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ブドウ園と農夫 -後編-

BFP編集部 2004年11月

聖書に頻繁に登場するブドウ園と農夫の関係を通して、私たちと神との関係について、先月から2回にわたって学んでいます。今回はその後編、「ブドウの実を甘くする三つの方法」について、ギデオンを通して理解を深めてまいりましょう。

ギデオンから学ぶ―主を待ち望む

ギデオンの青年時代は、まさに神の祝福が明らかに現わされた時期でした。士師記6章34節には、「主の霊がギデオンをおおった」と書かれています。しかし隊長として、ミデヤン人やアマレク人と戦うように示された時、ギデオンは思い悩みました。彼が生きた紀元前12世紀は、エジプトの遠征で、都市国家すべてが滅亡したすぐ後でした。聖書にある通り、イスラエル人はアマレク人やミデヤン人の侵略に遭い、作物が奪われ、村々が襲われて破壊されました。

ギデオンは、こうした敵を撃退するべく、指導者として立てられました。しかし、この重要な局面で、神はギデオンに一言もおことばを掛けられませんでした。ギデオンは知りたかったのです。「3万2千人の人々と戦いに出ますが、あなたは私たちと共にいてくださるでしょうか!?」と。

神が沈黙される時、私たちは試されます。時にはその沈黙に耐えられず、神の御心を知るために、ついつい形あるしるしを求めてしまいます。ギデオンは、羊の毛を使って神を試しました。「今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」(士師6:37)

ギデオンは、毎晩夜になると豊かに露が降ることを知っていました。ですから、地面の一部が乾き、ほかがぬれているなら、それはまさに奇跡です。彼が翌朝起きて羊毛を確かめると、羊毛はぬれ、地面は乾いていました。

しかし、神の沈黙に耐えられないギデオンは、もう一度神を試しました。次の夜、ギデオンは言いました。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」(6:39)。そして、今度もその通りになりました。

誠実なる神は、“しるしを見せてください”という、若い未成熟な信仰者の祈りに答えてくださいます。しかし、その祈りは、時に神の御霊を悲しませることがあります。神が何も答えてくださらないように感じてしるしを求め、それを見ない限り信じないというのではなく、背後に働く神を知り、信頼し、信仰をもって歩む必要があります。

ギデオンが見たしるしは、最終的に彼に益をもたらしませんでした。しるしには幾つかの大きな問題が伴います。

第一に、しるしに頼り過ぎることは、神が与えてくださる“悟り”を弱めます。第二に、勇気をもって歩むことから足を遠のかせます。なぜなら、勇気と信仰による決断ではなく、状況に応じて判断することになるからです。第三に、常識と知恵を抑制します。第四に、いつも神に「AかBか」と、二者選択を求めることになります。もし、そこにCという別の答えが用意されていたらどうなるのでしょうか。

このような態度で主に臨む限り、主がギデオンに明確に語ってくださることなどあり得ません。“羊毛に露が降りた”というしるしに信頼を寄せるギデオンに、主はこう語られました。「あなたといっしょにいる民は多すぎる。」(7:2)。ギデオンはこう思ったことでしょう。主は一体何を仰せられるのか。自分がそもそもしるしを求めたのは、たった3万2千人で、あの恐ろしい敵との戦いに出るのを恐れたからなのに……と。

ギデオンは神のことばに従わざるを得ませんでした。そして、集まった3万2千人に対し、この戦いに参加したくない者たちは皆去るようにと宣言しました。彼は、去る者はわずかだろうと考えていたでしょう。しかし、予想に反して、2万2千人が家に帰りました。こうして彼の元に残ったのは1万人でした。恐らく彼は、神にしるしを求めることなく、あのまま戦争に行った方が賢かったと思ったことでしょう。

ここで神は再び語られました。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところ(ここでは、ギルボア山のふもとにあるハロデの泉のこと)に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。」(7:4)。ギデオンは民を泉に連れていきました。神は「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」(7:5)と指示されました。

この結果は、ギデオンをさらに驚かせました。手で水をすくって飲んだのはわずかで、最終的に主がギデオンのために残した戦士は300人でした。しかし、神はギデオンに約束された通り、300人の軍勢をもって勝利を与えてくださいました。こうして、小数の兵士によって勝利の栄光を得られたのは神でした。しるしに寄り頼んでいたギデオンではありませんでした。

イスカリオテのユダが死んだ時、初代教会は、ユダの代わりとなる十二使徒を立てる必要を感じ、くじを用意して使徒を選びました。くじですから、そのうちの誰かが当たりを引くのは当然です。しかし主の御心が、「ユダの代わりとなる使徒が、確かに必要である。しかし今ではない。」というものだったらどうでしょう。

使徒たちが“神の時”を心に留めていたなら、もっと時間を置いたはずです。やがてパウロが現れ、十二使徒の一人として立ったことでしょう。そうなれば、パウロが使徒であるかどうかの問題で、あれほど苦労することはなかったはずです。奇妙なことに、くじ引きによって使徒職に就いたマッテヤについては、その後全く記録が残されていません。

時に主の御心を正しく知るために、時間を置いて待つ必要があります。神は私たちが無理やり求めるものを、すぐにお与えくださるかもしれません。しかし、それらが最善ではないことがあり、時間を置くことで、むしろより良い回答が与えられることもあるのです。

霊的に若く未熟なとき、物事を自ら掌握し、結果を出そうと誘惑を覚えることがあります。神の沈黙、つまり農夫の不在期間には、大きな意味があります。これは信仰の成熟に必要不可欠です。そして、静かな露の到来(詳しくは先月号参照)――私たちをリフレッシュさせてくださる神の御声を待つこと、そして神の御心よりも先走らず、忍耐をもって御声を聴き続けることを学ぶ必要があります。

農夫の不在期間中、ブドウはどうやって生き延びるのでしょうか。これには、イスラエルの地に転がっている石が役立ちます。ブドウ園を覆っている岩石は空気より温度が低いので、この上に水分が付着してとどまります。夏場のエルサレムでは、私の車にもたくさんの露が降り、朝になると筋になって流れ落ちています。ブドウ園では、岩の上に付着した露が水滴となって地面に滴り落ちます。

霊的生活においても、露の訪れを待ち続けない限り、受け取るべき豊かな恵みを失ってしまうことでしょう。一見、地面の上で邪魔に見える岩や石も、露を招くためにとても大切なものなのです。それらは神のご臨在であり、私たちの命に直接染み込んでくるものです。

時々私たちは“自分は霊的に洗練されているから、静まってデボーションをもつことは必要ない”と錯覚し、忙しく奉仕することを重視します。しかしながら、主イエスは時に一晩中、一人で祈られることもありました。もし、イエスご自身が天の導きを求めて静まられたのであれば、それは私たちの模範にほかなりません。主は、神の御前に静まることなくして、決してご自身の伝道活動を成そうとはされませんでした。

ブドウの実を成熟させる第二の方法―農夫による訓練

これは、“枝打ち(余分な枝を落とすこと)”という農夫による訓練です。もし、すべての葉っぱや実を結ばないつるをそのままにしておくなら、栄養が取られ、肝心な実を結ばなくなってしまいます。イスラエルでは、豊かな実を実らせるために、かなり頻繁に枝打ちをします。降水量が少ないため、それをしないと小さくて酸っぱい果実しかならなくなってしまうのです。

こうした枝は、他の枝の実りを阻むこともあります。ヨハネ伝15章2節には次のようにあります。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

しかし、落とされた枝には、他の利用価値があります。切り落とされた枝は農夫の妻によって、主に薪として利用されました。私たちの人生にも、実を結ばない、落とす必要のあるものがあります。それらは罪深いもの、悪いものだけではありません。人生における本来の目的から私たちを遠ざけてしまうようなものも含まれています。枝を落とすという経験を通して、主に従い、御声を聴き、主が私たちの中に働かれることを望むなら、神は“人生本来の目的”へと導いてくださいます。

ギデオンの軍隊は、何度か「枝打ち」されて人数が減っていきましたが、そのたびにメンバーの信仰と勇気は増し加わりました。最初は3万2千人いたのが、最終的には300人という少ない数で戦う結果となりました。このような経験は大きな痛みを伴うものです。しかし、実を結ばない枝葉は取ってしまった方が、木にとって健康的なのです。最終的に、より多くを信じることができるよう、私たちの信仰を増し加えるために働かれる神の知恵と御力を、そこに見いだすことができます。

ブドウの実を成熟させる第三の方法―農夫による救出

ブドウの木がより良く育つための最後の方法は「農夫による救出」です。これは、ブドウ園が、外部からの何らかの脅威にさらされているとき、農夫が木々とその実を守ることを意味します(例―盗賊、ヤギ、疫病、悪天候など)。

ギデオンは、勝利のために思考を凝らして戦いに臨みました。彼は300人全員に、雄羊の角でできた笛を渡しました。戦士たちは、角笛に加え、300本のたいまつを手に取り、それをつぼで覆いました(士師7:16)。ミデヤン人が番兵を交替する時を狙い、新しい番兵が出てくるタイミングに合わせて、イスラエル人はミデヤン人の宿営をぐるりと取り囲みました。闇に出てきたばかりの番兵たちはまだ、周囲の暗さに目が慣れていません。イスラエル人がつぼを割ると、それまで酸欠状態だったたいまつが大きく燃え上がりました。そして300人は大きく角笛を吹き鳴らしました。

この作戦の効果を理解するためには、聖書時代について知る必要があります。当時の軍隊は、戦士100人に対して一人の指揮官が立ち、指揮官はそれぞれ角笛を持っていました。そうです!!アマレク人とミデヤン人は、精鋭300人が全員指揮官であり、3万人の軍隊がいると錯覚したのです。彼らは文字通り、押し合いへし合いしながら、あわててイズレエルの谷から逃げ出しました。主が下って、イスラエルを救いに来てくださったのです。彼らは叫びました。「主の剣、ギデオンの剣だ。」(士師7:20)

1973年の中東戦争で、イスラエル軍は『ギデオン作戦』なるものを展開しました。私はこれを、政治的な意味合いからではなく、イスラエルが主の助けによって、頭を使って敵を追い込んだ興味深い一つの例としてご紹介したいと思います。

シリアが、ゴラン高原の各地に、高度な通信施設を建設しました。旧ソ連はここに、独自に開発した盗聴装置と中継ステーションを配備し、自国の人工衛星を通して、イスラエルの軍事配備状況を、シリアに伝えることになっていました。さらに、KGBの活動員がこれらのステーションに配備される予定でした。

これに対し、イスラエル側は300人の兵士に無線を装備させて、シリアとの国境地帯に送り込みました。300人の兵士たちは、無線を使って、あたかも自分の配下に100人の兵士がいるかのような連絡を取り合いました。彼らはシリア側が無線を傍受していることを知っていて、これを逆手に取り、かく乱したのです。

こうして、多くの軍勢のように見せ掛けました。300人のイスラエル兵はダマスカス(シリアの首都)へ赴き、その周りをぐるりと取り囲みました。彼らは無線で、ダマスカスを攻撃すると連絡し合いました。彼らはお互いに実にさまざまなことを伝達し合いました。例えば「おまえは50人を連れて向こうへ行け。もう一人は50人を連れてあそこへ行け。」これらの無線を傍受したシリア側は、この情報をゴラン高原の遠く離れた火山や各地点にあるステーションに連絡し、「このままだとイスラエルによってダマスカスが包囲されてしまうから援軍を頼む。ゴランから戻ってきてくれ!」と要請しました。

こうして、偽の包囲作戦にだまされたシリア軍は、ゴラン高原から大急ぎで撤退しました。あまりにも大慌てだったため、各ステーションにあった、最高機密である旧ソ連の暗号情報が書かれた文書までそのまま置いてきてしまいました。この作戦で利益を得たのはアメリカです。イスラエルを通して、当時冷戦状態にあった旧ソ連の暗号情報を入手することになりました。

ヨハネ伝15章2節には次のようにあります。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、……」実は、ここで用いられている原語であるギリシャ語「取り除く」には、「持ち上げる」という意味があります。

今日、ヘブロンに行くと、聖書時代さながらの方法でブドウが育てられています。太い幹から枝が、地面に水平に、斜面に向かって伸び、この枝の先端を支えるために岩が置かれています。この岩にしっかり支えられることで、枝は地面に付くことがなく、冬の多量の雨によって腐ることもありません。この枝からつるが伸び、ここからブドウの果実が実ります。

この聖書時代のブドウの育て方から考えると、ヨハネ伝15章2節のこの箇所は「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを持ち上げ……」と読んだ方がよいでしょう。これは、農夫がブドウの枝を助け、持ち上げたことによるもので、これによって枝は、良い実を結ぶことができるのです。枝が損なわれることなく、良い実を結ぶことこそ、農夫の最も願うことです。

私たちが“持ち上げられる必要がある枝”のように、自力で立ち上がれない時、神は私たちを立たせてくださいます。神は私たちに、実りある者、良質で甘い実を結ぶ者となることを願っておられるのです。

私たちにどんな意味があるのか

イザヤ書40章30節から31節のみことばは、これまでに学んだ、農夫がブドウを育てる三つの方法の集約です。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

もう一度、思い返しましょう。主が答えてくださることを待ち続けることには、とてもつらいものがあります。「走ってもたゆまず」とは、忍耐をもって待ち続けるときにひそやかな露の祝福が得られることを表します。「歩いても疲れない」とは、訓練を受けることを意味します。ジョギングを経験された方なら分かると思いますが、疲れを感じなくなるには、何週間もの鍛錬、痛みを伴う一定の期間を通らなければなりません。

古代の詩篇の記者は、神が時に沈黙されること、その中で人が困難な時期を通らなければならないこと、やがて神が助けに来てくださることを知っていました。出エジプト記19章4節にもあります。「あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」

祈りをもって、この学びを結びたいと思います。

「主よ、私たちを助け、この三つの局面において成長させてください。あなたが長く沈黙される中でも忍耐をもって待ち続け、歩いても倒れることがありませんように。厳しい、痛みを伴う枝打ちの時でも、私たちの人生で不必要なものが取り除かれることを喜び、へりくだることができますように。あなたが私たちを助けてくださり、ワシの翼に載せて運んでくださることを受け入れることができますように。」

エルサレムよりシャローム

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