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嘆きを喜びに変える -後編-

BFP編集部 2004年5月

先月号の前編では、「死」と「嘆き」を、聖書はどのように取り扱っているのかについて学びました。今月は、聖書時代の埋葬の風習に着目し、このテーマについて、神が何とおっしゃられているのかを理解していきましょう。

聖書の中にある埋葬の風習

人類は誕生すると同時に、死後の世界“来世”について探求し続けてきました。これは、遺体や埋葬に関する膨大な考古学的証拠が見つかっていることからも明らかです。

“埋葬されない”ということは、古代世界では恐るべきことであり、刑罰の一種でした(申命28:26、I列王14:11、エレミヤ22:19)。人物に関する聖書の記録は、その人が亡くなり、埋葬されることで終わっています。また、「自分の民に加えられた」と暗喩的な表現が使われています(創世25:8、17)。さらに、「こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。」(I列王2:10)という表現から、来世は一族の先祖たちと共に過ごすと信じられていたことが伺えます。

ヤコブはエジプトで亡くなりましたが、自分の遺骸を、マクペラの洞窟にある、先祖アブラハムが設けた一族の墓に埋めてくれるよう頼みました。ヨセフもまた、死の床にあって、自分の遺骨はイスラエルに埋めるようにと言い残しました(創世50:25、ヨシュア24:32)。

ユダヤ人とクリスチャンは、死者の復活を信じているため、遺体の埋葬を大変重要視してきました。両者とも、葬式を執り行うための組織を設立して、死者をきちんと埋葬しました。葬式の費用を捻出できない貧しい人々のためには、信仰と慈善の念から、代わって葬儀を執り行いました。

古代の家族用墓(横たわっているのは現代の人々)

死後、一刻でも早く遺体を埋葬することは、決まりごとでした(申命21:22-23)。ただし、安息日や聖なる日には埋葬を行いませんでした(ヨハネ11:39、19:31)。

肉体は土へと帰ってしまうことから、一般的に遺体の防腐処理は行われませんでした。ヤコブの遺体がミイラにされたのは、エジプトの風習に従ったもので、本来イスラエルでは行われていませんでした。それは、律法でも禁じられていました(レビ21:1、民数5:1-4)。

遺体に触った人は宗教上“汚れた”とされ、宿営、あるいは社会の外に出なければならず、後で、“ミクヴェ”と呼ばれる清めの風呂に入って身を清める必要がありました。新約時代に入ると、ユダヤ人の納められた墓は白く塗られました。人々が間違って立ち入らないように、そこに遺体があることを示すためでした(マタイ23:27)。衛生上、また宗教上の理由から、ユダヤ人、また初期のクリスチャンたちの墓は、ほとんどの場合、町の境界線の外に設けられていました。

遺体は、目を閉じられ(創世46:4)、きれいに洗われ(使徒9:37)、防腐のためではなく、埋葬されたらできるだけ早く土に分解するようにと、大量の香料や香油が注がれました。墓を訪問することが習慣であったことから、これは遺体が土へ帰っていく上で発生するにおいを防ぐものでもありました。

遺体を包むための亜麻布、または布切れにも香料を染み込ませました(II歴代16:14、ヨハネ19:39-40)。遺体全体を包み、さらにもう一枚の布で頭部が包まれ、布切れであごのところを固定しました。この遺体の埋葬準備は、通常、遺族によって(レビ21:1)、家族がいない場合は、近しい友人たちの手で行われました。

主イエスの埋葬についての記事は、当時(第二神殿期)の埋葬がどのように行われたのかについて、ヒントを与えています。(ヨハネ19:38-41、20:1、6-7

第二神殿期(イエス時代)の骨つぼ

当時、棺おけはそれほど普及していませんでした。むしろ、遺体は亜麻布で巻かれた後、自然による風化に任せられました。

骨だけになると、遺骨を集めて骨つぼに納め、墓の内部の別の場所に安置しました。骨つぼは大体長さ60cm、広さ46cm、高さ30cmの大きさのもので、装飾が施されていました。似たようなスタイルで、さまざまな種類があり、家族が同じ墓で一緒に眠ることができるようにされていました。

ユダヤ人や初期のクリスチャンは、火葬はしませんでした。それは、肉体は自然に土へと帰るという信仰に基づいていました。聖書時代、火葬は罪人に対する罰として、辱めに満ちたものでした(ヨシュア7:15、イザヤ30:33)。

遺体を焼くということは、数々の背きの罪に対し、聖書のおきてとして定められた、四つの死刑法の一つでした(レビ20:14、21:9)。また、異教徒が用いる埋葬法で、特にギリシャ人やローマ人は、魂だけが生き続けると信じ、遺体にはほとんど関心を払っていませんでした。

聖書時代の埋葬

ユダヤ人の風習では、葬式とは、遺体を墓地まで運ぶ過程そのものでした。亜麻布に包まれた遺体は、木製の台に置かれて運ばれました。この風習は少なくともダビデ王の時代にまでさかのぼることができ(IIサムエル3:31)、新約時代にも続けられていました(ルカ7:12)。

墓地までの葬列は決して“しめやか”とは言えないものでした。人々は大っぴらに悲しみを表し、衣服をずたずたに引き裂いて悲しみを表現しながら進みました。普通に嘆く人々、また“泣き人”として雇われた人々などが、大っぴらに悲しみを表しました。会堂管理者ヤイロの家にいた“泣き人”たちは、イエスが彼らを追い払うことを嫌がりました。恐らく、自分たちの収入を失いたくなかったのでしょう(マタイ9:24)。

葬列が進む中、歌が歌われ、楽器が演奏されました(通常は笛)。特に有名な故人のためには、その人を賛美する、記念の哀歌が作られました(IIサムエル1:18)。

遺体のための香油と香料の品質、墓のタイプ、骨つぼのデザイン、亜麻布の品質、木製の台の品質、泣き人の数、楽手の数は、葬儀の費用に左右されました。確かに、太古の昔からも、葬式に掛かる経費はその一家にとって大きな負担でした。

喪に服することを意味する黒い衣服を着ることは、非ユダヤ人がすることとして、ユダヤ人の習慣にはありませんでした。歴史的に、喪のための衣装として、ユダヤ人は常に白い装束をまといました。また初期のクリスチャンも、7〜8世紀までは、故人が死を通して永遠に主の傍にいられる喜びを表すために、白い衣を着ました。しかし、教会が生き生きとした信仰と、死に対する理解を失うにつれ、主にある喜びと希望を失い、異教徒の習わしをまねて、喪のために黒を着用するようになりました。

涙つぼ

嘆きは、愛する人を失ったときだけではなく、人生に悲しみが訪れたときに伴うものです。

イエスの時代、ユダヤ人は、「涙つぼ」と呼ばれる小さなつぼに、自分の涙をためる、という特殊な習慣がありました。涙型をしたこのつぼは、口が朝顔のように開いていて、人が泣くときにこの口を目の下に持ってきて、涙をキャッチするようになっていました。つぼには栓がされ、貯蔵されました。

もともと喪では白い服を着用した

第二神殿時代の発掘物からは、さまざまな種類の涙つぼが発見されています。当時の風習で、19〜20世紀に奨励されていたような“悲しみの涙をこらえ、歯を食いしばって耐える”ようなことはなく、公然と泣いて、このために作られたつぼに、悲しみの涙を貯めていました。公の場でも私的な場でも、涙を流すことで悲しみを緩和しました。

今日、科学者が発見したことによれば、悲しみのために深く涙することによって、体の毒素が体内から流れ出るそうです。この場合の涙とは、通常、眼球が乾かないように湿気をもたらしている涙とは、成分が違うのです。ですから泣くことは(体に)良いことなのです。愛する人が亡くなった後、深い嘆きのために涙することに時間を費やすと、徐々に気分が回復してきます。涙を流さない人は、内にこめた痛みを解放することができず、それゆえに心身を蝕んでいくのです。

ですから、悲しみと涙の因果関係に対する古代の人々の理解は、正しいものでした――それがなぜであるかは、分からなかったとしても。

涙を流す、ということは、葬儀の場で嘆くために雇われた“泣き人”たちにとって非常に重要な場面でした(エレミヤ9:17-22、アモス5:16)。ミシュナー(口伝律法が成文化された教典。紀元2世紀に成立)の時代になると、ラビ・ユダは「例えイスラエルで最も貧しい者であっても、葬送曲を演奏するために最低二人の笛吹き、一人の泣き女を雇わなければならない」という決まりをつくりました(ケト4:4)。

涙を受けるためのつぼは、詩篇56篇8節に最初に出てきます。詩篇の作者は痛みの中で神に次のように泣き叫んでいます。「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。」

神に対して、自分の流した涙を覚えてください、というこの叫びには、ご自分の民に対する、神の深いあわれみとご配慮を表す、感動的なイメージがあります。

“聖地研究所”の設立者であるジム・フレミング博士によると、涙つぼに涙を集める、という行為に関連していると思われる箇所が、新約聖書に三つあるということです。

ラザロが亡くなった時、マリヤとマルタはイエスがベタニヤに近づかれるまでの4日間泣き通しでした。二人が主に会うために外に出てきた時、主は二人の涙を見て大きく心を動かされました(ヨハネ11:33)。恐らくイエスは、二人の涙つぼがいっぱいなのをご覧になったのでしょう。

ゲッセマネの園で、イエスは次のように祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)。この“杯”についてはさまざまな解釈があります。

これは、イエスの運命、あるいはイエスが人類の身代わりとして受けられる罪と罰の象徴として、なみなみワインが盛られた杯であったかもしれません。または、大きな悲しみを象徴するものとして、涙でいっぱいになった涙つぼだったかもしれません。もしそうならば、主のおことばは次のような意味があったのかもしれません。「あなたが私に背負え、と仰せられている、この膨大な悲しみと嘆きは、私に担いきれるものではありません。」しかし、主の御心が成されるのに、ほかに道はありませんでした。

ルカ伝7章36節から50節では、イエスがパリサイ人シモンの家で食事をとっているところに、罪人とされる女性が入ってきて、イエスの御足を涙でぬらし、洗った、と記されています。彼女は主の足元で涙を流したのではありません。

涙つぼ

当時の読者たちには、“涙で濡らす”ということが何を意味したのか理解できたことでしょう。彼女は自分の涙つぼを空にすることで、過去の悲しみを洗い流したのです。この行為を通して、彼女は過去の心痛む事柄からの慰めと過去の罪に対する赦しを求めていたのです。彼女はこの両方を得ました。彼女はイエスの中に、悲しみに対する解決を見たのでした。

イエスと共に食事をとっていたパリサイ人は、この女性を罪人だと知るがゆえに、彼女に対して何の関心も払いませんでした。当時、禁欲的な文化をもっていたギリシャ人のように、彼らは“義務”として律法を遂行しました。逆に、イエスは“あわれみで満ち”、“涙され”“悲しみを抱かれ”ました。ギリシャの神々とその文化は冷たいものでしたが、ヘブル人の神は、心(愛)をもっておられました。これはパリサイ人が忘れてしまっていた、神のご性質でした。

悲しみと嘆きは喜びへと導く

嘆きは死によるものばかりではなく、私たちの人生に痛みと悲しみがもたらされるとき、一緒にやって来ます。

これは、私たちを落ち込ませる、外部からの非常に大きな災いとなり得ます。人生には、こうした、どうすることもできない時期がしばしばあります。もし私たちが神のもとへ走り、助けを求めるならば、神にはそれに応えることがおできになります。「神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。」(ヨブ5:11)

嘆きはまた、悔い改められていない罪が、原因となっていることもあります。罪のゆえに神を遠くに感じ、罪責感によって疎外感を感じてしまうのです。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ4:8-10)。罪に対する嘆きは、悔い改めへ、また主にあっての喜びへと私たちを導きます。

主イエスはゲッセマネで泣かれ、世界中の罪による悲しみで満ちた杯を受けられました。公生涯の中でも、主は人里離れた寂しい場所へ行かれ、思い起こされました。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:2-3)

同じように、人生において、私たちも“安息日”をもつことが必要です。主の御思いをめい想し、主の前に涙することで癒やしを受けます。私たちは主の前で涙を流すことで、主の愛、あわれみ、そして恵みを受け取る必要があるのです。

私たちの嘆きの原因が何であろうとも、主こそ「われらの頭を高く上げてくださる方」であることを覚えていてください。ですから、嘆き、悲しみ、苦しみの中にあるとき、主に向いてください。神があなたの嘆きを喜びに変えてくださいます。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(詩篇30:11)

私たち、主を信じる者たちもまたイスラエルと同じく、“他とは異なる者となる”ように召されています。私たちは世の習慣に従うのではなく、世に新しい道を示すために存在しているのです。

私たちの人生に、すべてを乗り越えさせてくださる神の御力が表されますように。暗闇を打ち払う神の光がいかなるものか、証しするものとなりますように。神にある希望が、絶望を打ち消すものとなりますように。人々がこれを見て、神を信じるようになりますように。

エルサレムよりシャローム

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