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詩篇34篇 【‏後半】-知恵

この詩篇は、11節から知恵の教訓に変わります。前節まで語ってきた「主に対する恐れ」がどのように生活の中で反映されるべきか教え、それを実践する人にいかに主が報いてくださるかを描写しています。

詩篇34篇後半の、最も大切な真理は、「神を恐れ、神の前に正しく生きる人は、どのような逆境に立たされたとしても、主ご自身が必ず救い出してくださる」ということです。また、この真理の側面として主を恐れることが人生のすべてにおける土台であり、本当の喜びと幸せは主を恐れることを学ぶまで訪れないことも分かります。なぜなら、主を恐れることによって初めて人間が必要としているすべてのものを与えられるからです。

34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

ここで、「子たちよ」という表現は、実際の子どもを指すのではなく、生徒の立場に置かれている人たちを指します。

34:12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。

「いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する」とは、人間の最も根本的な願いを指しています。旧約聖書しか持っていなかった当時の人にとって、長生きすることは、神の御心であって、主との契約に従う報いの一つでもあると考えられていました。

モーセは、イスラエルの民に契約の律法を守るように教えました。その理由として、「それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。(申6:2)」と説明しました。また他の箇所では、主ご自身が「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。(レビ18:5)」と言われました。また、神を恐れ、全能者を主とする者に対しては、「わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩91:16)」とあります。

長生きするとは、正しい事、つまり神との契約を守るなら、神がイスラエルの民に約束されたとおり、彼らが戦争や疫病によって早死にすることがないようにしてくださる、ということです。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。

ダビデは、主を恐れることを「主の目から見て正しい生き方をすること」だと教えます。神を恐れている心は、内側から言葉に。そして、言葉から生活に表れます。ここで悪と書かれているのは、神の目から見て価値のないもの、また神が示した期待に反したことです。また、善とは神の期待に沿ったことを示します。この文脈では、モーセの律法を守るといった大きな期待を指していると思われます。なぜなら、それが神の期待であり、また長生きする条件の一つだったからです。

くちびるに欺きを語らせないということは、心の問題です。なぜなら、人を欺こうとする気持ちは、口に出す前に心にあるからです。また、悪を離れることも心の問題です。なぜなら、人が見ていなくても悪から離れようと思う人は、本当に心から神を恐れ、神の期待に沿った生き方を望む人だからです。

伝道者の書の著者を思い出してみましょう。彼は、人生の目的をさまざまなに模索した結果、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである(12:13)」という結論にたどり着いています。

34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。

この2節は、反意型パラレリズムを形成しています。正しい者と悪をなす者への主の報いが対比されています。

「主の目」、「その耳」、「主の御顔」という表現は、 神人同形法という詩的表現が使われています。霊である神に細胞によって形成された目はありません。この表現法は、そのような神に人間の持っている形姿、性質を備えさせることによって神の気持ちや意思や働きを示すものです。ですから、「主の目」とは、主の特別な好意、また配慮がその人に注がれることを意味します。

正しい者とは、原語で「義人たち」と書かれています。義とは、神の与えた基準を満たしている状態のことを指します。ですから、ここでも神の好意が注がれるのは神の期待を理解し、それを満たすことを人生の目的としている人のことです。聖書が教える義人は、道徳的に完全な人たちのことではなく、不完全ながらも神を恐れ、神の言葉に確信を持って歩む生き方を選んだ人たちのことを指します(参照:ヘブル11章)。

「その耳」という表現も、神人同形法です。神は、主を恐れ、その期待を満たす者の助けを求める叫びの声を無視される事はないと書かれています。そのため、神の基準を満たすことを生活の基盤としている人は、必ず試練から救出されることが約束されているのです。

しかし、悪をなす者は主を恐れないことによって、神が与えた律法に反した生き方を選びます。そうなると、モーセ契約で約束されていた災いが彼らの上に降り注ぎ、彼らは滅びます。そして、空しいものに捧げられたその人たちの人生は誰の記憶にも残らなくなるのです。

34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。

ここで「彼ら」とは、15節の義人たちを指すと考えることができます。しかし、同時に16節に登場する悪をなす人たちを指すと考えることもできます。後者が正しければ、たとえ神を無視した生活をしていても、もしその人が悔い改め、神を主として認めるのであれば、主がその人をすべての苦しみから救ってくださると理解することができます。この約束の素晴らしい点は、この救いは比較的小さな苦しみからの救出ではなく、「すべて」の苦しみからの救い、だということです。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

この節でも、同義型パラレリズムが使われます。この節の強調されていることは、二つあります。一つ目は、義人であったとしてもこの地上にいる限り心が折れる経験を多くするということ。 そして、二つ目は、それらがどれほど心を悩ませるものであったとしても、時がくれば神が必ずそれらの中から救ってくださることです。

「心の打ち砕かれた」、また「たましいの砕かれた」という表現はそれまで罪を犯してきた心の頑さが砕かれたと理解することができます(参照:詩篇51:17)。しかし、ここでは義人の悩みを指しています。ですから、ここでは、正しい行動を選ぶことによってふりかかる心の痛みと捉えた方がよいでしょう。

心の「打ち砕かれた」と訳されている言葉は、イザヤ書61:1で「心の傷ついた人」と訳されています。また、たましいの「砕かれた」と訳されている言葉は、詩篇90:3で「ちりとなった」と訳されています。また、イザヤ書53:10では、救い主が私たちの罪のために「砕かれた」と訳されており、死に至る苦しみのことを指しています。つまり、その人の内なる人が木っ端みじんに砕けてしまい、人間の力なら復元不可能な状態にある精神状態のことを指します。

神が約束する良い物で満たされた人生は、苦しみがない人生ではありません。この罪によって堕落してしまった世界に置かれているかぎり、私たちは自分の罪や他人の罪によって傷つけられます。時には、自分の力では立ち直ることができないほど心が壊れてしまうこともあります。

しかし、そのような中にあっても、主を恐れることを学び、最後まで主の教えに従うのであれば、その人は必ず救出されるのです。そして、その苦しみが一時的なものであったことに気づかされ、救いを体験した後になってその苦しみを通らされたことが自分にとって必要であり、良い人生を歩むためには不可欠な道であったことを学ぶのです。

34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。

この節は、義人にどのような苦しみがやってきたとしても、神がその状況をすべて把握されていることを教えます。義人の骨の一つでさえ砕かれることがないとは、実際に義人の骨が折れないということではなく、神がその苦しみが与える被害の限度までコントロールされていることを詩的に表しているのです。

ヨハネの福音書19:36は、この節を十字架に架かっていたイエスに当てはめます。ヨハネの記事によると、イエスと共に十字架に架けられた犯罪者のスネの骨は折られたが、イエスはすでに息を引き取っておられたのでスネの骨を折る必要はなく、それにより旧約聖書の言葉は成就したと書かれています。

ヨハネは、詩篇34:20に書かれた原則をイエスに当てはめ、イエスが神の御前で義人であったことを教えたのです。実際には、スネの骨が折られなかったとしても、ローマのむちで打たれ、十字架に架けられて死ぬことは、死んだ後にスネの骨を折られるよりも悲惨なことです。また、キリストの受けた拷問、また手首や足の甲に打たれた五寸釘のことを考えると確実に骨が折れていたことが予想されます。また、キリストに対する信仰のゆえに殉教していった人たちで骨を折られた人たちは多くいるでしょう。

ですから、この箇所は詩であり、実際に骨が折られないと考えるのではなく、詩的表現として神が苦しみの限度までコントロールされていることを教えていると考えることが正しいでしょう。

34:21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

ダビデは、最後にもう一度、義人と悪人を対比します。ダビデの知恵が教える最後のレッスンは、罪人は自己崩壊すること、また主を恐れ、主の言葉に従うしもべは滅びではなく、いのちを与えられ、罪に定められることはないという良い知らせです。

悪人を滅ぼすのは、その人の悪です。神は悪は必ず裁かれることを教えています。しかし、そのことを真剣に捉えず、悪の中に留まり続けるのであれば、その主を恐れない心がその人を滅ぼすことになるのです。上を向いてつばを吐いた人のつばがその人の顔に落ちるのと同じ原理です。

しかし、主を恐れ、主に救いを求める者は罪に定められることがなく、そのたましいの救いを体験するのです。すでにこの節に新約聖書の福音の真理が隠されています。

22節で「主に身を避ける者」という表現を使うことによって、この詩の後半を8節と結びつけます。そのことによって、主の素晴らしさをいっそう味わい、主がすべての苦しみから救ってくださる恵みを感謝する心が生まれます。そうすると、今度は読者が1節に書かれているように、まずは一人称で神を賛美し、それを他人にもするように呼びかけるという、幸いな循環が生まれるのです。

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