内容となります。

ダビデは、自分の罪深さを理解していました。そのため、もし彼がもう一度神の前に立つのに相応しくなるのであれば、それは自分の行いによるのではなく、神の一方的な恵みによることも理解していたのです。ダビデは、彼の心が新しく造り直される必要があることを同義型パラレリズムで強調しています。

この構成の中で、AとBは、罪を赦され、神の御前に立てることを望みます。A’とB’は罪を赦され、神の前に立つ者が確信と喜びを持って神に礼拝と賛美を捧げることを望みます。

CとC’は、罪を赦される喜びによって、罪によって病んでいたものが回復することを望みます。Cはダビデの個人的な回復、そしてC’は他の罪人の回復です。

DとD’はダビデが神の御前に確信をもって再び立てることを望み、そのために咎による汚れがことごとく取り除かれるように、そして神の約束がダビデから取り去られないように祈ります。

ここで、「あなたの聖霊を私から取り除かないでください(11節)」という表現が誤解を与えがちです。ここで、書かれている「聖霊」とは、新約聖書に書かれている救いの保証として与えられる「聖霊」を指しているのではなく、イスラエルの王が神によって選ばれていた時代に与えられていた特別な認証のしるしを指しています 。

ダビデが王になる前は、サウルという王がいました。サウルが神によって認められた王であると人々に証明するために、当時の祭司であり預言者であったサムエルはサウルに神の特別な霊が下り、彼が王として治めることができるように彼の「心を変えて新しくされる」と預言しました(参照:Ⅰサムエル10:5-10)。

サウルが神の選んだ王として退けられたとき、それまでサウルの王権を保証していた霊はサウルを離れ、次の王として選ばれたダビデに下りました(参照:Ⅰサムエル16:13-14)。王権を保証する霊がサウルから離れ、ダビデに下った事を目撃したダビデは、 自分の罪によって主の霊が同じように取り除かれないことを願ったのです。

特に、この願いはバテシェバとの罪が起こる前に、主がダビデと交わした契約と関係していました。ダビデがまだバテシェバを知る前に、主はダビデに表れ、「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる…しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ(Ⅱサムエル7:12-16)」と約束されました。

もし、ダビデから彼の王権の保証である「聖霊」が取り除かれたら、ダビデの子孫に約束された王座も失うことになります。ですから、ダビデは主の約束が取り除かれないように願ったのです。

ですから、新約聖書から聖霊の働きについて学んだ人は、ここで書かれていることを救いの保証と切り離して考える必要があります。この対句法を見て分かる通り、聖霊を取り除くということは一番注目を浴びるべき主題ではなく、主の恵みの働きによってダビデの心が新しく造り直されることが必要であるということです。

恵みによる罪の赦しと回復

まことの神はきよい存在であり、神に対して罪を犯した人はそのままの状態で神の御前に立つことはできません。それは、神が厳しいからではなく、それがまことの神がおられる世界の摂理だからです。

しかし、神は人を裁くことを喜びとしているのではありません。その人たちが悔い改め、まことの神を神としてもう一度認めた生き方に立ち返ることで、その人たちの口から喜びと礼拝の賛美が溢れることを喜びとしているのです。

私たちは、自分たちの力で神の期待を裏切る行為からまとわりつく汚れを取り除く事はできません。一度床に落として割ってしまった生卵を自分の力で元通りに戻せないのと同じように、一度神に対して犯した罪は、自分の力でそれをなかったことにはできないのです。

私たちは、ダビデと同じように、生まれたときから神の前に立つことができない状態にあります。人は大人になってから突発的に衝動にかられて罪を犯すのではなく、生まれながらに神の期待から離れたことを喜ぶ傾向があります。社会的違法行為を行わなくても、神に対して罪を犯すことは避けられません。

詩篇51篇の福音は、私たちの罪がどれほど深く感じられても、私たちの罪の大きさや不完全さや不誠実さよりも、神の恵みははるかに大きく、そのあわれみは底知れないということです。私たちはダビデのように不倫をするかもしれません。また、嘘をつき、自分の罪を人前で隠そうと企むかもしれません。ダビデのように殺人はしなくても、相手に死んで欲しいと願うかもしれません。

しかし、もしまことの神がダビデを赦し、ダビデがもう一度神の御前に立てるようにされたのであれば、私たちも同じ赦しと恵みを与えられる確信を持つことができます。罪を赦される喜びは、私たちの罪が神の前でどれほど醜いかを理解しているかの知識と比例します。ダビデが、聖書の中で誰よりも神を讃える詩を書いた理由は、おそらく自分の赦された度合いを正しく理解していたからでしょう。私たちも、ダビデを見本とし、恵みとあわれみの神を礼拝しましょう。

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