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詩篇51篇-罪といけにえ

詩篇51篇の主題の一つは「罪」です。この詩篇には、「罪」という言葉と、その類語が13回も繰り返し使われています。それは、ダビデが神に対して犯した罪を自覚していることを示すだけではなく、「罪」が神の前でどれほど深刻な問題なのかを示します。当時の「罪」の概念と「いけにえ」について学ぶことで、この詩篇51篇がさらに深く理解できるようになるでしょう。

クリスチャンは、「罪」という言葉を頻繁に使いますが、聖書が教える「罪」という概念を正しく理解しないで使っている場合があります。このような混乱が起きる理由として、まず日本語で「罪」という言葉が持つ印象と聖書の罪の定義が異なることが挙がります。また、聖書の教える「罪」と一般的な道徳概念を混同し、不道徳イコール罪と勘違いすることもあります。日本語で「罪」というと、一般的に「人や社会の法に背いた行い」のことを指します。しかし、旧約聖書が教える罪とは、社会的に定められた法や常識に逆らうことではありません。

聖書が教える「罪」を正しく理解するためには、聖書の中でどのような言葉が「罪」と訳されているのか、また、その類語がどのような意味を持っているのかを理解する必要があります。また、まことの神が人間の罪に対してどのような対処法を用意されていたのかを知る必要があります。

詩篇51篇に見る「罪」の意味と概念

旧約聖書には「罪」と訳される言葉が複数ありますが、その中でも特に重要なものが三つあります。

一つ目は、一般的に「罪」と訳される「ハーター」または「ハッタート」という言葉があります(詩篇51:2,3,4,5,9,13)。この言葉は旧約聖書の中でおよそ300回登場します。この言葉は、「的を外す」という意味があります。多くの場合、この言葉は「両者の間で確立された基準を満たさない」、または「非難に価する行動を取る」ことを指すために使われます。また、モーセの律法にある「罪のいけにえ」を指すためにもこの言葉が使われました。この言葉は、人間が神の期待から外れた動機を問わず、神から与えられた啓示に反した事実だけを強調する時によく使われます。

二つ目は、「アウォン」という言葉で一般的に「咎」または「不義」と訳される言葉です。この言葉は旧約聖書の中で331回登場します。この言葉の特徴は、神の期待を満たさなかったことだけではなく、それによって与えられる責任を強調します。旧約聖書は、罪を犯した者は聖い神の前に立てないと教えました。それは、反逆者が逆らった状態のままで一国の王の前に立つことが相応しくないように、まことの神の言葉を無視した者がそのままの状態で神の前に立つのは相応しくないからです。つまり、神に対して罪を犯した者は、神の前に立つ資格が無くなることを思い起こす時にこの言葉が使われました。たとえ、人間的な弱さのゆえに神との契約を破ることがあったとしても、その罪に対する責任が問われます。

三つ目は、「ペシャ」という言葉で、「そむきの罪」と訳される言葉です。これは、神に対する冒涜の罪を表す言葉で、神の御心に反していることを十分わきまえた上で犯す罪を指します。この言葉は93回登場しますが、主な意味は刑罰に価する犯罪のことを指します。この言葉の語源には、「壊す」という意味があり、この類いの罪を犯すときは、その行いが相手との関係を破壊することを示唆します。

これらの言葉は、罪のさまざまな側面を表し、必ずしも「罪」=「不道徳」という考えが聖書の罪理解ではないことが分かります。旧約聖書時代、「罪」とモーセの律法は切っても切り離せない関係にありました。なぜなら、ユダヤ人にとって罪とは、神がモーセとの契約の中で与えた命令から外れたことを行うことを示し、罪とは人に犯すよりも神に対して犯すものだと考えられていたからです。

そのため、罪とされるものの中には道徳とまったく無関係なものも数多く含まれていました。代表例として、「豚肉を食べていはいけない(レビ記11:7-8)」、または「あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない(レビ記19:19)」というものがありました。

ですから、聖書によると、「罪」とは人を傷つけることとは関係ありません。また、社会的な道徳とは無関係だと思われることであったとしても、もしまことの神の期待から外れたことを行えば、自動的にその人は罪人と見なされたのです。

いけにえの目的

詩篇51篇には「いけにえ」という言葉が繰り返し使われています。「罪」と「いけにえ」の関係は、当時のイスラエル人たちの間では一般知識として知られていました。

神に対して罪を犯すことは大事(おおごと)です。なぜなら、人間は神のために創られたわけで、その神に逆らうことは私たちの存在目的を否定するからです。それだけではなく、イスラエルの民は神を代表する民として選ばれました。イスラエルの民は、神の「似姿」として、神の特別さをこの世の中に示す責任が与えられていました。神は、モーセを通して彼らと契約を結び、もし彼らが神の掟を守るなら彼らを祝福し、それらを破るなら災いが彼らの上に降り掛かると宣言しました。

そのような契約を結んだ理由の一つが、神の愛です。神は、ご自分が選ばれた民(イスラエル)だけではなく、世界の民を愛されています。そのため、まことの神はイスラエルの民が神の似姿として生きることによって、世界が神を見ることができるように、また、彼らが主との契約を守ることによって与えられる祝福を通して、世界が神を知る事ができるように計画されました。

その目的をイスラエルの民が喜んで果たすように、神は彼らに祝福の約束を与えましたが、同時に彼らがその責任を放棄するなら、自分の命を代価として捧げなければいけないことを教えました。しかし、人間が神の律法をすべて守ることは不可能です。そのため、神は「いけにえ」という制度を現実的な抜け穴として制定されたのです。

もし、イスラエルの民が神に対して罪を犯すとき、もしその人が故意にそれを行ったのであれば、その人は処刑されなければいけませんでした。しかし、もし、その人が犯した罪が、人間的な弱さ、または無知のゆえに犯した罪であれば、その人の命の代わりに動物の命を捧げることによって神の前に再び立つに相応しい状態に回復できるという抜け穴を用意されたのです。

旧約聖書には複数の罪の類語が使われていますが、実際には二つに分ける事が出来ます。それは、「故意に犯す罪」と「誤って犯す罪」です。

神に対して故意に犯す罪は「冒涜の罪」と呼ばれます。

民数記15:30-31 「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」

なぜなら、その人は、神の言葉と権力を理解した上でそれらに逆らい、神よりも自分の思いを優先するからです。そのような高慢な者は、神の似姿としての責任を放棄した者であり、この世にまことの神を表しません。それどころか、まことの神の存在を否定することで、この世がまことの神を認めなくなるようになります。神がそのような者をこの地上から取り除くように命じたのは、神が自分に逆らう者を憎むからではなく、それらの者たちを通して、この世がまことの神を見失わないためだったのです。

しかし、もし罪人の罪が神を冒涜するつもりではない場合、神は憐れみを示し、その罪人の命ではなく、動物の命によって罪の償いをすることを許されました。モーセの律法の中で定められた「いけにえの制度」は、誤って犯した罪しか贖えないと明確にされています(レビ記4:2、22、27、5:15、18、22:14、民数記15:24-29)。年に一度、すべてのイスラエルの民のすべての罪のために捧げられた「あがないの日」のいけにえも、イスラエルの民の誤って犯した罪しか覆う事ができませんでした(ヘブル9:7)。

ダビデが故意に犯した罪

詩篇51篇が執筆されたとき、ダビデはこれらのしきたりを明確に理解していました。ダビデは、神の御心を損ねていることを理解した上で、背きの罪を犯しました。そのような罪のために捧げられるいけにえはモーセの律法の中には存在せず、もし神が正義を望まれれば、ダビデは神の民から必ず断ち切られる必要がありました。しかし、ダビデの賛美は、そのような罪人でさえ贖うことができる神の恵みとあわれみなのゆえなのです。

本来なら故意に犯した罪のために捧げられるいけにえは存在しません。しかし、まことの神は、へりくだった者の心をまことのいけにえとして受け入れ、悔い改めた者のたましいを喜ばれます。ダビデを王として任命した預言者サムエルは、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22)」と教えました。また、ホセア書には「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6:6)」と書かれています。

ダビデは、不倫の罪を犯し、それを隠すために嘘をつき、殺人の罪さえ犯しました。それらを神に対して故意に犯したダビデはいけにえを捧げることによって赦される立場ではありませんでした。しかし、まことの神は憐れみ深く、心の底から悔い改めたダビデを見捨てることはありませんでした。これらの背景を理解した上でこの詩篇を読むと、この詩篇の素晴らしさがさらに増し加わります。そして、神に対するおそれと礼拝の心がさらに生まれるのではないでしょうか。

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