ティーチングレター

荒野にて -前編-

TEXT:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)

荒野には困難が伴います。しかし、そこでこそ聞こえる神の御声があるのです。今月は民数記から、イスラエルの民が荒野で学んだ神からのメッセージを見ていきます。

Michio Nagata/bridgesforpeace.com

自分が荒野にいると感じたことはありますか

砂漠や荒野は荒涼たる場所です。水がほとんど無いので、何も生きることができません。ひょっとするとあなたは、このような厳しい状況を経験しているかもしれません。しかし、神が語られるのはしばしばそのような時なのです。モーセが燃える柴の中の神に出会ったのはホレブの荒野でした。神の御使いは荒野でハガルとイシュマエルを慰めました。ヨセフの兄弟たちは荒野でヨセフを穴に投げ込みました。そして、エジプトから脱出して約束の地に向かっていたイスラエルの子らが神に出会ったのも、シナイ山のふもとでした。

聖書に「荒野にて」と名付けられた書巻があることをご存じですか。日本語では「民数記」、ヘブライ語では「バミドバル(荒野にて)」と呼ばれています。ヘブライ語の題名がイスラエルの子らが実際にいた場所を指しているのに対し、日本語の題名は書巻に登場する詳細な系図や人口調査のリストを強調しています。荒野に滞在したイスラエルの子らから、何を学べるでしょうか。

人口調査をしなさい

バミドバル(民数記)は、出エジプトの翌年、神がモーセに語り掛けられるところから始まります。モーセは部族から国家を形成しようと奮闘していました。少し前までエジプトで奴隷の身であった民です。自分たちはエジプト社会の歯車の一つに過ぎないと感じていたとしてもおかしくありません。

神がモーセに人口調査を命じた時、民は面倒に思ったことでしょう。神の命令は「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。・・・二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない(民1:2-3)」というものでした。この節には民を数える基準が詳しく書かれています。民は氏族(家族)ごと、家族(父祖の家)ごとに数えられ、各自の名前(個人)によっても数えられました。それから四つの軍隊に3部族ずつ編入され、最後に、レビ族(祭司たち)の生後1カ月以上になる男子全員が数えられました。

神の共同体における個人の生活の重要性

ラビ・アブラハム・アリエル・トルグマンは著書『Orchard of Delights』の中で次のように言っています。「民数記の人口調査の長い記述から読み取れることの一つは、全体としての国家と、国家を構成している各個人の両方が大切であり、掛け替えのない存在であるということだ。

まず、個人、家族、氏族が数えられ、次に幕屋の四方の宿営地ごとに3部族ずつ数えられ、最後に全部族の総数が示された。宿営地ごとに区分けされた集団は、それぞれに大きな影響力を持ち、独自の活動をしている。そしてすべてのユダヤ人は、意識するしないにかかわらず、常にこの多様な背景の中で活動しているのだ。トーラーは宿営内の個人、家族、氏族の名前を列挙することによって、あるメッセージを伝えようとした。つまりトーラーは、国家を構成しているすべての人々を、全体としても、個人としても、重要視しているということである」。

神にとって一人ひとりは家族、共同体、国家の一員なのです。神は非常に思いやりに富んだ指導者です。そのことを生き生きと描写した民数記1章には、国家を構成する個々人の相互関係が描かれています。神にとっては一人ひとりが大切なのです。神は一人ひとりの名前をご存じです。神は私たち全員を親しく知っておられるのです。

主は一人ひとりを愛しておられますが、私たちが家族の中で育まれるよう計画されました。各家族は氏族という大家族の中で責任を果たし、個人や家族、氏族は共に責任をもって国家全体(社会)のために働き、すべての国家は神から委ねられたこの地球を大切に扱う責任がある、これが神のご計画です。

しかし、多くの家庭が壊れているような不安定な今日の世界では、このように社会が十分機能することは難しいと言えます。ラビ・トルグマンはこう言いました。「多くの人が、自らのルーツや社会から切り離され、他人と共有する目標が無いと感じている…。かつてないほど多くの人が孤立し、混乱し、疲弊し、人生に不満をもっている。バミドバル(民数記)には、家族や社会、そして全世界との関わりの中で、感情と霊のバランスを保ち、内面的平安を得るための秘訣(ひけつ)が含まれている。家族や社会、全世界の中でしっかり対応するすべを学んだ時、私たちは居場所を見いだし、自分を創造されたお方との関わり方を知ることができる。結局のところ世界をより良い場所にするために、私たちをここに置かれたのは神であるからだ」。

ユダヤ人の間には「ティクン・オーラム」という考え方があります。意味は「世界の正常化」です。ですから世界中の被災地を支援したり、イスラム世界で迫害されているクリスチャンを最前線で援助したりするのです。干ばつに見舞われた地域に専門の科学者を派遣したり、自給自足のアフリカの農民が家族を養えるだけの食料を育てられるよう援助をしたり、緊迫した医療問題の答えを熱心に追究したりするのもそのためです。ユダヤ人は、自分自身や近親者、そして自分の部族や国家だけでなく、全人類の幸福に対して神の下で責任を負っていると信じているのです。

神は変わらないお方です。神は私たちを個人的に知っておられます。神は私たちと社会をつなぐご計画をもっておられるのです。たとえ家族が手を差し伸べてくれなくても、神が面倒を見てくださいます。神は私たちの思いさえもご存じなのです。

「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである(Ⅰ歴代28:9)」。

私は教会で育ちました。子ども時代の教会を振り返る時、信仰の共同体の中にいることの重要性がはっきり分かります。私たちはよく食事をしながら定期的に交わりをもっていました。少なくとも週に3回(日曜日に2回と週日に1回)、礼拝に出席していました。それは信仰の共同体が必要であることを知っていたからです。

世界を回復するために働くユダヤ人 DOTZ/idfblog.com

目まぐるしく変化するこの世界では、共同体に意識的に参加する必要があります。教会に属していても、自分を育んでくれる大切な信仰の共同体をもっていない人がいるかもしれません。教会は、単に霊感を受けた説教や素晴らしい音楽を聴く所ではありません。他の信者たちとつながる場所なのです。互いに成長し合い、他の人々に手を差し伸べるために、まずスモールグループに参加して人々とつながることをお勧めします。インターネットは本物の共同体の代わりにはなりません。教会とは建物ではなく、神の民なのです。神の使節として、つながりの無い人々を気に掛け、荒野という殺伐とした場所にいる人々に神の愛の手を差し伸べなくてはなりません。

使徒の働きには初代教会がつながっていた様子が描写されています!「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた(使2:42)」。

小さなことを気に掛けなさい!

「小さなことにくよくよするな!」という言葉は、ある意味では正しいでしょう。ささいなことで取り乱す必要はありません。しかし別の見方をすれば、正しくありません。細部に注意を払っていないなら、全体像を正しく伝えられないからです。神は細部に驚くほどの注意を払われます。神は、荒野の宿営地を極めて詳細に定められました。人口調査を見ても、神が全体像とそれをつくり上げている一つ一つの要素を気に掛けておられることが分かります。男性は一人残らず数えられたのです!

後編では、神の幕屋を中心とした各部族の宿営図を見ながら、そこに示された神の深い知恵を学んでいきます。

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