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詩篇34篇 【前半】-賛美

詩篇34篇の前半(1-10節)は、契約の約束に忠実でいてくださる主に捧げる賛美です。主を賛美する時に大切なことは、賛美の内容が賛美の対象の素晴らしさや能力を歌っていることです。これらの節には、最低一度は、「主」(ヤハウェ)という名前が登場します。そのため、なぜ主が賛美を受けるのにふさわしいのか質問するとき、それぞれの節に最低一つの答えが含まれているのです。

34:1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

前回学んだように、詩篇34篇は「折り句」を使って書かれている詩です。折り句の詩の、第一句目はとても大切な役割を果たします。江戸いろはかるたをすべて暗記していない人でも、「犬も歩けば棒に当たる」は聞いたことがあるでしょう。いろはかるたの中に数多くの実用的なことわざが含まれているにも関わらず、「犬も歩けば棒に当たる」が特に知れ渡っているのは、それが第一句目だからです。同じように、 この詩篇をすべて暗記しない人でも、ヘブライ語のアルファベットの始めの文字で始まるこの節を覚えることはできたのです。

この節で特に強調されていることは、ダビデが会衆に賛美を促す前に、ダビデ自身が神に賛美を捧げていることです。ここで、パラレリズムを構成している「あらゆる時」、また「いつも」という表現は、ダビデが狂人を装わなければ生き延びることができないような時でさえ、という心が含まれていたのでしょう。そのような惨めな状況に置かれても、主により頼む者は一時の苦しみを乗り越えた後に祝福される、という真理を体験したばかりのダビデの素直な心が素直に表れています。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

ここで貧しい者というのは、経済的に恵まれていない人のことではなく、ヤコブの手紙1章9節Ⅱコリント11章30-33節と同じように、神の計画に従うために苦境に陥っている人たちのことを指します。

苦境に陥っている人は、自分が置かれている状況に目を向けがちです。その状態が長く続くと、その環境が永遠に続き、まことの神の大きさよりも問題の方が大きいような錯覚に陥りやすくなります。しかし、神の助けを体験した者が主の救いと約束を誇り、賛美しているのを聞くことによって、苦境の中にある人も再び主の誠実さを思い起こし、環境の大変さよりもはるかに大きな主に目を向けることができるのです。

34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

ダビデは、3節に入ってはじめて会衆に共に賛美することを求めます。神の救いを体験した人は、その喜びを自分の中だけにとどめておくのではなく、それを周りの人たちにも広め、共にその救いを感謝することを求めます。

ここで「ほめよ」、また「あがめよう」と訳されている言葉の持つ素晴らしさが日本語では上手に表現されていません。「ほめよ」と訳されている言葉は、原語では「偉大にする」という意味のある言葉です。現代的な例えを用いると「顕微鏡を使って拡大することによって誰にでも見えるようにする」というニュアンスが含まれています。主をほめることは、主をねぎらうことではありません。主の素晴らしさが他人に一目瞭然になるように表すことです。

また、「あがめる」と訳されている言葉は、原語では「高く持ち上げる」、という意味があります。これも現代的な例えを出すと「ツアー旅行で引率のガイドさんがその会社の旗を高く上げることによって、人ごみの中でもその人の居場所が分かるようにする」、というような上げ方のことを指しています。それが他のものよりも高く上げられていることによって、すべての人がそれに目を向けることができるのです。

具体的に「御名をあがめる」とは、神がどのような形でご自身を私たちに表してくださったかを讃えることによって、神のすばらしさが人々の目に付くようになることです。旧約聖書の中で神は多くの呼び名でご自身を表されました。それらの一つ一つには神の異なる一面が表されており、すべての面でどれほど神が完全で美しいのかを思い起こさせてくれます。

新約聖書でも、神のことを救い主、父なる神、備え主、創り主、などとさまざまな名前で呼びます。それらの表現にどのような意味があり、それが私たちの生活にどのような影響を与えるのかを考える時、私たちの心にはそれまで忘れていた神の大きさを思い起こさせられ、揺るぐことのない信仰と賛美の生活につながるようになるのです。

この詩篇の文脈においては、ここで語られる御名は「主」(ヤハウェ)であり、「神の民に約束を与えられ、それらを誠実に守ってくださる神」の一面をあがめることが求められています。神に信頼して、救われたダビデの確信がこの節にも表れています。

34:4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

この節には、なぜ主がそれほど賛美を受けるのにふさわしい方なのかが書かれています。それは、神が約束通り、主に信頼した者を救ってくださるからです。この箇所で、二つのことが際立ちます。

一つ目は、ダビデが求めたのは苦しみから解放されることではなく、主ご自身だったことです。まことに主を恐れている人は、主を利用して自分の計画を実現させようと考えません。なぜなら、私たちが神を作り上げたのではなく、まことの神が私たちを創られたからです。私たちは、主の喜びと計画のために呼び出されました。もし、私たちがそのような主の御手の中にいるのであれば、私たちは最も安全な場所にいるのです。救いよりも救い主を求めることが、神に喜ばれることなのです。

二つ目は、主の答えは、瞬時に状況を改善することではなく、その状況が長続きしても、普通ならその中で体験するあらゆる恐怖から守ってくださったということです。第一サムエル記を読むと、ダビデの生活はすぐに改善しませんでした。アキシュのもとを去った後も、故郷に帰ることはできず、洞窟や敵国に暮らす生活がしばらく続いたのです。しかし、そのような逆境に置かれても主の大きさに確信を持っている人は、すべての恐怖から解放されるのです。

34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」

ここで「輝いた」と訳されている言葉は、イザヤ書60章5節で子供たちと生き別れとなり、 二度と再会できないとあきらめていた母親のもとに子供たちが戻ってきたときの母親の表情を表すために使われています。

それだけ貧しい境遇に置かれている人たちが主の約束に希望を持って喜んでいるのですから、「彼らの希望の顔が失望の顔に変わらないように約束を守ってください」という祈りです。もちろん、これは神が期待を裏切らないという前提があるから捧げられる祈りです。

34:6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主がすべての苦しみから彼を救われた。

原語では、「この悩む者が呼ばわったとき」という表現が、実に味わい深く書かれています。日本語に訳すとその簡潔さや表現力が薄れますが、「こんな情けなく、惨めで、哀れな存在でしかないにもかかわらず、自分が呼び求めると主は聞いてくださった」というような気持ちを三つのヘブライ語単語で表現しているのです。

ここで、ダビデの言いたいことは、気違いを装うほどの惨めな人の祈りでさえ、神が与えてくださった約束に基づいているがゆえに聞いていただける実例があるのだから、「その人の価値によって祈りが聞かれるのではなく、その祈りを聞いてくださる主の契約と恵みによって聞いていただくことができる」ことを教えているのです。

34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

旧約聖書で「主の使い」と訳されている表現は、特別扱いされており、ただの御使いを指すのではありません。この呼び名は、一般的に目に見えない、肉体を持たない神が、この世界に降りてきてくださる時の呼び方であると考えられています。学者によっては、これをイエスとしてお生まれるになる前の子なる神と考える人たちもいます。どちらにせよ、神ご自身がその人の周りに陣を張り、敵の指が一本として触れることがないようにしてくださるというのです。詩篇121篇4節では、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と書かれています。そのような方が、24時間、360度の範囲でその人を守り続けてくださると言うのであれば、私たちはどのような脅威をも恐れる必要がないのです。

34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

この節の前半の表現は、Iペテロ2章3節ヘブル6章5節で遠回しに使われています。ここでは、主のすばらしさを、美味しい食事にたとえています。そこには、楽しみや喜びや満足が満ちあふれています。ここで、「すばらしさ」と訳されている言葉は、「トーヴ」という言葉で、総合的な美しさ、正しさ、好ましさを指す言葉です。

34:9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。

この箇所では、神がイスラエルの民に二つのことを教えています。一つ目は、彼らが神と特別な関係と役割を持っているということです。この箇所では、イスラエルの民を「聖徒たち」と呼びます。この言葉は、神の計画のために特別に整えられている(聖別された)人たちのことを指します。その計画とは、彼らがモーセの律法を守ることによって、世界にイスラエルの神が唯一まことの神であることを証明し、まことの神を認めるようになることでした。

二つ目は、もし彼らが主を恐れ、その契約に確信を持った生き方をするのであれば、神は彼らの必要をすべて満たすと約束されたことです。「主を恐れる」ということは、主を怖がることではなく、主のすばらしさを味わった人が、自分よりも主のことばに確信を持ち、それに従うことです。もし、主がそのような約束をしてくださったのであれば、主に信頼する人は絶対に乏しくなることはありません。

34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

聖書では、百獣の王であるライオンを力の象徴として使うことがあります(参照:ヨブ記4:10-11)。特に、若いライオンは年老いたライオンと比べて素早く、力に満ち、狩りも上手です。ですから、ダビデは、この箇所で若いライオンを持ち出し、それを「人間よりも自分の力で身の回りの必要をすべて満たすことができる存在の象徴」として使っています。もし、そのような存在でさえ乏しくなることがあるのであれば、人間が自分の力に依存して、自分の必要を満たすことには限界があることを教えます。

主を恐れる人は、自分の能力により頼むのではなく、その能力さえ与えてくださる神の恵みと約束に信頼します。また、乏しさよりも主ご自身を恐れることによって、逆境の中においても神によって選ばれた目的を忘れません。

もし、私たちが主ご自身を求め、主を恐れるのであれば、神ご自身が私たちの必要を満たしてくださいます。イエスが、「神の国と神の義をまず求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられる」と言われた言葉も同じ真理を教えているのです。

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