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神の息

BFP編集部 1999年8月

バプテスマのヨハネは言いました。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11-12)

私たちは、この御言葉から、罪の許しのための一つのバプテスマがある一方、それには次ぎの3つの段階があることを知ります。

  1. 水のバプテスマ:私たちが罪を悔い改め、イェシュア(イエス)を救い主として受け入れ、バプテスマの水によって洗われ、私たちの罪が許され、私たちの咎が清められるとき。
  2. イェシュアご自身による聖霊のバプテスマ:イエスが私たちの心の中に来られ、彼の霊が来て私たちの霊と結びつき、私たちの内に住まわれるとき。それから、
  3. 火のバプテスマ:神の火が私たちを聖別し、神の力を私たちに与える、継続した働きをされるとき。

私は、神の火について(1999年1月)、そして神の水について(1999年2月)と継続的に<広範囲に渡って>書いてきました。そして、今回は、神の息について書いてみたいと思います。というのは、これは、主にある第2段階のバプテスマである、聖霊のバプテスマと関係しているからです。

主の“風”

ヘブライ語では、聖霊は、ラッカ・ハカデッシュと呼ばれています。

興味深いことに、“霊”という意味のヘブライ語、ラッカは、“風”のために使われている言葉と全く同じものなのです。古代ヘブライ人の御言葉の著者たちは、私たちが見ることの出来ない常に存在する力である、神の霊と風との関係を見ていたのです。私たちは、神が神の霊の働きを現わすために、力強い風を、そして神の息をさえどのようにして用いられたのかを見ることが出来ます。

クリスチャンにはとてもよく知られている御言葉の箇所、使徒の働き2:1-4を見てみましょう。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

この出来事は、ペンテコステ(聖書の安息日<シャバット>の祭り)の日に、エルサレムの二階座敷で起こりました。使徒の働き1章で、イェシュアは、天に昇られる前に、彼の弟子たちに言われました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。…しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果にまで、わたしの証人となります。」(使徒1:4-5、8)

その二階座敷で、約束は成就されました。はじめに風が来て、それから火が来ました。この聖霊の満たしは、命と力、そして聖なる大胆さによって、弟子たちを力づけました。これは、風が吹く度に、それが主の臨在を象徴しており、すべての火が神の火を現わしていると言っているのではありません。また、聖霊が風に伴われる必要があるという意味でもありません。しかし、神の霊や新しい命と、神の風や息との間に、御言葉のうえでの関係があるということは本当です。そして本当に、聖霊は、私たちを取り巻く風や雰囲気のようなものなのです。ちょうど、風がどこにでもあるように、遍在される神の霊もそうです。

神の息が命を与える

聖書で言われる神の息は、それを受け取る者に命をもたらす神の霊の象徴です。

聖書の始めの章に、私たちはすでに、神の息が命を与えることを見ます。「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きたものとなった。」(創世記2:7)

エリフはヨブに確信をもって言います。「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」(ヨブ記33:4)

詩篇の記者は神の創造の力をほめ讃えて言います。「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」(詩篇33:6)

神が、散らされた人々の干からびた骨を、再び一つの国民に呼び集められるときに、イスラエルに与えられた命に関する、とても力強い預言的御言葉の中に、エゼキエルはこう書いています。「そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。」(エゼキエル37:9-10)アダムのように、再び集められたイスラエルは、生きるために神の息を必要としているのです。

イェシュアが、十字架にかかられた後に、復活の身体で地上を歩まれたとき、彼は恐れによって部屋の中に閉じこもっている弟子たちに現れ、彼らに言われました。「『平安があなたがたにあるように!父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21-22)

また使徒の働きの書では、ペテロがカイザリヤのコルネリオという異邦人の家に訪れて、すべての者が救われ、聖霊に」満たされた出来事について説明しているのを見ます。(エルサレムのユダヤ人の教会はこの状況を嬉しく思いませんでした!)ペテロは、コルネリオの家で起こったことを報告しました。「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(使徒11:15-17)ペテロは、神の霊がエルサレムのニ階座敷で彼らの同胞に下られたように、異邦人であるコルネリオの家にも下られ、それは神が異邦人が救われることを喜んでおられる確かなしるしであることを思い起こさせています。力強い風が吹き抜けたのでしょうか?それは私たちにはわかりません。しかし確かにその日、神の霊によって異邦人に新しい命が来ました。

これらすべての例によって、私たちは神の息が命をもたらすことを知ります。命を造り、命を吹き込み、それを維持する力を持つのは神のラッカまたは神の霊なのです。

神の息は破壊をもたらす

神の火や神の水と同じように、神の息も逆説的??です。それは、神の道を選ぶ者に祝福と命をもたらします。しかし、また神とその道を拒否する者には破壊をもたらします。悪は神の前にたつことが出来ないので、神の霊は世の悪や罪を焼き尽くします。神の霊は、私たちの生活に2つの方法で働くことが出来ます。私たちの心の状態次第で、それは良い影響をもたらすことも、悪い影響をもたらすことも出来るのです。

ヨブ記は、この点をとても良く現わしています。エリファズは言います。「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(ヨブ4:8-9)

そしてエリファズは、自分の強さに寄り頼む、富を持ち高慢な人々について言います。「彼らはやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。」(ヨブ記15:30)

詩篇の記者は、神を彼らの岩、とりで、救う者として見いだす者のための、神の個人的な守りについて語っています。御名を呼ぶ者のために、天からうなり、私たちの敵を滅ぼします。私たちは、震える地、神の火を見、神が天を分かち、私たちの敵を追い散らすために矢を放たれるのを見ます。「こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。」(詩篇18:15)

預言者イザヤは、30章で、神に敵対し、神を敬わない人々のうえに下る神の裁きについて、雄弁に語っています。その章の終わりに、イザヤは、子供たちがモレクの神に犠牲として捧げられていた、エルサレムの外にあるトフェテのアッシリヤの王の上に下される、神の息によって起こされる神の激しい裁きについて語っています。裁きによって、神はそれを全く滅ぼされるのです。「すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは、深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」(イザヤ30:33)火と神の息によってくる主の裁きにおける関係に注意して下さい。それらは共に、罪と反抗を滅ぼし尽くす神の霊の象徴なのです。

神は風を支配される

神は、ご自身の栄光を現わすために、自然の風を支配し、用いることさえされます。

マタイ8:24-27で、イェシュアが彼の弟子たちと共に舟に乗っておられたときに、それを見いだします。「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう!』

この奇跡で、私たちはイェシュアが自然界の現象の上に力を持っておられたことを見ます。それは当然のことではないでしょうか?神は世界全体を創造され、彼が創造されたものをコントロールされます。だから彼は、嵐を気にされなかったのです。しかし、彼の弟子たちは気にしました。私たちのように、彼らも神の力を知っていました。しかし、ちょうど彼らのように、私たちも、荒れ狂う嵐に直面するときに、神が私たちを守って下さるということを簡単に忘れてしまうのです。イェシュアは只、立ち上がって語り、そして風は止み、海は静かになりました。彼らは風に命令する神の力に驚きました。あなたの人生における嵐は何でしょうか?全く不安になり、恐れるのではなくて、ただ、主は嵐を静めることが出来ることを思い出しましょう。主が語って嵐を静めて下さるよう、主を呼び求めましょう。

イスラエルの地では、風の方向は自然条件においてとても重要なものです。東や南からの風は、砂漠を吹きつけているので、暑く乾燥しています。それは水を蒸発させ、その地のすべての作物を枯らし、死なせてしまう焼き尽くす火のようです。一方、西や北からの風は、涼しい風や雨をもたらし、土地に命をもたらします。

私たちは、これらの風が、イスラエルの人々の上に神の祝福、または裁きをもたらすために、主によって呼び寄せられるのを見ます。

預言者ホセアは、イスラエルの人々が、彼らの主を忘れ、神に反抗したために下される神の裁きについて語っています。神はどのように彼らを裁かれるのでしょうか?「東風が吹いて来、主の息が荒野から立ち上ぼり、その水源はかれ、その泉は干上がる。」(ホセア13:15)これは単なる比喩的表現ではありません。なぜなら、継続した東風は確かにイスラエルにひでりをもたらすからです。

列王記は、西からの神の祝福の例を示しています。私たちはここで、イスラエルがアハブの時代に、神の命令によって三年の間、ひでりに悩まされるのを見ます。それから、エリヤはカルメル山のバアルの預言者たちに会いにいき、彼らは完全に敗北しました。異教の祭司たちとバアルを礼拝するためにイスラエルの神を捨てた者たちの直中で、神の御名が崇められました。それから西から風と雨が来て、神はその地に回復をもたらされました。エリヤはどうしてそれが来ているのを知ったのでしょうか?彼は、地中海(西)の方を見るように、僕を7回遣わしました。そして遂に、「人の手のひらほどの小さな雲が海から上って…空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。」のを見たのです。(列王記18:44-45)干からびた地は遂に水を得、ひでりとそれに続く飢饉はイスラエルの地で終わりました。

エレミヤの時代に、神は彼らの反抗のためにイスラエルに警告を与えられました。「わたしは、彼らを、荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。」(エレミヤ13:24)

もし私たちが主に従い続けないなら、これは私たちにとっても同じように真実となります。冒頭のテーマの御言葉で、私たちはイェシュアについて読みました。「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:12)

神の御国に入るバプテスマの新しい命の約束の後に、焼かれるために火の中に投げ込まれるもみ殻のような結果にならないようにという警告があります。再び、イスラエルの人々によって理解されている日常のイメージが、その要点を非常に明確にするために用いられたのです。すべての人は、麦を吹き分けるために麦打ち場に行ったことがあるか、少なくともそれを見たことはあります。そこで、風が悪いものから良いものを分けるために吹くように、麦の粒はもみ殻から分けられました。それから、新鮮な食料を買うための食料品店は一つもなかったため、その大切な麦は、その年の間じゅう、使うために、つぼに入れて注意深く保存されました。しかし、役に立たない殻は、火で焼かれたのです。

このイメージの中で、私たちは麦と殻に比べられます。神の倉庫に集められるのにふさわしく、価値あるものとして見なされる麦と、散らされ、焼かれてしまう不用な殻とにです。私たちの心を知っておられる聖霊は、その分離をする風なのです。人は外側のかたちを見ますが、神は心を見られます。(サムエル16:7)聖霊である主の風は、私たちの心の中に何が起こっているのを見るでしょうか?私たちは人の目をだますことは出来ても、主をだますことは出来ません。私たちは、主のところに集められる麦となるように、神の御国の中を歩んでいるでしょうか?それとも、焼かれてしまう世のもみ殻として、神の霊的な御国の外で生活しているのでしょうか?

あなたの人生にはどちらの風が吹いているのか?

あなたの人生にはどちらの風が吹いているのでしょうか?

あなたは、ひでりや飢饉をもたらす砂漠の東風によって枯らされていますか?それとも、あなたの人生を潤す、命を与える西からの風が吹いていますか?

恐らく、麦を殻から分ける聖霊の風が、あなたの人生に吹いていて、神が本当に神の御国に集めたいと望まれている大切な麦の粒にしがみつく、不用な殻を取り除こうと努力しているでしょう。

私たちは、パウロが言っているような、私たちに吹いてくる偽りの風に気をつけなければなりません。「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」(エペソ4:13-14)

ヤコブは神に信仰を持ち、」疑わないように言います。「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:6-8)

偽りの風を避ける鍵は、神の霊である、神の息に満たされていることです。神の霊が私たちのうちに住まわれるとき、神は私たちの人生を導き、伴われます。

では、私たちは、神の霊をどのようにして知るのでしょうか?イェシュアはご自身を、私たちの慰め主であると呼ばれて、言われます。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありあすが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言った野です。」(ヨハネ16:7-15)

エルサレムからシャローム

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