ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇51篇16~19節

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

聖書の中でも、信仰生活を歩む上でこの節以上に大切な聖句は多くありません。

私たちは誤ってではなく、知っておきながら故意に罪を犯すことが多くあります。モーセの律法によれば、故意に犯した罪に対するいけにえは用意されていません。しかし、この節には、どうすれば故意に罪を犯してしまった人が、もう一度神の御前に立つ資格を取り戻すことができるのかが書かれています。

16節は、神が何を求めていないのか、そして17節は神が何を求めているのかが対照的に書かれています。

ダビデは、この箇所で、彼の罪の代価としていけにえを神に捧げようとしてもそれには効果がないと言います。なぜなら、もうすでに学んだ通り、モーセの律法が教えた罪のいけにえ制度は、誤って犯した罪しか覆うことができず、故意に犯した罪を覆い隠せないという現実があったからです。

まことの神が唯一の主であると告白しながら、その主に故意に逆らうことは重大な罪です。モーセは、「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う(民数記15:30-31)」と言いました。

この考えは、新約聖書でも受け継がれており、ヘブル人への手紙の著者は、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません(10:26)」と教えています。

しかし、まことの神のあわれみの深さは計り知れません。もし、私たちが自分の過ちを認め、主に対して犯した罪によって心が砕かれ、悔い改めるのであれば、神はその人をもう一度回復させ、神の前に立つことができる資格を与えてくださるのです。

ここで、「砕かれた心」というのは、ただ罪悪感に責められる心のことではなく、神の前でへりくだった心のことを指します。なぜなら、神が望まれているのは、私たちが道徳的罪悪感を体験することではなく、神との関係が回復されることだからです。

「砕かれた心」とは、自分の楽しみのために神がいるのではなく、神の喜びのために自分が存在することを認める心です。また、自分の計画を前進させるために自分が神を選んだのではなく、神の計画を前進するために神が私たちを選ばれたことを思い起こす心です。

「悔いた心」とは、自分のプライドよりも、神の栄光が大切であることを謙虚に受け入れた心のことです。つまり、神が求められているのは、外側の改善ではなく、内側の礼拝です。 私たちが、心から神の価値を再発見し、それに相応しく、まことの主の前で心の膝をつくことが神の求められることです。

51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。

この詩篇の締めくくりとなる最後の二節は、詩篇の編集者たちによって後ほど付け足されたとされる箇所です。後にイスラエルは神に選ばれた民としての責任を放棄し、故意に偶像礼拝に走ったために、母国を失い敵国で捕囚の民となります。イスラエルの代表者たちがその罪を悔い改めて、ダビデが体験した回復を神の民として体験したいと願う心が表れていると言われます。

神は、個人だけではなく、神に属する民全体を罪から救うことができます。そしてその民を形成する一人ひとりの個人が神の前でへりくだり、神の似姿としてこの地上で輝き始めるのであれば、その民の捧げる感謝のいけにえを喜ばれるのです。

教会時代の私たちへの適用

この詩篇には、多くの大切な真理が含まれていますが、その中でも3つのことに目を留めたいと思います。

1.神は恵みの救い主

一つ目の真理は、神はどのような罪人でさえも赦し、その人が必要としている救いを豊かに与えることができる恵みの救い主であるということです。

クリスチャンの中でも、罪悪感や敗北感を背負って生活している人たちが多くいます。しかし、殺人さえ犯したダビデを赦し、回復させる神は、どのような人にも救いを与えることができ、その人を聖き神の前に立たせてくださるのです。

自分の犯した罪が大きすぎて、自分は神に赦される資格がないと思い込むのは、神の恵みの大きさを否定することであり、自分の感情を神の言葉よりも優先することです。もし、私たちが本当にへりくだった心を持って主を望むなら、自分の罪深さよりも、神の寛大さに目を向けて、心からの賛美の歌声を主に捧げることができるようになります。罪から来る結果を後悔してもきりがありません。本当に大切なことは、救いの神の恵みを体験し、その時点から神を認めた生活に戻ることです。

2.神は常にあわれみの神

二つ目は、まことの神は新約時代でも旧約時代でも変わりなくあわれみの神であるということです。多くの人が旧約聖書に登場する神は、いつも怒ってばかりいる厳しい神で、新約聖書には愛と恵みに満ちた優しいイエスさまがおられると考えています。しかし、旧約時代でもまことの神は変わることなく恵みとあわれみに満ちているのです。

聖書の神は、正義を全うされるお方です。しかし、同時に不正を行う人が悔い改めることを願い、裁きを最後の手段とされる救い主でもあります。

新約聖書に、「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(IIペテロ3:8-9)」と書かれている通りです。

3.神は礼拝の心を求めている

三つ目の真理は、神が求められるものは、宗教的な形式や習慣ではなく、私たちの礼拝の心だと言う事です。

私たちを愛されるまことの神は、私たちの高価な犠牲を求めておられるのではなく、私たちの心を求められています。聖書の中には、心の伴わないいけにえには神の前で価値がないことが繰り返し書かれています(詩篇40:7、50:13-14、69:31-32、イザヤ1:11-17、エレミヤ7:21-23、ホセア6:6、アモス5:21-25、ミカ6:6-8)。

聖書には3回も「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(箴言3:34、ヤコブ4:6、Iペテロ5:5)」と書かれています。聖書の中で同じ言葉が3回繰り返されることは滅多にありません。しかし、ページ数に限りがある聖書の中で、この言葉が複数繰り返されているということは、これが信仰生活の中で非常に重要であることを指します。

神は、私たちが習慣的に日曜日に教会へ足を運び、賛美の歌を歌い、聖書を学ぶことを望まれているのではありません。もし、私たちが宗教的生活に専念したとしても、他人よりも多くの献金を捧げたとしても、誰よりも教会の中で奉仕をしたとしても、もし、そこに神を恐れた心が伴わなければその人の犠牲を伴う生活には価値がありません。

例え、口で罪を告白しても、もしその人の心が砕かれていなければ、そのような外側の告白には価値がありません。

聖書の教える礼拝とは、単に集まって歌を歌い、聖書の話しを聞くことではありません。本当の礼拝とは、神の大きさを認め、その価値に相応しい生き方をすることです。私たちの日々の会話の中で、時間やお金の使い方を通して、また子育てや夫婦関係の中で、神の存在を認めた心を表すことです。そのようないけにえを神は喜ばれるのです。

教会時代のクリスチャンは、とこしえに変わらないまことの神を礼拝します。その神は、恵みとあわれみに溢れており、どのような罪人も救うことができる力強いお方です。その神の前でへりくだり、その主権を認めた生活を送るのは最も現実的な、幸せに満ちた人生です。その現実をどれほど喜びながら受け入れられるかは、私たちがどのようにまことの神を正しく理解しているかによって変わってくるのです。

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