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ティーチングレター

霊界を具体的に理解する 天使とは悪魔とは何か -後編-

BFP編集部 2004年3月

天使と悪魔――この霊的な存在について、映画やテレビドラマを通して、誤った偽りの情報が世にあふれています。これら霊的存在について理解を深めることは、霊界を通して働かれる神の御業を知るために大変重要です。先月は、聖書のみことばから、天使と悪魔について検証しました。今月は、(1)キリスト教の母体となったユダヤ教では、それらをどうとらえているのか、(2)両者からそれぞれに影響を受ける立場にある私たちクリスチャンが、霊界においてどのように生きていけるかを学びます。

ユダヤ的視点から見た天使と悪魔

天使

ユダヤ教の観点でも、天使と悪魔は同様に霊界の存在です。ユダヤ教もキリスト教同様、旧約聖書のみことばを通して彼らを理解しています。

ヘブライ語で天使を「マラク」といい、これには、「メッセンジャー(使者・伝令者)」という意味があります。後に編さんされたギリシャ語の旧約聖書(セプトゥージャン、七十人訳聖書)では、「アンゲロス」と表現されていて、ここに「天使(エンジェル)」との関連を見いだすことができます。ヘブライ語ではほかにも「ケドシーム」という天使を表す言葉があり、「聖なる者」「軍勢」「聖なる存在」と訳されています(詩篇89:8、ヨブ5:1)。

旧約聖書には、神からの伝言を携えて、あるいは神の目的を成すために、天使たちが現れる数多くの場面があります。いくつか挙げてみましょう。

  • 神はエデンの園の入り口に天使たちを配備し、アダムとエバが再び戻ってくることができないようにされました(創世3:24)。
  • アブラハムの天幕を訪れた天使たちは、サラが来年子どもを出産する、という預言を語りました。これに対し、サラが不信仰な言葉を語ったのを天使たちは聞きました(創世18:1-15)。
  • ヤコブは、ベテルで見た幻の中で、天使たちが、天と地の間に掛けられた梯子を行き来している様子を目撃しました(創世28:10-22)。
  • 主の御使いは、パロによる追跡から、イスラエル人たちを守りました(出エジプト14:19)。
  • ダビデが神に背いた時、天使がエルサレムを滅ぼすために遣わされましたが、ダビデはその罪に対する罰と報いを受け入れました(IIサムエル24:16-17、I歴代21:14-17)。
  • 主の御使いは、18万5千人に及ぶセナケリブの軍勢がエルサレムを包囲した際、彼らを全滅させました(II列王19:34-36)。

サタン、悪霊

旧約聖書には、活発なサタンの支配が記されています。サタンは、イスラエルと神の民に試練を与え続けました。悪霊たち(日本語では"荒野の獣"とも訳されている)は、廃墟や砂漠に住み(イザヤ13:21、34:14)、人々に病を与え、心を悩ませました(Ⅰサムエル16:15-23)。そして人々を欺きました(I列王22:22-23)。彼らはオカルト、魔術、その他神が禁じたさまざまな行為(レビ19:26、18:9-14)と結び付き、人々に試練を与えました。

他の宗教は、さまざまな偶像の神々であふれていますが、それらの多くが悪魔的な性質をもっています。昔も今も、人々はサタンと結び付いたこれらの神々を崇拝し、裁きから守られるように懇願しました。一方でイスラエルの民は、万物の創造者であり、これらの神々、悪霊たちをはるかに超えた、唯一の神を礼拝し続けてきました。神は、彼らが偶像礼拝することを固く禁じました。「もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」(ヨシュア24:20)

ユダヤ教では、悪霊は単なる霊的存在ではなく、特定の目的をもっていると考えられ、そのうちの幾つかには名前が付けられています。リリス――子どもを盗む霊。マヴェットとモット――死をもたらす霊。パハド――夜に恐怖をもたらす霊。レシェプ――疫病をもたらす霊。デベル――伝染病をもたらす霊。ヘズ――“放たれた火矢のような勢い”で霊的に攻撃する霊。シャブリリ――視力を奪う霊。ケテブ――昼間の強烈な熱さの中で人を打ちのめす霊。アザエル――荒野に住む霊。そして、悪霊の長たるサタンは苦痛を与える堕天使であり、暗闇の力の長であり、ミカエルの敵です。

サタンはまたパリサイ人たちに“ベルゼブル”という、悪霊の王の名前でも呼ばれました(マタイ12:24)。イエスはサタンを“殺人者、偽り者、また偽りの父”(ヨハネ8:44)と呼んでいます。

新約聖書に見る天使と悪魔

新約聖書では、天使と悪魔、両者とも活発に働いています。

  • ゼカリヤが香を焚くために神殿の中に入ると、天使ガブリエルが現れ、妻エリサベツが男の子を身ごもること、その子はヨハネと名付けられることを告げました(ルカ1:11-20)。ガブリエルはマリヤのもとにも現れ、彼女がイエスの母として選ばれたことを告げています(ルカ1:26-38)。
  • 天使はヨセフのもとにも現れ、マリヤの受胎とイエスの誕生を告げました(マタイ1:20、ルカ1:13、19)。
  • イエスがお生まれになった夜、空に天の軍勢が現れて、いと高き神を賛美しました(ルカ2:9-14)。
  • イエスが荒野で悪魔の試みに遭われた後、天使たちが来て、御許で仕えました(マタイ4:11)。
  • 「イエスはよみがえられた」と、墓の中から女性たちに告げたのも天使でした(マタイ28:2-6、マルコ16:5-7、ルカ24:23、ヨハネ20:12)。
  • ペテロとヨハネ、またペテロは、ろう牢に捕われていたところを天使に助けられ、解放されました(使徒5:19)。
サタンが天界から追放された様子を描いた絵

ペテロは次のように語っています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Iペテロ5:8-9)。また、ヤコブはこう言っています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4:7-8)。私たちが悪魔の働きから身を守る鍵は、義を求めて歩むこと、神、聖霊と共にいることです。そして神は義をもって歩む人々のもとに、天使を遣わしてくださいます。

霊界を理解することは、私たちにとってどんな意味があるのか?

科学が発達し、論理が支配する現代でも、私たちは霊が支配する世界に生きています。

天使について、「ヘブル人への手紙」の記者は次のように私たちに勧めています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」(ヘブル13:2)。また悪霊について、主イエスは明快に仰せられました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ16:17)

クリスチャンは、聖霊が私たちの内に住まわれることを教えられています(Iコリント3:16)。聖霊は私たちの慰め主であり、教師であり、導き手であり、守り主です(ヨハネ14:26、16:13)。天使は私たちの内には住みません。しかし彼らは私たちのそばにいて、仕えているのです(ヘブル1:14)。彼らは、聖書で教えている通り、私たちと共に存在し、また働きます。

しかしながら、聖書時代でさえ、天使たちとたびたび会うことはありませんでした。彼らは私たちが会いたい時に、呼べば来てくれるようなものではなく、神ご自身の御心によって現れます。しかし同時に、私たちは天使を送ってくださるよう、神に助けを求めることができます。ダニエルは祈りの中で助けを求め、天使は彼のもとに来てこう言いました。「……あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(ダニエル10:12)

ただやみくもに祈るのではなく、自分たちの語る言葉について注意を払い、またそれらがみことばに沿ったものであるかどうか吟味し、確信をもつ必要があります。なぜなら場合によっては、天使が本意に反して働くこともあるからです。「あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で『あれは過失だ。』と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。」(伝道者5:6-7)

一方で、天使の業のように見える霊的現象が、すべて神からのものであるとは限りません。今日、さまざまな声が満ちる世界に生きる私たちは、“霊を見分ける”ことが必要です。「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(IIコリント11:14)。悪霊もまた、誘惑の言葉とメッセージをもって私たちに干渉します。しかし彼らは、神から遣わされたのではありません。もし私たちが、ただやみくもに幻や御声や啓示を求め続けるならば、逆に悪魔に干渉されるすきを与えることになります。サタンとその悪霊たちは、自分たちの考えや偽りを人々に植え付けようと必死なのです。

サタンの働きを見分けるには

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(Iヨハネ4:1-2)。主から出たものは、神を主と宣言し、平安をもたらし、みことばに一致し、神の御名に栄光を帰すために私たちを義の道に導きます。

天使たちは、決して名を名乗りません。彼らの名を知ることができるのは、聖書の中のみです。彼らはただ神に栄光を帰すために働き、自分たちが栄誉を受けることはありません。パウロは言っています。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:8)。逆に、悪霊たちは自らの名を明かします。それは通常、彼らの性質、また行動を通して明らかになります。先に詩篇91篇5、6節で学んだ通りです。彼らは決して神に栄光を帰すことはなく、かえってその御業を破壊しようと働くのです。

神の陣営に立つ天使と、サタンに与する悪霊たちとの間には、いつも霊的な戦いが繰り広げられています。マタイ伝6章9節から13節に「主の祈り」と呼ばれる祈りがあります。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:9-10)。ヘブライ語ではこう祈られます。「地と、…そして天の両方において」と。これは、天と地の両方が、現在も、サタンと悪霊の策略の影響下にあるため、神の聖なるご支配のもとに置かれる必要があるということを示しています。サタンは「空中の支配者」(エペソ2:2)です。主の祈りは、サタンと彼に与する悪の勢力に対して、神がいつの日か権威をもって罰せられることを宣言する祈りなのです。

闇の勢力の働きを知り、防衛する

すべての現象をサタンのせいであると決め付けるべきではありませんが、彼らが私たちの関心を完全に支配し、清くない行いへと導くことは確かです。

悪霊の働きには、三つの主な目的があります。私たちを苦しめ、悩ませること。主イエスを救い主として受け入れることから私たちを遠ざけること。メシアなる主に熱心に仕えることから遠ざけることです。悪霊は(1)罪に誘惑し、(2)主と共に立とうとする私たちに嫌がらせをし、(3)病をもって物理的に苦しめ、敵意、人を許さない思い、苦々しい思いを通して感情的に苦しめ、(4)食、飲酒、喫煙、麻薬、会話、情欲などを通して、(5)特定の罪を何度も何度も犯させ、(6)依存を引き起こさせ、(7)精神の思考を汚し、(8)非聖書的な行いと神への不信をもたせるために欺き、(9)病を通して肉体を攻撃し、(10)死、また死に関することに対して固執を与えます(Prince,Derek.TheyShallExpelDemons.GrandRapids,MI:ChosenBooks,1998.)。

偶像の神を礼拝することは悪霊の力に服することであり、偶像の神々の信者たちはこれらの神々(悪霊)により頼み、自分たちを守ってくれるように願い求めます。聖書の神を信じる私たちは、神の力によってこれら悪霊の力を乗り越え、それに服することがないよう願うことができます。クリスチャンは悪魔的な勢力のとりでに直面します(IIコリント10:4)。霊的戦いは罪に対する戦いであり(ローマ7:17-18、22-23)、高き所にいる邪悪な霊的存在に対するものであり(エペソ6:12)、私たちをむさぼらせ、破滅させようと求めている悪の敵に対するものであり(Iペテロ5:8)、むなしい想像と、神の知識の上に自らを高く置くものに対する戦いであり(IIコリント10:5)、私たちの精神を破壊しようとするサタンの力に対するものです(IIコリント11:3)。

私たちは、この霊の戦いの中で敵の力を防衛するために、神の武具を身に着けることが求められています(エペソ6:11-18)。悪霊はありとあらゆるところに存在し、人々に取り付き、苦しめます。しかしイエスご自身は、彼らを追い出すことに集中してはおられませんでした。ただ、彼らに直面した時、随時、追い出しの御業をなされました。私たちもまた、神のみことばを知り、イエスの御名の力と権威を理解するとき、悪霊を追い出すことができるようになります。

神の武具を身に付ける

主の祈りには、次の一節が含まれています。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)。ここでの「試み」とは、人間が罪を犯しやすく、神に自らを任せないことで、試練に打ち負かされてしまうことを示しています。時には避けることのできない試練もあります。しかしイエスはご自分の弟子たちに、彼らを罪に落ち込ませかねない試みから自分たちが守られるよう、祈ることを教えておられるのです。

新約聖書でも、ヤコブは次のように言っています。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:13-15)。罪を犯すことを避けるために、私たちは自らを試みに遭わせるような立場に置くことを避けるべきです。この祈りは、私たちを誘惑から守ってくださるように神に願い求めるものなのです。

「私たちを悪より救い出してください」という一節は、誘惑の源が何であるかについて説明しています。「悪」とは、より単純に厳密に言い表すなら、よこしまな者、つまりサタンそのもののことです。後代のユダヤ教の古い書物からは、当時のユダヤ人が悪の力の強大さを良く知っていたこと、また、悪の力は個人の力では打ち負かすことができず、それらは人々を支配することができると自覚していたことが内容によく表れています。例えば、死海写本発見の舞台となった、クムランの11番目の洞窟からは、詩篇の巻物が発見されましたが、その中には切実な祈りの言葉が書かれていました。「どうか、サタン、あるいは汚れた霊が、私を支配することがありませんように。」同じ死海写本の「レビの書」にも同様の一節があります。「どうか、サタンが私を支配し、道を踏み外させるようなことがありませんように。」

パウロは、神が、私たちが直面している誘惑と罪の問題をよく知っておられる方であると語っています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Iコリント10:13)。パウロは、ただ、神のみが私たちを誘惑から救い出し、脱出の道を備えてくださるお方であると断言しています。

天使と悪魔は現実に存在します。しかし両者とも、神の定められた御旨に従います。私たちは悪霊を恐れる必要もなければ、神が遣わしてくださる天使によってもたらされる、祝福を逃す必要もありません。聖書のみことばを読み、私たちを取り囲む、神の造られた霊的世界について、より多くを学んでいただければ幸いです。

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