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神の律法とクリスチャン -後編-

著/ノエル・サンダーソン(オリーブの樹集会主幹)
編/BFP編集部

クリスチャンはこれまで、一般的に、律法についてあまり良い印象を抱いてきませんでした。しかし、律法こそ、神のご性質の現れであり、新約聖書の福音の土台を成すものとして認識される必要があります。

先月より、「クリスチャンと旧約聖書の律法との関係は何か」ということをテーマに、ノエル・サンダーソン師(南アフリカ)がメッセージを展開しています。先月は、モーセの律法(より具体的には、旧約聖書の始めの5書を示す)である“トーラー”の性質について学びました。今回は、律法について使徒パウロが何と言っているのか、ローマ書のみことばから解説していきます。

生来の「おきて(律法)」

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ2:14-15)

すべての人間には、心と精神、あるいは良心の中に神が込められた、生来の「おきて(律法)」があります。創造時、神は全人類の“良心という板”、すなわち、私たちが“心”と呼ぶものに、神の律法を受け止める受容力をお与えになりました。しかしながら、この生来の「おきて(律法)」は、私たちが本質的に正しく義であることを行わず、習慣的に罪を犯し、反抗することによって崩されていきました。

神を知り、神が私たちに求めておられることを悟ることができるという、生来の「おきて(律法)」は、偶像崇拝、異教的慣習、霊的な反抗などの堕落によってゆがめられていきました。

このような受容力は、神が全人類の心の奥に書き記された「おきて(律法)」なのです。その核心的部分は、人類の良心に刻み込まれていて、決して消し去れないものなのです。それは傷つき弱っており、破損しているので、メシアによる救いへと導く聖霊の働きを待っているのです。

習慣的に妥協したり、無視したり、押さえ付けたりすることにより、また、すべての聖であり善なるものに対して正反対の価値観や行いを意識的に受け入れることによって、この良心の律法は鈍くなってしまうのです。

この生来の「おきて(律法)」は、「トーラー(モーセの律法)」をまだ受け入れておらず、救い主のことを理解しておらず、それでいて純粋な心をもち、自分たちを造られた神を求めている人々の中に生きて働いているのです。

行いの原理(行いの律法)

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)。

ここまで学んだ二つの律法は、神の御手の業です。「トーラー」は石の板に刻まれ、生来の「おきて(律法)」は人々の良心に刻まれています。しかしながら、この「行いの原理(律法)」は人間がひねり出したものです。それは、私たち自身の偶像崇拝的な性質を反映しており、自分の霊的な努力に対して自分自身で大いに誇る、という性質を表しています。この律法がしばしば、トーラーと生来のおきて(律法)の裏に潜んでいることで、神によって備えられた本来の律法が分かりにくくなります。

この行いの原理(律法)は、神から離れて自分自身の義を確立しようとする、人間の故意の努力によるものであり、しかも、神に対して良い印象を与えようとする試みなのです。この原理(律法)を正しく理解するためには、その中心に神への不信仰と自分自身への信仰が潜んでいることを明確に知ることが肝要です。この原理(律法)によって作り出された働きは表面的には正しく見えるでしょうが、その核心も出所も動機も肉的なものなのです。その働きのすべては神の裁きの火によって滅ぼされてしまいます。(Iコリント3:12-15

信仰の原理(信仰の律法)

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)

「信仰の原理(律法)」は行いの原理(律法)と明らかに対照的です。行いの原理(律法)はたやすく識別でき、守ることも易しいのですが、信仰の原理(律法)によって私たちはチャレンジを受け、どんなに小さくても私たち自身の信仰を働かせることが必要とされ、また神に対する私たちの完全な献身をも迫られるのです。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:5)

「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」(ヨシュア22:5)

「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。」(マタイ22:37)

「あなたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)

これらのみことばこそ、神の義、恵み、真理に対する私たちの応答です。それと同時に、これらの神の義と恵みと真理が私たちの内に、「トーラー」を土台とした信仰を促し、メシアに対する私たちの礼拝と奉仕へと、私たちを導くのです。信仰の原理(律法)はそれ自体で存在することはできません。ヤコブによれば、信仰の原理は、すべての面で正しいとされるような行いを必ず生み出すはずなのです。

「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

これは矛盾しているのではありません。行いが私たちを救うのではありません。信仰だけが私たちを救うのです。しかしながら、真の信仰は、私たちの生活の中に行いをもたらし、聖霊の実を結ばせます。それらは私たちの内に達成された救いの証拠として、神とすべての人の前に明示されるのです。

罪の原理(罪の律法、原罪)

「罪の原理(律法)」は、私たち皆が、人間として所有している情熱に対して大きな影響力をもつ原理(律法)です。それは私たちの内に元から備わっているものです。

私たちクリスチャンは、それを、アダムとエバから引き継がれた「原罪」と呼びます。それは全人類に影響を及ぼすものなのです。ユダヤ教ではそれを「悪への傾向」と呼びます。私たちの情熱がこの原理(律法)によって支配されてしまうと、その結果罪が生み出されます。その原理(律法)は、特に、私たちの肉体の中の肉的な欲望に影響を及ぼし、私たちの意志を打ち負かすこともできます。ある場合には、その欲望があまりにも強くなり、私たちがもし主の御腕の中に逃げ込まなければ、私たちを占領してしまいます。その結果、私たちの内に激しい争いがもたらされます。

パウロは以下の聖句で、その争いに関して表現しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24-25)

私たちの敬虔な熱情と、肉的な欲望とのはざまで展開する、この内的で霊的な戦いに対抗する手段は、神であり、救い主であるイエスを通して、私たちに与えられる神の恵みです。神のみが、私たちの魂を霊的な死と悪魔の支配から救い出すことがおできになります。救い主を通して与えられる神の恵みによって、私たちは「トーラー」の完全な聖なるおきてに、完璧に従うことができるようになります。罪の原理(律法)のもたらす結果(死)から、私たちは逃れることができるのです。

聖霊の原理(聖霊の律法)

復活の後、イエスは、エルサレムにおいて聖霊の来臨を待つようにと、弟子たちに語られました。「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」――このご命令を実行に移すために、弟子たちに必要なことは聖霊を頂くことでした。聖霊こそ、イエスを救い主と信じる彼らの信仰告白を生きたものとし、それに力を与えるお方でした。イエスの死の意味を実感させ、また罪の原理(律法)を打ち破られるのは聖霊なのです。

聖霊のお働きによって私たちは覚醒し、自分が「トーラー」によって示されている神の標準からはるかに離れているという知識を与えられるのです。なぜなら、神は完全であり聖であられることを、神ご自身が教えておられるからです。聖霊の原理(律法)は「トーラー」をないがしろにするものではなく、「トーラー」の教訓を明らかにするものなのです。聖霊は私たちを自分の罪に注目させ、また、救い主によって与えられる恵みに私たちを導いてくださるのです。

今日の私たちへの意味

クリスチャンたちは、行いの原理(律法)に傾くという間違いを犯すことなく、モーセの五書に対する自分の態度を再吟味する必要があります。メシアによって与えられている教え、恵みとして、トーラーは私たちの中で調和されなければなりません。メシアにあって、トーラーが定める義はことごとく満たされており、私たちは十字架における救い主の御業に信頼することによって、トーラーが約束する祝福に近づくことができるのです。

ユダヤ的ルーツを理解することは、ユダヤ人の律法主義的な慣習の下に自分の身を置くようにということでも、また、ユダヤ人であるかのように振る舞うようにということでもありません。それは、聖書のみことば全体との間に私たちが深く真実な関係を回復させることができるように、また、私たち一人ひとりの信仰が、歴史の中でのイスラエルとユダヤ人、そして教会との間に正しい関係が築き上げられるような文脈の基に、築かれるための試みなのです。

旧約聖書に与えられている律法が束縛を意味するかのような誤解をしないように、私たちに与えられている詩篇の作者の麗しい表現を熟慮しましょう。

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」(詩篇19:7-11)

また、以下の聖句も黙想しましょう。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:1-3)。

編者より――私の友人であり、同労者であるノエル・サンダーソン師に、神の律法に関するこの洞察力に満ちたメッセージを著述してくださったことを心から感謝します。このメッセージが私たちをさらに力強いクリスチャンとなし、旧約聖書と新約聖書両方から成る神のみことば全体の教訓を、私たちが評価できる助けとなるように祈ります。

エルサレムよりシャローム

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