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イスラエルと共に立つ 聖書から見るイスラエル国家 Part-1

BFP編集部 2003年8月

今日、毎日と言っていいほど、イスラエル国の正当性について物議が醸し出されています。皮肉なことに、イスラエルほど、土地の所有権について、はっきりとした起源が立証できる国や民族はほかにありません。

「あの土地は誰のものなのか?」私たちは何を基準にその判断をするのでしょうか。

今回は、この質問に対し、聖書的、歴史的、道徳的、戦略的、そして預言的権利に基づいて、回答させていただきたいと思います。

聖書が語る土地の所有権

創世記12章1節から3節で、神はアブラハムに次のように語られました。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

土地について、神はさらにこう言われました。「地はわたしのものであるから。」(レビ25:23)。ここで明確にされているように、土地は神ご自身のものです。神はそれを永遠の約束に基づいて、アブラハム(イスラエル)にお与えになりました。

神はどの土地を選ばれたのか?

「アブラムはカナンの地に住んだ……ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。』」(創世13:12-17)

「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。』」(創生15:18-21)

ヨシュア記18章から21章には、イスラエルの12部族がそれぞれ所有する土地の地境について記録されています。その説明は実に正確で、今日のイスラエルと隣国ヨルダン全域がすっぽり収まる大きさに国境線を引くことができます。ここで覚える必要があるのは、神がイスラエルに与えられたこの土地は、聖書の中で正確に定義されているということです。

神はこの土地を誰に、どれくらいの期間にわたって与えられたのか?

神はアブラハムに語られました。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」(創世17:7-8)

このたった2節のみことばで、神はアブラハムとその子孫との間に、永遠の契約を結ぶと仰せになりました。アブラハムの最初の息子、女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルではありません。「確かに、わたしは彼(イシュマエル)を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」(創世17:20-21)

さらに神は、イサクに、その契約が有効であることを固く約束されました。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」(創世26:3-4)

そして、イサクの息子ヤコブに対しても、こう仰せられました。「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』」(創世28:13-14)。この契約はさらに、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンなど、後々にまでイスラエルの指導者に対して伝えられました。イスラエルの地はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫に永遠に与えられたもので、その約束は今日も有効です。

なぜイスラエル(あるいはユダヤ人)は『選びの民』『選ばれた国』と呼ばれるのか?

ユダヤ人は、以下の三つの目的のために召し出されました。

  1. 偶像の神々に仕えている他の民族に対し、イスラエルの神が真の神であり、大いなるお方であることを示すため。
  2. 神のみことばを受け取り、記録し、伝えていくため。聖書のみことばすべて(2巻を除いて)が、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるユダヤ人によって書かれ、伝えられてきた。
  3. 最終的に、世界のあがない主であるメシアを世に送り出すため。

もし彼らが存在しなかったら、私たち人間は、最も大いなる贈り物を神から受け取ることができませんでした。その贈り物とは、メシアによる救いと神のみことばです。イスラエルの国と民は、神の祝福を世界に流すために選ばれました。彼らは、全世界に対し神の救いのメッセージを伝える、という使命を果たしたのです。

イスラエルと中東のアラブ諸国の独立は同時期

世界に散っていた多数のユダヤ民族が、パレスチナ(イスラエル)の地に住む同胞の元に合流し始めた1880年代、中東全域はオスマントルコ帝国の支配下にありました。そこには国境がありませんでした。ユダヤ人が定住し始めたことから産業が興り、中東地域が活性化し始めました。崩壊寸前のオスマントルコ内で働き口に欠乏していたアラブ人たちは、職を求めてパレスチナの地へと群がりました。こうして、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の人口が伸びていきました。

第一次世界大戦後、イギリスとフランスが疲弊し切ったオスマントルコを分割し、新しい国境を引きました。これが今日の中東、そしてイスラエルの国境線の基となりました。

最終的には、その後数十年の間に下記の国々が独立していきました。

レバノン(1920)、サウジアラビア(1932)、イラク(1938)
オマーン(1940)、シリア(1941)、ヨルダン(1946)
イスラエル(1948)、リビア(1952)、エジプト(1953)
モロッコ、チュニジア、スーダン(1956)、クウェート(1961)、
アルジェリア(1962)、アラブ首長国連邦、南イエメン
カタール、バーレーン(1971)

ここでの論点

1948年にイスラエルは国家として正式に独立を果たしました。しかしアラブ側は、事あるごとにイスラエル国家の正当性を非難してきました。残念なことに、メディアだけでなく、世界の政治指導者までもが、こうした非難の輪に加わり、「イスラエル国家は、ホロコーストによるユダヤ人大量虐殺に対する、西側諸国の罪悪感が人工的に生み出したものである」と主張しています。実際には、中東のイスラム諸国もまた、第一次世界大戦から第二次世界大戦後、という同時期に独立が認められた国家群です。この国々とイスラエルの成立に、いかなる違いがあるというのでしょうか。もしイスラエルが正当な国家であるならば、他の中東諸国もまた正当な国家であり、イスラエル国家の正当性を否定するならば、他の諸国もそれらの正当性を否定されることになります。

今では信じられない話ですが、20世紀初頭、当時パレスチナ地域に住んでいたアラブ人は、この地はユダヤ人の土地である、と認識していました。「ここにかつてパレスチナというアラブ国家があった」という話は、ユダヤ人が定住を果たした後に、人工的につくり出された伝説にすぎません。他のアラブ民族と区別されるような、独立したパレスチナ国家が存在したことはありませんでした。歴史のどこを見ても、この地が「パレスチナ人」と呼ばれるアラブ人によって治められていたことは一度もありません。

では、パレスチナ=ユダヤ=イスラエル間のかかわりとは何か?

バルフォア宣言

統治者は変わっていきましたが、アブラハムの時代から、ユダヤ人はいつもこの地に住み続けてきました。そして1880年代より、何百万という数で「地の四隅」から父祖の地へと流れ込み始めました。(イザヤ11:11-12

400年間のオスマントルコ帝国による支配に終止符が打たれ、1917年10月31日、イギリスの戦時内閣は『バルフォア宣言』を立案、同年11月2日に正式に国策として発布しました。この宣言には次のように書かれています。

「政府はユダヤ人のために、パレスチナに祖国を樹立することを容認します。そしてその目的達成のために、最大限の努力を払うものとします。」

このバルフォア宣言は、国連と、他の西側諸国の承認を得ました。ユダヤ人はもとより、中東のアラブ人も、オスマン帝国による支配のくびきから解放されたばかりだったので、当初、この内容を受け入れるだろうという希望的観測がなされました。アラブ人リーダーの一人、エミール・ファイサルは、1919年のパリ講和会議で、シオニストのリーダーであるハイム・ワイツマン博士および他のユダヤ人リーダーたちと会談し、アラブ人とユダヤ人の間にある血族関係、および民族的連帯に留意する内容の同意書に書名しています。

アラブ・ナショナリズムの台頭とユダヤ人排斥

アラブ=イスラムの民族主義が勢力を増し、ナチス・ドイツが世界中に反ユダヤ主義を広める中、パレスチナに住むユダヤ人の生活は、より過酷さを増してきていました。ヨーロッパでは、ホロコーストによって何百万人ものユダヤ人が命を落としていきました。それでもなお、ユダヤ人は希望を捨てることなく祈り続け、あらゆる困難を乗り越えていきました。そして1948年5月14日、現代イスラエル国家が誕生しました。

イスラエル独立宣言の内容は、アラブ人との共存を提示するものでした。しかしながら、アラブ側は、「ユダヤ人を地中海に押し返す」という目的で、独立してまだ数時間のイスラエルに、7カ国が連合して攻め上り、共存を拒否しました。

戦争を進めやすいように、アラブ連合は、イスラエル国内に住むアラブ人に対し、「アラブ側が戦争に勝ったら、エジプトの市民権を与える」と約束し、退去を勧告しました。多くのパレスチナ系アラブ人がそれに従いました。しかし、このもくろみに反して、イスラエルは奇跡的な勝利を収めました。戦後、イスラエルを出たパレスチナ系アラブ人に対し、エジプトは市民権授与の約束を不履行にし、結果として彼らは国無しの状態になりました。これが「パレスチナ難民」の発生です。

イスラエルの呼び掛けに応え、イスラエルに残ったパレスチナ系アラブ人(現在、イスラエルの全人口の20%)は、ユダヤ人と同じ権利と特権を保証されています。しかし、アラブ諸国に住むユダヤ人には、何の権利も保障されていません。厳しい迫害の末、すでにユダヤ系住民が存在しなくなった国々もあります。

独立戦争時、アラブ世界の指示に従ってイスラエルを離れたパレスチナ系アラブ人の数は、アラブ諸国を追われてイスラエルへとやって来たユダヤ人の数と同数です。アラブ諸国に住んでいたユダヤ人は、家屋や土地、仕事や財産など、すべて置き去ることを余儀なくされました。ユダヤ人が離散先のアラブ諸国に残してきた土地の総面積は、今日のイスラエル国家の国土よりももっと広い面積であったことが算出されています。こうした中東のアラブ諸国出身のユダヤ人は、さかのぼればバビロン、アッシリアの捕囚時代から定住してきた人々です。

私自身が実際この目で見てきましたが、イスラエルは、国内のアラブ人に敬意を払っています。1990年代、あの『オスロ協定』が締結されるまでは、イスラエル国家は世界に散ったパレスチナ難民に対して最大の援助国でした。他のどの裕福なアラブ諸国も、パレスチナ難民に対して何も貢献していませんでした。

PLO(パレスチナ解放機構)

パレスチナ難民を代表する組織として、当時のエジプト大統領ナセルが提唱し、1964年に設立。「イスラエルの完全破壊」が目標として掲げられ、武装集団としての要素が強かった。これに各アラブ諸国の思惑が入り交じり、内部は非常に複雑化していた。アラファトは67年に入団、69年に議長に就任。ヨルダンに拠点を移してテロ活動を行うが70年に追放され、レバノンへ落ち延び、シリアの軍事援助を受けて、イスラエルに対するゲリラ活動やレバノン南部の市民への暴行を行った。このため82年にイスラエルが軍事介入、アラファト議長は同年にチュニジアへ追放される。90年代からは軍事組織としてのイメージ払拭のため、イスラエルとの和平路線に乗り出す。93年にオスロ合意によって、PLOによるパレスチナ暫定自治がイスラエルとの合意の下に成立。アラファト議長は94年にノーベル平和賞受賞。2000年に始まったインティファーダにより、イスラエルとの関係が再び悪化した。

オスロ神話崩壊

イスラエルは、シモン・ペレスが掲げた「新中東構想」に沿って、『オスロ協定』を率先して進めていきました。オスロ協定は、イスラエルとパレスチナという二つの国が、お互いに国境を開放して自由に行き来し、水、経済、政治、治安、観光、商業などの分野で協力し合っていくことでした。イスラエルが行ったのは、パレスチナ人が自衛して地域の平和を保てるようにと、PLOのヤセル・アラファトと彼の率いる5万人のPLO活動家に対し、武器を提供しました。しかし結果的に、ユダヤ人を滅ぼすために戦争を起こそうとする軍隊を、五つも生み出してしまいました。

アラファトにはもとより、イスラエルとの和平を確立する意志はありませんでした。事実、和平が締結されたその日に、「これは一時的な休戦であり、十分な力を蓄えたとき、彼らを滅ぼす。」という宣言を、イスラム教徒なら誰でも分かる隠語で行っています。オスロよりずっと以前のヨム・キプール戦争でアラブ側が敗北を喫した後、1974年に開かれたアラブ連合の会議で、イスラエルをいかに滅ぼすかのシナリオがつくられました。アラファトはこのシナリオを基に、独自の「段階的イスラエル破壊プログラム」をつくりました。

パレスチナの活動家の一人、サフール・ハバシュは次のように発言しています。「われわれが新パレスチナ国家の独立を宣言するとき、(イスラエルに)占領された残りの地を解放する権利を有するであろう。」

また、パレスチナの有力なリーダーの一人、アル=ファイサル・フセイニは、暗殺される10カ月前の2001年8月、エジプトの新聞『アル・アラビ』紙に対し、「オスロ協定はわれわれにとってのトロイの木馬だ。われわれの最終的な目的は、占領下に置かれている残りの地を、河から海に至るまで(ヨルダン川から地中海、つまりイスラエル全土)を解放することである。」とコメントしています。

パレスチナ側の究極的な目標はイスラエルとの共存ではなく、あくまでもパレスチナ一国が独立し、ユダヤ人を追い出すことです。イスラエルとの平和をうたうオスロ協定は、その目的を段階的に達成していく過程での隠れみのにすぎなかったのです。パレスチナ側に、イスラエルとの真の平和を望む協力者が存在しなかったため、オスロ協定は実現しませんでした。

キャンプ・デービッドでの拒絶

オスロ協定がうまくいかなかった理由は、パレスチナ首脳部が、平和ではなく、イスラエルと戦うことを選んだことにあります。この協定が始まった時点から、イスラエルの受ける利益は少なく、逆にパレスチナの受ける分は大きい、という不平等が存在していました。2000年7月に行われたキャンプ・デービッド会談でのこと、当時のイスラエル首相エフード・バラクは、驚くべき提案をパレスチナに示しました。彼は「パレスチナの建国、そして二つの国家としてイスラエルと共存していくこと」を認める段階にまで話を飛躍させ、次の四つの条件を提示しました。

  1. 1967年の6日戦争に勝利したイスラエルが占領した地域――ユダ、サマリヤのヨルダン西岸、
    およびガザの95%と、イスラエルの国土の5%とエルサレムの旧市街の4分の3を譲る。
  2. 東エルサレムの5つの地域を譲渡する。
  3. エル・アクサ寺院にパレスチナの国旗を掲げることを認める。
  4. 旧市街から目と鼻の先であるアブ・ディスに、パレスチナの国会議事堂を造ることを認める。

この、信じられないほどの譲歩案に対し、アラファト議長は何も言わずに交渉の場から歩み去るという応答を示しました。その2カ月後、今日まで続くインティファーダ(パレスチナの武装蜂起)が始まったのです。こうして残念なことに、アラファト議長の盲目的な決定によって、パレスチナ人とイスラエル人が平和に共存していく機会は失われました。

来月は戦略的・預言的見地から、今回の続きを学びます。これをとおして、クリスチャンと現代イスラエル国家の具体的なかかわりが明確にされるよう願っております。

エルサレムからシャローム

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