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ブドウ園と農夫 -前編-

BFP編集部 2004年10月

聖書の土地であるイスラエルは、メディアの視点を通して見る限り、暴力、戦争や闘争に満ちた国であるとしか映りません。しかし現実には、この国を訪れるほとんどの人々、そして実際に住んでいる私たちは“平安”を実感しています。

この土地がもつ独特の美しさが、その平安の要因になっているようです。田舎をドライブしたり、ハイキングしたりしていると、わずかな移動距離の中で、実にさまざまな異なった景観が展開し、私たちの目を楽しませてくれます。土の色がカラフルなネゲブ砂漠。超現実的な光景が広がるユダの荒野、死海周辺。緑豊かなガリラヤの森から、オリーブ、果物、ブドウの木が植えられた段々畑……と、実に多種多様です。

聖書の出来事、奇跡、または詩篇の記者の表現、また預言者たちの言葉は、ほとんど、この土地の風土、自然、気候と絡めて語られています。イスラエルの自然は、聖書のそれぞれのエピソードがいかに重要であるかを描く上で役立ちます。私自身も、歴史だけでなく、この国の地誌を理解することが、聖書のメッセージを解釈する上でとても重用であると確信しています。

聖書の記者たちは、このイスラエルに住んでいたユダヤ人たちです。ヘブライ文化では、現代人のような「これはどういうものであるか」という“形態”の面よりも、「これは一体何の役割をもつのか」という、“機能”の面に関心をもちます。聖書のみことばに出てくるものの働きを理解することによって、神のご性質、神と人間の関係、人間の性質がいかに描かれているのか、そのみことばのメッセージをくみ取り、解釈することができます。

このことを心に留めて、今回は、みことばに登場する“ブドウの木”と“農夫”に着目し、ブドウ園とその農夫の関係を通して、ご自分の子どもたち(人間)に対する神の配慮について学びたいと思います。

ブドウ園と農夫の関係について知るために、まず二つのみことばに着目しましょう。これを通して、ブドウ園の世話をすることがどんなことか知るだけでなく、神と私たちの関係についても学ぶことになるでしょう。神が農夫ならば、私たちは神のブドウ畑です。

「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。(中略)なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。」(詩篇80:8-15)

農夫とブドウ畑について最もよく知られているのは、次のイザヤ書の箇所です。

「『さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。

そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。

さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。』

まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」(イザヤ5:1-7)

農夫とブドウ畑について考える上で、今回、エルサレム聖地研究所の設立者であり、私の友人でもある、ジェームズ・フレミング博士の研究を参考にさせていただきました。

農夫は自分の畑を愛する

イザヤ書のブドウ畑の歌はこう始まっています。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。」(イザヤ5:1)。この農夫がいかに自分の畑を愛していたか、生き生きと描写されています。彼は自分の命を懸けて、畑の世話をしていました。これは、自分の群れに対して羊飼いが抱く愛と似通っています。

続いて「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き……その中にやぐらを立て、」とあります。その畑にはあまりにもたくさんの石がごろごろしているため、農夫はその石を使って、ブドウ園の周りに石垣だけでなく、見張り台も造ったのです。イスラエルで、斜面に段々に作られたブドウ畑をよく見てみると、大きな岩が、境界となる石垣と見張り台を造るために使われていることが分かります。二つとも、ブドウ園を守るために築かれました。小さな石は地面にそのまま残されます。その理由については、後で述べることにします。

何からブドウ園を守る必要があったのでしょうか。雅歌にはこう記されています。「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(2:15)詩篇80篇13節には次のようにあります。「林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。」

エレミヤ書49章9節では、盗賊が夜ブドウ畑を襲い、すべてを荒らしてしまう様子が記されています。さらに、ブドウ園にとって、もう一つの脅威はヤギの群れでした。ヤギは石垣のないブドウ園に入っていって、実、葉、ツルと、すべてを食べ尽くしてしまいます。これは今日も起こることです。

それゆえに、聖書時代以来、石垣の上に、さらに乾燥したイバラが巡らされました。原始的な鉄条網です。イバラがある限り、キツネなどは針が刺さるのを用心して、中に入って来ません。もう一つの策として、農夫は自分と家族が住む住居を畑の中心部に高く造り、見張り台としました。ブドウが実る気候である、温かく乾燥した時期には、農夫一家はこの住居に住み、作物を守りました。

ブドウ畑はどのようにして応えるのか

イザヤ書5章には、甘い実を結ばず、酸っぱい実が実ったというブドウ畑が出てきます。農夫はこれを役に立たないものとして放置し、生垣を取り除きます。ブドウは自然の摂理にさらされます。動物が園に入って来、ブドウを食い荒らします。余分な枝を切り落とすことも、地面を耕すこともされません。農夫はそのブドウ園を、守りや配慮もなしに放置してしまったので、結果的に園は荒廃してしまいます。

これは私たちとどんな関係があるのでしょうか。もし私たちがブドウの木であるとして、ただ酸っぱい実を主の前に実らせ、自分たちの欲しいままに生長するとしたら、その末路はいかなるものでしょう。イザヤ書5章にあるブドウ畑のように、将来主が私たちをどうされるのか、また守っていただけるのかどうか予測がつかない、不確かな状態に陥るでしょう。

世の多くの人々は不平不満を言いながら、自分たちのしたいことをしていますが、その結末は絶望的です。神が御手を取り去られ、私たちが神の保護から離れてしまうとき、周囲の世界から一気に影響を受けます。こうして主からますます引き離され、そして滅びてしまうのです。

「信仰生活を成功させるためには、“良いブドウの木”として歩み出す必要がある」と考えていらっしゃる方はいないでしょうか。それは真実ではありません。神の御国に入るために、自分たちが完全な者、つまり“甘い実を結ぶブドウの木”である必要はないのです。もし私たちが主の前に“酸っぱいブドウの木”であったとしても、神が私たちを養ってくださり、世話をしてくださる限り、最終的に私たちが甘い実を実らせることができるようにしてくださいます。

ブドウの木が実際に大きくなるまでは、それがどんな実を実らせるのか判断がつきません。耕された土地に植えられた栽培種のブドウの木と、野生に育ったブドウの木の間に、品種的な違いはありません。イザヤ書5章2節に、ブドウ園の農夫が、自分の畑に“良いブドウ”の木を植えた、とあります。ここで出てくる良いブドウとは、ソレクの谷を原産とする品種です。ソレクの谷はエルサレムの西にあり、そこのブドウ園は最高のワインを産出するすばらしい畑として知られています。

さて、この農夫は良いブドウの木を植え、良い実がなるのを期待していました。しかしながら、良い産地から持ってきたブドウの木が、別の土地で同じように良い実を実らせるわけではないことは自然の摂理です。興味深いことに、酸っぱいブドウの木も、よく耕して、余分な枝を落として守ることで、だんだん甘い実がなるようになります。これは、愛情をもって育てたことの結果です。

この聖書箇所では、農夫がブドウの木のためにできる限りの世話をしたと書かれています。しかし、彼は次のように嘆いています。「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」(4節)

ここで何が起こっているのか、皆様はお分かりですか?

ブドウの木が栽培種であろうが野生種であろうが、手塩にかけて育てることによって、甘い実を結ぶようになる、ということです。しかしながら、農夫が一生懸命育てたにもかかわらず、このブドウの木は、まるで手入れされていないブドウの木のような、酸っぱい実を実らせました。

同じように、私たちも自由意志をもつ存在として、たとえ神が愛をもってお取り扱いくださり、守ってくださっても、それに応えず、甘い実を実らせるには至らないことがあります。

この農夫は恐らく失望し、いら立ち、実を実らせないブドウの木に対して怒ったことでしょう。このブドウの木に対して農夫が行った罰とは、一体何だったのでしょう。ブドウ園は放置され無法地帯となり、野生の獣がそれを食べ、踏み荒らされるようになりました。

言い換えれば、もしブドウの木が変化を望まず、野生の状態であり続けることを選ぶなら、酸っぱい実を実らせ続けるだけになるということです。農夫がこのブドウに与えた罰とは、“あなたのやりたいようにしなさい”というものでした。

時に神の答えは、“あなたのやりたいようにしなさい”

聖書の中で、実はこれは、何度も取り上げられているテーマです。神の答えは時々、“あなたのやりたいようにしなさい”なのです。イスラエルの民のことを思い出してください。エジプトを出た後、神はこの民のすべての必要を満たして守られました。

しかし、ヨシュアとカレブが、約束の地へ進んでいこうと民を説得したのに対し、民はそれを拒絶しました。彼らは、ヨシュアやカレブの言葉よりも、約束の地を偵察してきたスパイたちの、「恐ろしい敵であふれている」という人間的な報告を聞き、そちらの方を信頼したのです(民数記14章)。結果として、彼らは神の命令に従わず、土地に入らなかったため、40年間にわたって荒野で放浪し、その世代は荒野で死んでいきました。約束の地に入ることができたのは彼らの子孫、新しい世代でした。

神は、荒野でイスラエルの民を養うために、“マナ”と“ウズラ”を与えられました。“マナ”という言葉を表すヘブライ語は、アルファベットの“メム”“ヌン”の2文字で記されています。この正確な意味は不明ですが、恐らく“これは一体なんだろう”という意味が込められているということです。砂漠での放浪中、いまだかつて経験したことのなかったものに対する、驚きの思いを表しています。

マナは一体どこから来たのでしょうか。“ロッテム”という植物からのものである、という説があります。砂漠の上を風が吹く時、舞い上がった砂がこの植物のトゲの表面に当たって小さなくぼみを作ります。

このくぼみから白い泡が吹き出してきて、ちょうど真珠大の大きさになります。砂漠気候の中でこの泡は乾燥して固まり、ポップコーンのようなものが出来上がります。これを食べるとはちみつのような甘い味がします。これはマナが風に運ばれて、イスラエル人の宿営の元に届いた、という記述に一致します。

ウズラについてはどうでしょうか。実際に動きの素早いウズラを捕まえるのは至難の業です。しかしここに神の介入がありました。シナイ半島は、ヨーロッパからアフリカに渡る渡り鳥たちの主要経路です。地中海を渡った後、鳥たちはシナイ半島の海岸線に降り立ちます。長い旅をして来た鳥たちは疲労困ぱいし、すぐに飛び立つことができません。聖書時代のイスラエル人は、渡りのためにぐったりしていたウズラをたやすく捕獲し、食料とすることができたのです。

ブドウを甘くする三つの方法

農夫が酸っぱいブドウを甘くする三つの方法があります。甘いブドウの実とは成熟した果実です。同じように、主と共に歩む中で、私たちも成熟する必要があります。ブドウ畑を世話する農夫の姿から、主が私たちを霊的に養われる方法を見いだすことができます。

この三つの方法を一つ一つ見ていき、私たちと主との関係にも適応できるかどうか考えてみましょう。

ブドウの実を成熟させる第一の方法―農夫の不在

イスラエルでは、11月から2月にかけて、年間降水量の75パーセントを占める雨が降ります。そして3月、遅くても4月に、「後の雨」という雨が降ります。4月後半から9月までは完全な乾季です。この暑い乾燥した気候のシーズンが、ブドウにとっては成熟の時であり、9月には完全に熟します。

本当に奇跡のような果物です。

貯水槽の水が皆干上がってしまうこの時期、ブドウの実はみずみずしく甘くなります。中東の強い日差しの中、一滴の雨も降らない中で、どうして生き延び、水気たっぷりの実を実らせることができるのでしょうか。これは、この植物が、地面に降りた夜露を通して水分を得るからです。

詩篇133篇には、シオンの山々に降りるヘルモン山の露の恵みについて記されています。ホセア書14章5節には「わたしはイスラエルには露のようになる」とあります。ブドウの実はこの時期、ただ降りてくる露のみによって生き延びるのです。乾季に降りる夜露の総降水量は18〜28センチメートルになります。砂漠気候のイスラエルにとって、水は最も大切なものです。それゆえ、聖書の中では、水は祝福として描かれています。

世界には、降水が豊富過ぎて、時として洪水が起こり甚大な被害をもたらすため、むしろ太陽の光の方を祝福と考え、雨に対して否定的な国もあります。

しかし、イスラエルでは決して「うんざりさせられる」ような雨は降りません。大量の雨が降ることもありますが、それはいつも必要なものなのです。神の祝福と同じです。もし雨が、「神からの明確な祝福」であるなら、夜露は、静かに到来する、神からのこの上ない祝福なのです。

ブドウは、夜にひっそりと落ちてくる露によって生き延びることができる、イスラエルでも数少ない作物の一つです。農夫たちは、早春、ブドウ畑を耕すために一生懸命に働き、農地を離れます。生長期間である長い夏の間、農夫はブドウ園を放置しておきます。最初は酸っぱかったブドウの実が、この時期、露の恵みを受けて熟し、甘くみずみずしいものとなるのです。

これを皆様自身に当てはめてみましょう。神が私たちに対して沈黙しておられるように感じ、神が答えてくださるのを待っている間、私たちはどうすることができるのでしょうか。私たちはこの、ひそやかな祝福である露のように、私たちの人生の中で目に見えない形で進行し、私たちの成長を助け、成熟させ、豊かなものにしている、神の隠された祝福を感じることができるでしょうか。

クリスチャンとして歩み始めたころの豊かな雨の時期を懐かしみ、現在の乾季の中で霊的に疲弊している人はいないでしょうか。または、信仰によって成長し、目に見えない、しかし大きな命を与える、露の祝福を待ち望んでいるでしょうか。沈黙の期間が長引くと、神のご臨在を感じることが大変になりますが、実はこの時を通して、神は私たちに、“信仰をもち続け、主に信頼しなさい”というレッスンを与えておられるのです。

来月の後編では、「ブドウを甘くする三つの方法」の第一番目「農夫の不在」について、ギデオンを例にとり、深く学びます。そして第二、第三の方法についても学びます。どうぞお楽しみに!!

エルサレムよりシャローム

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