主を恐れることは人生の土台
聖書が教える人生の目的とは、主を恐れることによって、主の期待に沿った生き方をすることです。なぜなら、主を恐れることが、私たちの人生に価値を与えるからです。また、その報いとして主ご自身がその人に残されている日数を良い物で満たしてくださるからです。私たちが持っている本当の必要は、まことの生ける神しか満たすことができません。
主を恐れている人は、神が与えてくださったものが、自分の物ではなく、管理を任せられている資産だと考えます。それらを正しく管理し、神の期待に沿った投資の仕方をすることが人生の生き甲斐となります。その人は、その信仰に応じた報いが与えられ、その人の生活は、まことの主にしか与えることができない祝福によって満たされるようになるのです。
神の期待に沿う生き方とは
モーセの律法下のイスラエルが神の期待に沿うとは、主に対する恐れの表れとして、律法をすべて守ることでした。しかし、新約聖書には、イエスのことばに確信を持った人たちは、モーセの律法ではなく、キリストの律法の下にいると書かれています。
もし、私たちが主を恐れているのであれば、私たちは主の期待と基準を満たす生活を選びます。それでは、キリストの律法、また期待とは何でしょうか。聖書には、キリストがクリスチャンに望まれる二つのことが明らかにされています。
まず、キリストの教えに確信を持った人たちが一つとなり、世にまことの神を示すことです。
イエスは、十字架にかかられる前に、将来キリストを信じる人のためにも、次のように祈られました。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネの福音書17:20-21)」
私たちが現代の世界で主を恐れるとは、一人で信仰を歩むのではなく、神の家族と結び付き、みんなで神を恐れる生き方をすることです。キリストの体が一致することに自分の時間とお金と能力を捧げることは、私たちの人生を豊かにします。
もう一つのキリストの命令は、私たちが互いに愛し合うことです。
Ⅰヨハネ4章19-21節には、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」とあります。また、他の箇所ではキリストご自身が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネの福音書15:12)」と教えています。
クリスチャンが一人で孤立して信仰生活を歩もうとするとき、その人の生き方は立派であっても、道徳家としての側面が強く出ます。しかし、複数の人たちが、キリストを恐れることによって、一緒にキリストの戒めを人生の基盤とするなら、そこには道徳だけではなく、偽りのない愛によって成り立つコミュニティができます。そして、自分もそこに属したいという気持ちが湧いてきます。
クリスチャンは、自分と同じように神を恐れ、主の素晴らしさを味わっている人たちに囲まれていることで、どのような苦しみを通されたとしても、神の家族に支えられながら、主が約束する希望によって励まされるのです。
砕かれた心とたましいの回復
聖書は、クリスチャンになったら心が傷つかない人生が訪れるとは教えていません。この詩篇では、かえって神の基準に従って生きようとする人の悩みは多いと教えます。神を恐れなかったそれまでの人生とは異なる種類の悩みが増えるということです。
クリスチャンであっても、心が折れる、また挫けることは多くあります。そして、残念なことにそれらの苦しみが教会や他のクリスチャンからもたらされる場合もあります。
しかし、この詩篇において神が約束しているのは、苦しみのない人生ではありません。どれだけ心が砕かれても、主がそばにいてくださり、必ず私たちを救ってくださるという真理です。
Ⅰペテロ1章6-7節にはこうあります。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」
主は、私たちを救ってくださるだけではなく、正しいことを行うがゆえに苦しむ人たちに、その苦しみ以上の賞賛と栄光を与えてくださいます。言い替えれば、もし、神の計画の全体図を見ることができるなら、私たちの苦しみには意味があります。その希望は、信仰によって生まれます。
希望が失望に終わらない根拠として、キリストご自身の体験が挙げられます。キリストは、父なる神を恐れ、神の御心に従うために、十字架にかかられました。罪を犯さなかった人が、罪人の代わりに裁かれたのです。しかし、神はキリストをその苦しみから解放されました。そして、キリストをすべてのものに勝って高くあげられ、すべての人の救い主とされたのです。もし、キリストが神を恐れず、十字架の死に従ってくださらなければ、私たちは誰一人としてまことの神と和解することはできませんでした。一人の従順が、多くの人に光を与え、神の栄光を世界に広める結果となったのです。
私たちは、世界の救い主になることはできません。しかし、キリストを模範とすることで、世界に救い主を示すことができます。もし、私たちの生活がキリストの救いの力を疑うものであれば、世の人は誰もキリストに信仰を持とうとは思わないでしょう。
クリスチャンが正しい事をなすが故に苦しむ姿は、この世に対する最善の証しです。なぜなら、そこを通されている人の生き方を通して、その人を救うことができる神の力を目撃できるからです。その人を支える神の家族の愛情を発見することができるのです。
サタンは、ものすごい努力をして、神の家族が一致しないように頑張っています。また、クリスチャンがキリストを模範とするのではなく、苦しみを避けることを望むようにしむけます。詩篇34篇は、そのような誘惑と戦う人に、神を恐れる理由を与えてくれます。この詩篇は3000年経った今なお、神を恐れる人たちに希望と確信を与えているのです。