51篇1〜2節
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
ダビデがこの詩篇を書いた時に、何よりも望んだのは「情け」です。ここで「情け」と訳されている言葉は、原語で愛顧、または善意からの恩恵、という意味があります。
ダビデが何よりも主の情けを望んだのは、自分が神に対して犯した罪の大きさを知っていたからです。その自覚は、1-2節に登場する同義型パラレリズムを使う事によって感情的に描かれています。
私の | そむきの罪(ペシャ)を | ぬぐい去ってください。 |
私の | 咎(アウォン)を | 私から全く洗い去ってください。 |
私の | 罪(ハッタート)から | 私をきよめてください。 |
ここで、ダビデは彼が犯した罪のさまざまな側面を告白しており、彼が自分の犯した罪の総合的な悪を理解している事が分かります。そして、彼が神の前に立つ資格がない人間であることを認めていることがうかがえます。
当時の考えでは、罪を犯す事は不道徳になると考えるよりも、霊的な汚れを身にまとうことであると理解していました。汚れを身にまとった状態で、汚れのないまことの主に近づく事は許されません。ですから、ダビデは彼の行った悪が清められることを求め、神の清めの働きを罪の赦しと考えていたのです。
ですから、彼が神の前に立つことができる資格は、彼自身の義の行いや功績によるのではなく、すべてが神の恵みと主の変わらない優しさにかかっていることをダビデはしっかりと理解できていたと、これらの節から分かります。
ダビデは主がモーセを通してイスラエルの民に示されると約束された神の恵みに希望を置いたのです。
ここで「御恵み」と訳されている言葉は、神とイスラエルの特別な契約を思い起こさせる「ヘセッド」という言葉です。この言葉は、まことの神がモーセの契約によりイスラエルに示されると誓われた不変の誠実さとそこから溢れる神の優しさを指します。そこで、ダビデはモーセの律法に戻り、罪から悔い改めた人に与えられる神の恵みをひたすら求めたのです。
出エジプト記34:6-7には、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎(アウォン)とそむき(ペシャ)と罪(ハッタート)を赦す者。」と書かれています。
ダビデは、そのような神の不変の約束に身を任せ、主が神の民に与える恵みにすべてを委ねたのです。
51篇3〜4節
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
ダビデは、自分の罪が故意のものであったことを自覚していました。そのため、そこから来る罪悪感が日々ダビデの心を責めていたのです。
旧約聖書には、罪が人々にもたらす結果がたくさん書かれています。イザヤ書59:2には、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と書かれています。
それだけではなく、モーセの契約を破る者たちには、数多くの災いが約束されていました。そのため、自分の罪に目を向けると、その罪によって神が自分から遠ざかっているだけでなく、神が彼を栄えさせないようにされていることを知っていました。
ダビデは、そのような心情を詩篇38篇に書き残しています。その一部を引用すると、「38:2 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです...38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています…38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています…38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。」と書かれており、彼の霊的状態が身体的な健康にも影響を与えていたことが分かります。
そこで、ダビデは自分の罪を認めただけではなく、それを誰に対して犯したのかも明確に理解していました。ダビデは、主に対して「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」と告白します。
多くの読者は、ここでダビデの言葉に疑問を持つかもしれません。なぜなら、ダビデは主にだけではなく、バテシェバやその夫ウリヤ対しても罪を犯し、イスラエルの民全体に対しても罪を犯したからです。そのため、ダビデが本当に自分の行った罪を理解していない、または、責任逃れをしようとしているという意見もあります。
しかし、ここで忘れてはいけないことが二つあります。一つ目は、罪の定義は神の基準や期待に背くことであり、神の掟があってこそ罪が罪になる、ということです。
隣人を傷つけることはよくありません。一般社会では、それぞれの政府がそれぞれの人たちに対する法律を定め、それに反することを違法行為と呼びます。しかし、聖書的な罪は、人間や政府に対して犯す者ではなく、神だけに犯せるものだということです。
聖書の中では、違法行為は社会に対して犯す者であり、罪は神に対して犯すもの。という区別がはっきりとされています。しかし、日本語の聖書訳が、聖書の教えるハッタートの概念を、日本語の「罪」と訳したところからこれらの混乱が生まれ、聖書の教える区別をしにくくなっているのです。
二つ目は、まことの神がおられることによって、初めて隣人に対して行う悪が罪とされるということです。隣人を傷付けることが罪である理由は、その人が神によって神の似姿として創られたからです。神の似姿を与えられた存在を傷つけるのであれば、それは神に対して悪を行っていることになり、そのような行動が神に対する罪となるのです。もし、人が聖書の神が存在しない世界観を持っているのであれば、隣人を傷付けることは社会的に好ましくないことですが、聖書の教える罪にはなりません。ですから、ダビデは自分の行いを神中心に考え、聖書的に扱っているのです。
それゆえ、ダビデは主が宣告されるとき、主は正しく、さばかれるとき、主はきよくあられる、と理解しているのです。そして、そのような主に対して罪を犯したことを告白しているのです。
ダビデの罪と罰
これらの聖句から、私たちの信仰生活にも学べることがあります。
一つ目は、神が正義の神であるのと同時に、あわれみの神であるということです。まことの神は、神に対して故意に罪を犯す人を正義によって直ちに罰する権利を持っています。
聖書には、ダビデが犯した罪よりもはるかに社会的影響力の少ない罪を犯した人が処刑されています(民数記15:32-36)。また、申命記22:22には、「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい」と書かれており、律法の文字によれば、ダビデは処刑されることが正義だったのです。
しかし、まことに「主はあられみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである(詩篇103:8)」と書かれているとおりであり、主は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることはない(103:10)」のです。
まことの神が望まれることは、罪人を罰する事ではなく、神を代表する民の間から罪が取り除かれることです。神と契約を結んだ民は、この世にまことの神を証する責任が与えられています。罪は、神の民にその責任を果たせなくします。
もし、神の栄光をこの世界の人に表すために選ばれた神の民が罪と妥協するなら、この世がその人たちを観察して、まことの神を正しく見ることができません。神の民でありながら、その神を畏れない人は、その神の重要性を否定します。そのため、神はそのような人が存在しないほうが、この世の救いであると考えるのです。
神がその民に持っておられるゴールは、正義を全うする事よりも、神の民のうちから悪を除き去ることです。そして、神と正しく向き合う民を神が祝福することによって、この世がまことの神を求めるようになることです。
エゼキエル書には、神の心が書き残されています。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。神である主の御告げ。彼がその態度を悔い改めて、生きることを望まないだろうか(18:23)」。それらの疑問に対して、主は「私は、誰が死ぬのも喜ばないからだ。神である主の御告げ。だから、悔い改めて、生きよ(18:32)」と答えられたのです(参照:エゼキエル書33:11)。
二つ目は、罪の本当の罪深さは、それがどれだけ多くの人の迷惑になるかということではなく、その行いの矛先が私たちを愛されている王であり、主であられるまことの神に向けられているということです。
罪は、社会的な違法行為のことではなく、まことの神に対する反逆です。もし、私たちが神を愛さず、従わないのであれば私たちは神に対して罪人なのです。
当時の人は、神に対する愛情の表現として、モーセの律法を守りました。今日の教会は、神に対する愛情の表れとして、キリストの律法を守ります。その律法とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもお互いを愛し合うこと、これがわたしの戒めです」ということばに集約されています。
この戒めを実践しないで、神を愛していると誇ることは不可能です。なぜなら、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません(Iヨハネ4:20)」と書かれている通りです。
ですから、神を愛する生活とは神の民の中で歩む生活であり、「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか(Iヨハネ3:18)」というみことばを真剣に捉えて実践する生活です。
私たちも、神の家族を愛することを知っていながら、それを実践しないというのであれば、それは不倫や殺人が良くないと知っていながら、それらを犯す人と罪深さの面では異なりません。
聖書は、人間に道徳的に生きなさい、とは命令しません。まことの神を認め、神を愛した生活をしなさい、そして、それを通して神を認めた生き方がどれほど素晴らしいのかを証ししなさいと命令します。
私たちはすべての罪から悔い改める必要があります。それは個人的だけではなく、時には集団として悔い改める必要があります。しかし、まことの神は憐れみ深く、心から悔い改めた人たちの声を聞かれます。
神のあわれみの深さを感謝し、その神を礼拝しようではないでしょうか。また、そのあわれみを当たり前と考えるのではなく、へりくだって罪から悔い改めようではありませんか。そして、そのあわれみを体験した人は、同じあわれみを他人に与えることによって、神の似姿としての役割を果たそうではありませんか。