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ティーチングレター

安息日を覚えよ -前編-

BFP編集部 2004年6月

何世紀にもわたって、「安息日を守ること」が、キリスト教界において最も活発な論議の的となってきました。安息日(土曜日)のみに限定して礼拝を行うことを主張する人々は、日曜日に礼拝する教派と一線を画し、逆に日曜日を「クリスチャンの安息日」と呼ぶ人々は、その立場を擁護するという、キリストの体に一致が見られない状況が続いています。

もちろん、物議を醸すことになるとしても、土曜礼拝論と日曜礼拝論に触れずにおくことはできません。この問題に関しては、聖書的な安息日の美しい守り方を学んだ後、今回の学びの後半で取り上げようと思います。

安息日を覚えるのは、ユダヤ人だけであり、クリスチャンには関係ないと考えている方は、このティーチング・レターを読んで、その考えを変えていただきたいと願っています。「安息日を覚える」ことは、時代を超え、ユダヤ人、非ユダヤ人を問わず、聖書を大切にするすべての人々に共通する大切な教えです。

安息日の始まり

「天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世2:1-3)

最初の安息日はこのようにして守られました。七日目に、神は創造の御業をやめ、安息されました。モーセに十戒をお与えになるはるか前に、神は安息日の模範を示してくださいました。そして、シナイ山でイスラエルの民とその将来の世代に対し、安息日を守り、それを聖なる日とするように命令されました。

レビ記において神は、『主の祭り』を守るように、民に仰せられましたが、その中には安息日も含まれています。みことばに次のようにあります。

「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次の通りである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」(レビ23:2-3)

主の安息日が、過越の祭り(ぺサハ)、ペンテコステ(五旬節=シャブオット)、仮庵の祭り(スコット)と共に、主への祭りの一つとして取り扱われていることは、注目するべきことです。これらの祭りは、今日に至るまでユダヤ人が忠実に守ってきたため、しばしば“ユダヤ人の祭り”と誤って呼ばれています。しかし聖書の中では、ユダヤ人の祭りではなく、むしろ、“主の例祭”と呼ばれているのです。

もし、私たちクリスチャンが新約聖書を正しく理解するなら、メシアであるイエス・キリストを通して、神がイスラエルにお与えになったあがないの契約に結び付けられ(エペソ2:11-13)、接がれている(ローマ11:13-24)存在であることを、受け止めることができるでしょう。私たちは“養子として”アブラハムの子孫に加えられ、神の約束にあずかり、人類救済計画の一部とされました。

私たちもまた、ユダヤ人と共に、これらの祭りを通して、主が成してくださった奇跡を思い出し、祝い、神がお与えになったさまざまな祝福を楽しむことができます。そして、神のご性質について理解を深め、世界に対する神の救いのご計画のすばらしさを味わい、聖書的な信仰のルーツの理解を増し加えることができるのです。

安息日は憩いの日

ヘブライ語で安息日は「ヨム・シャバット」と言い、週の七日目(金曜日の日没から土曜日の日没まで)を指します。安息日はユダヤ教の儀式の中で、最も良く知られていながら、なおかつ最も理解されていないものです。安息日をよく理解していない人々は、この日が細かい禁止事項の多い日であるか、またはただ単に祈りの日だと考えています。しかし、安息日を守っている人々にとって、この日は貴重な神からの贈り物であり、毎週その日が来るのを熱心に待ち望む、特別な日なのです。私たち自身も、その日には1週間の雑事を離れ、神と、そして家族と深く交わります。

ユダヤ人の著作や詩歌、音楽において安息日は、“花嫁”“女王”として描かれています。中でも有名なのが「レハ・ドディ・リクラット・カーラー(私の愛する人よ。こちらに来て、安息日である花嫁に会っておくれ)」という歌です。これは安息日を偶像視するのではなく、安息日は特別な日であり、結婚式へ臨むように、心うきたつ思いで、準備を怠らずに行う、というものです。ユダヤの格言では「イスラエルが安息日を守っているというよりも、安息日がイスラエルを守っている」と言われています。

安息日は、十戒の中で唯一、その守り方が示されている戒めです。そのため、ユダヤ教の中で最も、重要な儀式とされています。安息日は、1年間の罪を神の前に悔い改める贖罪日(ヨム・キプール)よりも、重要とされているのです。

安息日は毎週守られ、トーラー(聖書)を読むために会衆が集まります。これは間違いなく生活の中に良い影響を及ぼしています。安息日はまた、家族が一緒になって神を覚え、互いを愛する日でもあります。変化の激しい現代社会では、緊密な家族の絆を保つのは、非常に難しいことです。両親はたいてい働いていますし、子どもたちはほとんど毎晩のようにスポーツや音楽活動、勉強、テレビゲーム、あるいは友だちとの外出などで非常に忙しいありさまです。安息日とは、家族全体の憩いの日であり、霊的な豊かさを与えられる日でもあります。

ユダヤ人は安息日にシナゴーグ(会堂)でかなりの時間を割いて祈りますが、「祈り」がこの日の第一目的ではありません。規律正しいユダヤ人は安息日だけでなく、毎日、しかも日に三度祈りを捧げます。また、安息日の始まりに摂る、特別な食事が目的なのでもありません。安息日はまず、家族全体が集う、家族のための日ですから、その点で週の他の日とは異なり、その期待をもって家族全員が参加します。彼らの安息日は、家族が元気を取り戻す日であり、霊的な家族の絆が強められる日なのです。

今日の社会では、週に五日だけ働くことが、まるで当たり前のように見なされていますが、古代において週に一日休息するという概念は、非常に革新的でした。当時は、週ごとに休日を設けることはありませんでした。余暇を楽しむことは、金持ちや支配階級の専売特許で、奴隷や労働者階級の人々には許されていませんでした。

古代バビロニアでは、“シャパトゥ”と呼ばれる休日が、1カ月に一度だけありましたが、その日は“不幸な日”であると考えられていました。古代のギリシャ人やローマ人は、ユダヤ人を毎週七日目に安息するゆえに、怠け者とみなしており、結論的にはそのことで、彼らを迫害したのです。その結果、ユダヤ人は同化の誘惑や迫害に屈せず、ある時はその富や命を懸けて、安息日を聖なる日として守ってきたのです。どんな迫害に遭っても、ユダヤ人は安息日を神からの贈り物とみなし、決して安息日を守ることをやめませんでした。

安息日を「覚えること」と「守ること」

安息日には二つの関連した命令が伴っています。それは「覚えること(ザホール)」と「守ること(シャモール)」です。

ザホール(覚えること)

私たちは安息日を覚えるようにと命じられていますが、覚えるとは、ただ安息日を守ることを覚えておけばよい、というものではありません。天地創造の記念として、またエジプトにおける奴隷制度からイスラエルの人々が解放されたことを記念する日として、安息日の重要性を覚えておくことを意味しています。

出エジプト記20章8節から11節で、神は第4の戒めをお与えになりました。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」

この章句において、神は安息日を“天地創造、および神ご自身の休息”と結び付けておられます。七日目に休み、それを聖なる日とすることによって、神が天地とその中にあるすべての物の創造者であられることを覚え、また認めるのです。神の模範にならい、第七日目には仕事を休むのです。

モーセは十戒について触れる中で、安息日に覚えるべき2番目のことに言及しています。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」(申命5:15)

エジプトから脱出したことと、七日目に休むことにはどのような関係があるのでしょうか。安息日は"解放"を意味しています。古代では、休息のための自由時間は、特権階級のみに限定され、奴隷たちには休日がありませんでした。ですから、安息日に休息することによって、奴隷たちは“自分たちが自由であること”を知ることができたのです。

神は私たちに1週間に1日の「憩い」を与えてくださり、神を喜び、家族と楽しむ恵みをくださいました。何とすばらしいことでしょうか。しかしこの恵みは、私たちが受け取らなければ、意味がありません。神の摂理によって、もしこの休日を忠実に守るなら、神は私たちが栄えることを確約してくださいます(イザヤ58:13-14)。

おそらく、1週間に七日間働く人よりも、栄えさせてくださることでしょう。それはちょうど、シュミッタ(土地を耕さない7年目)に収穫がなくても、十分食べることができるようにしてくださったのと同じです。安息日は神からの贈り物です。悲しいかな私たちの多くは、毎週与えられるこの贈り物を活用していません。

事実、どのような心配事も、安息日に持ち込むことは許されていません。私たちは六日間を、種々の問題に取り組むために使うことができます。しかし安息日には、悩みから解放されなければいけないのです。ちょうどイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたように。
安息日はエジプト脱出を覚える時であり、奴隷からの解放を思い起こし、神ご自身を楽しみ、私たちに与えてくださった命を楽しむ自由を味わう時なのです。

シャモール(守ること)

安息日における2番目の命令は“守る”ことです。ユダヤ教は4千年もの歴史をもっているので、神のみことばを喜び、実行するための方策が無数にあります。

安息日には「しなければならない」ことと同時に「してはならない」ことがあります。

安息日に仕事をするなと命じられるとき、私たちは単に肉体的な労働や過酷な勤めをしないことであると理解しがちです。このような定義なら、電気をつけることは許されるはずです。なぜなら、その動作は、あまり大きな力を必要としないからです。

「仕事を禁止する」という原則から言うなら、ラビたちが安息日の礼拝を導くことは、彼らが従事している仕事をすることですから、本来許されないはずです。しかし、ユダヤの法律では、前者は禁止され、後者は許されているのです。ですから、非ユダヤ人にとって、ユダヤの律法を理解することは困難です。

問題は、ユダヤ人の律法にあるのではなく、仕事に対する定義にあるのです。トーラーは21世紀の今日において意味付けられる“仕事”を、禁止しているのではありません。安息日にしてはならない仕事を“メラカー”と言います。安息日の禁止事項を理解するために、まずメラカーという言葉の意味を理解しましょう。

メラカーとは一般的に、創造的な働きや、支配権を働かせたり、統治したりすることを意味します。メラカーの典型は、宇宙の創造でしょう。天地を創造される働きを、神は第七日目に休まれました。神の御業は、肉体的な労働を必要としたものではなかったことに注目してください。神はただ、ことばを語られました。それだけですべてのものを造られたのです。ですから、メラカーはむしろ、「創造的な業」と訳されたほうが良いでしょう。

ヘブライ語では、39種類の仕事を「ラメッド・テット・メラホット」と呼びます。それらには、以下の種類の働きが含まれています。

「耕すこと、種をまくこと、収穫すること、束を作ること、脱穀すること、穀物をふるい分けること、選別すること、動かすこと、穀物を粉にすること、こねること、パンを焼くこと、羊の毛を刈り込むこと、漂白すること、原材料をすくこと、染色すること、糸を紡ぐこと、機織り機に糸を通すこと、機を織ること、完成した製品を機械から取り下ろすこと、糸に分けること、結び目を作ること、結び目を解くこと、縫うこと、引き裂くこと、馬に飾りを付けること、屠殺すること、皮をはぐこと、皮をなめすこと、解体すること、区分けすること、形に切り取ること、書くこと、消すこと、建てること、壊すこと、火をつけること、火を消すこと、最後の一打を打つこと、公の場所で持ち運ぶこと」(ミシュナー・シャバット、7:2)

ここに挙げられたすべての仕事、また、これらと同じ原則の仕事や同じ目的をもつ仕事が禁じられています。加えて、上記の目的を果たすいかなる用具(例えば、金づち、ペン、マッチなど)を使うことも禁じています。

ラビたちはまた、旅行、売買、その他週日に行われるもので、安息日の精神と合わない用事をすることを禁止しています。電灯をつけることは、火をたくことと同じ作用をするので、これも禁止されています。

安息日に自動車を使うことが禁止されているのは、自動車が内燃機関のエンジンによって動く構造になっており、ガソリンやオイルを燃やして動力を得るので、明らかにトーラーによって禁止されている火をおこすことにつながっているというわけです。その上、自動車を動かすことは、公の場所で何かを運搬することにつながり、トーラーの禁止事項に該当します。

“メラカー”を避けることは、この物質世界に影響を及ぼすことを避けようとすることです。電灯をつけたり消したりすることも、車を運転することも、激しい労働ではありませんが、この物質世界に影響を及ぼすことです。

聖書の時代において安息日は、非常に大切でしたから、公に安息日を犯す者は死刑にされました(民数15:32-36)。また、安息日を犯すことは、偶像礼拝をするに等しい罪だと見なされていました。

ザホール(覚えること)シャモール(守ること)、この二つは全く異なった二つの考えですが、その二つが溶け合うことで、安息日を理解することができます。『覚えること』は安息日を待ち焦がれる様子を表しており、週末の安息日が終わってしまうのを惜しみながら、週日の他の日は次の安息日の喜びを表わす前奏曲のようなものであると表現されています。『守ること』は律法を守ることであり、それなくして安息日はないのです。ここまで、安息日の意味について深く学びました。来月は、実際にユダヤ人がどのようにこの日を守っているのかを学び、現代の私たちがそれをどう適応できるのかを考えていきましょう。

エルサレムよりシャローム

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