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あなたの上に“シャローム”があるように

BFP編集部 1999年7月

現代ヘブル語に関心がある人は、古代聖書言語(ヘブル語)を知りたいと思うものです。多くのクリスチャンが、ヘブル語は信仰の根元への管であり、この意味を知ることによって、大いに聖書理解が深まることを見い出しています。ヘブル語には、どんなに正確に翻訳しても、一語一語に端的に伝達することのできない、多くの意味が含まれています。

「エルサレム・パースペクティブ誌」の編集者-ダビデ・ビヴィン氏は、ヘブル語を学び、神のみ言葉の深みをよりよく理解するよう、クリスチャンに奨励しています。ある日、私たちの団体名「ブリッジス・フォー・ピース(平和の架け橋)」について語り合ったとき、“シャローム(平和)”という単語について教えてくれました。

イスラエルに来て最初に覚える単語のひとつが、“シャローム”です。なぜなら、「こんにちは」と「さようなら」のあいさつに使うからです。これはちょうどハワイの“アロハ”のようなものです。

誰かに対して「平和」を願うことは、大変良いことです。そして、もしシャロームに、平和という意味しか含まれていないとしても、これはすばらしい単語です。しかし、ヘブル語のシャロームには、単に「闘争や無秩序からの自由、平静」という意味しかもたない英語の「平和」とは違い、はるかに多くの意味が含まれています。

興味深いことに、英語はその定義をギリシャ語から得ているようです。ギリシャ語の語根は「イレーネ」です。これは、民族、国家間の調和を意味します。また、周りや心の静穏と言った平和も意味します。英語やギリシャ語の単語には限度があり、ひとつのヘブル語に含まれる多様な意味を伝えるために、これらの言語(他の言語でも同様)では、まことにたくさんの単語が必要となります。たとえば、シャロームの一部である「救い」を、ギリシャ語で伝えるためには、「イレーネ」ではなく、救いを意味する「ソテリア」を用いなければなりません。

ヘブル語のシャローム

ヘブル語の基体は、ほぼ三子音からなり、語根はそれぞれ基本的な意味を持っています。ひとつの単語を形成するために、三子音のまわりを補う文字が、他の語を構成するので、さまざまな形に変化し得ます。しかし、基本的な意味は、何らかの形で、必ず全ての単語の中に残ります。シャロームの語根は、シェン・ラメド・メムであり、英語への字訳は、「SH-L-M」となります。その基本概念は、「健全さ」「完全さ」です。文字どおり何百というヘブル語がその語根・SH-L-Mから組み立てられており、それらはみなこの基本概念に関連しています。たとえば、「ShaLeM」は、「完全」を意味し、創世記14章18節に記されている、メルキゼデクの町の名前でもあります(英字訳は「サレム」)。SheLeMは「平和のささげもの」を意味し、神との壊れた関係の修復を表します。SheeLeMは、「彼は支払った」という意味で、義務を完全になし遂げたことを表します。

ヘブル語はまことに効果的な言葉ですが、単語数は意外と少なく、英語のほぼ10分の1しかありません。ひとつの単語が、しばしば多様な機能を発揮します。たとえば、シャロームは通常「平和」と訳されますが、より単純には「静穏」や「戦争の反対」を表します。聖書の聖句にざっと目をとおすと、さらに様々なシャロームの意味が示されています。現在の翻訳では、必ずしもその意図がうまく伝えられていません。訳書では、その関連がわからないでしょうが、シャロームという単語は、ヘブル語の中に良く表されています。そのうちのいくつかを見てみましょう。

友情:友人間のシャロームは、信頼(エレミヤ38:22)、親しさ(エレミヤ20:10)、平和な理解(ゼカリヤ6:13)を表し、ここでは「平和」に、「友人」という言葉が前置されています。詩篇28篇3節では、「平和を語りながら、その心に悪がある人々」について、詩篇41篇9節では、「シャローム(平和)の人」について語っています。両方の聖句とも友好と裏切りを対照させていますが、これは戦争と平和のことではありません。同じように、第一列王記2章13節で、バテ・シェバがアドニヤに「シャロームなことで来たのですか」と尋ねていますが、彼女は、平和のために来たのかを聞きたかったのではなく、友好的な意図できたのかを聞きたかったのです。彼は「シャローム」と答えましたが、それは嘘でした。争いではありませんでしたが、友好的な意図はなく、心に裏切りを持ってきました。また、イエシュア(イエス)が「シャローム(平和)の子」と表現されたのは(ルカ10:6)、平和愛好家についてではなく、親切な友好的人物についてでした。

すこやかさ:シャロームは、健康と繁栄を含む完全な幸福を表しています。これは神からの賜物です。これを第2列王記4章26節にみいだします。エリシャの僕が、シュネムの婦人に、「あなたをはじめ、夫や子どもはすこやかですか」と尋ねました。原典では、「あなたはシャロームがありますか」という質問でした。今日のイスラエルでは、友人に元気かと尋ねるとき、「シャロームですか」と聞きます。また、もし誰かにあなたの心遣いを伝えたいのなら、「あの人にシャロームか聞いてくれ」と言います。詩篇の詩人が「私の肉には完全なところがなく…私の骨には健全(シャローム)なところがありません」と言うとき、彼は明らかに健康面に触れています(詩篇38:3)。この章句に使われているシャロームは、「平和」ではなく、「健康」と訳されます。

安全:士誌記11章31節で、エフタは悲劇的な誓いを立ててこう言いました。「もし戦争からシャローム(安全)のうちに戻って来たら、自分の家から出てきた最初の生き物を主にささげる。」ここでのシャロームは、イザヤ書41章3節「彼は彼らを追い…シャローム(安全)に通って行く」という言葉と同じ意味で用いられています。イエシュアもルカ伝11章21節で、このシャロームを同じ方法でお使いになりました。「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物はシャローム(安全)です。」イザヤは、シャローム(安全)をもたらす義なる生き方と、平穏の間には、結びつきがあると言っています。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。義は平和をつくりだし、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な憩いの場にすむ。」(イザヤ32:17-18)

救い:シャロームは、イザヤ書60章17節のツェダカー(義)や、イザヤ書52章7節のイエシュア(助け)と言った救いを示す語と平行して用いられています。イザヤ書52章は、字義的には「平和」と「助け」を意味します。救いと同意語として書かれていることに、付加的意義を受け取ります。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」

使徒パウロは、イザヤ書57書19節に書かれている「シャローム、シャローム」は、平和だけでなく、救いに言及すると理解しました。エペソ書2章13-18節におけるパウロの説明は、救い主イエシュアについて、「彼御自身が私たちのシャローム(救い)である」と語っています。「彼はユダヤ人と異邦人をひとつにし(14-15節)、平和を宣べ伝えるために来られた…なぜなら彼をとおして、私たちはひとつの御霊によって父に近づくからです。」(17-18節

これはルカ伝2章14節に記録された、みつかいたちの歌の中にも見られます。「いと高きところに、栄光が、神にあるように。地の上に、シャローム(平和)が、御心にかなう人々にあるように。」有名な詩篇122篇6節「エルサレムのシャローム(平和)のために祈れ」と言う節も、もしシャロームがもっとよく理解されていたら、「平和」より「救い」と訳されたことでしょう。この箇所を考慮するとき、シャロームは救いと同時に、霊的な解放と肉体的健やかさをも含んでいることを心にとめておかなければなりません。ヘブル語は、他の言葉のように、整然と物事を分類することをしませんでした。

新約聖書をつうじて、直接主の働きうけた人、あるいは霊的救いをとおしてイエシュアと関わりのある人物は、ありとあらゆる“シャローム”を表現しました。シャロームを期待し(ルカ1:79、2:29)、みつかいがそれを告げ(ルカ2:14)、いやされた人々はシャローム(平安)のうちに行き(マルコ5:34、ルカ7:50)、メシヤ-イエシュアがエルサレム入城するとき、人々はそれを歌いました(ルカ19:38)。また、イエシュアはエルサレムのために泣きました。人々は主の来臨がシャローム(救い)を意味することを知らず、それを見逃しました(ルカ19:42)。イエシュアは死なれる前に、弟子たちにシャロームを残し(ヨハ14:27、16:3)、復活の日、「弟子たちの中に立って言われました。シャローム(平安)があながたにあるように!」(ヨハネ20:19-20)。事実、主はこの句を三度、おっしゃいました(ヨハネ20:21、26)。新約聖書のさまざまな指導者が、「イエシュアによる、良い知らせ(使徒10:36)」を、「シャロームについての宣教(エペソ2:17)」、また「シャローム(平和)の福音(エペソ6:15、ローマ10:15)」として語りました。“シャロームの神”が、全人格-体・心・霊(第1テサロニケ5:23)に対する救いとして宣言されました。メシヤが完成された買い戻しの御業をとおして、神のシャロームが人に与えられていることが、しばしば新約聖書に記されています。

ご覧のとおり、シャロームはまことに柔軟な言葉であり、単なる平和(闘争、無秩序からの解放、調和、平穏であること)より、はるかに多く意味を持っています。シャロームの意味は、友好、すこやか、安全、救いを含め、ヘブル語(SH-L-M)の語根「完全」を、さまざまな面ではっきりと反映させています。

日常生活におけるシャローム

今日の世俗的な西洋文明は、ギリシャ由来の平和概念を持っています。それは精神面から生み出される個人的平和であって、神からの影響はありません。

しかし、ヘブル語聖書(旧約聖書)の著者たちは、全く逆のことを考えていました。彼らは、神の支配や臨在なくして、物事が起こることはないと考えました。神は、生きる上で完全な成功を与えてくださいますが、罪がそれを台無しにしてしまいました。神は平和なる地球の創始者であり、人間のあらゆる問題を超え、人生にシャロームの保証と実現を反映させ、完全さとしてあらわれると信じられていました(グレゴリー1976)。この概念は、主の祈りのうちに見られます。「天にましますわれらの父よ。願わくは御名を崇めさせ給え。御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく、地にもならせたまえ。」(マタイ6:9-10)。さらにシャロームは、しばしば物質面の繁栄を記述するために用いられました。それは、神の契約や、神の臨在の現れに結びついています。

預言的には、シャロームは全ての人に救いを提供する、メシアの祝福の約束です。イスラエルには、シャロームが約束されおり、それはまた、世界の人々にも拡大されます。預言者たちは、回復される関係、霊的回復、戦争や闘争の停止、また肉体的な安らぎに伴う来たるべきシャロームについて書きました。神は、ユダとイスラエルに約束されました。「わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」(エレミヤ33:6-9)

これは何を意味するか

今私たちが持つことのできる究極的シャロームは、神との関係にみいだされるシャロームであり、それは霊的に物質的に表れます。

もっとも基本的なシャロームは、そこを通過することによって得ることができる、主によって無代価で開かれた戸口です。もし、それを受けたいと望むなら、救い主イエシュアによって、私たちのシャローム(救い)が買い取られます。パウロは言いました。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1:19-20)

あとになって、私たちは真実の霊的、感情的シャロームをもみつけ出すことができるでしょう。パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリ4:4-9)と言いました。

最後に、物質的な環境はどうであれ、私たちに存在する「繁栄」、物質的なシャロームを知ることができます。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリ4:11-13)。神の存在の中に深く満足し、そのシャロームが、この世の環境をも引き上げてくれるのです。

それはあらゆるところでこの世の人に目撃され、人々をシャロームの神に引き寄せる、「超自然的な理解を超えたシャローム」となります。たいていの信徒は、ヒステリックにさせる環境の中で、この体験をしています。祈りと主への信頼をとおして、神の臨在が超自然的なシャローム-幸福、確信、安全、希望の感覚をもたらします。この種のシャロームは、ただ神からやって来るのであって、呪術的に呼び出せる代物ではりません。これは本当に素晴らしいことです。

神殿時代、神にささげられたもののひとつに、「シェレム」、すなわち和解または平和のいけにえがありました。これは、神の平和を持っている人々によってささげられました。それは神への感謝の表明であり、神との交わりのためにささげられたました(レビ3章)。雄牛、あるいは羊、やぎがほふられ、その血が祭壇の上に注がれ、脂肪は主への香ばしい香りとして焼かれ、肉の一部分は祭司に与えられ、残りは人々が聖所で食べました(レビ7:15、申12:1、17)。また、肉と一緒に食物や飲み物がささげられました。食物は、神と礼拝者の間に存在する交わりを示し、友好とシャロームの象徴また保証でした。このささげものは、主との関係を喜ぶことを公に認めるものであり、供給源なる神への感謝を示すものでした。

今日、聖書の信仰を持たない人々の間では、神がすこやかさ、繁栄、安全あるいは救いの源として見られていません。神の内にあるシャロームと満足は、この世が提供する道で得られるものではありません。これは、創造者・贖い主・教師・宇宙の神・アブラハム、イサク、ヤコブの神・イスラエルの神から来なければなりません。シャロームを叫び求めている世界にとって、メシヤ-イエシュアこそ、多くの人々が感じている内的な恐慌を克服する解答です。「主こそ、私たちのシャロームだからです。」

イエシュアが、死んでみ父のみもとに行くとき、シャロームを用意すると弟子たちに語られました。そして、聖霊が慰め主また教師として来てくださることを約束されました。(ヨハネ14:25-26)。それからイエシュアはこう言われました。「わたしは、あなたがたにシャローム(平安)を残します。わたしは、あなたがたにわたしのシャローム(平安)を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)。イエシュアが、この世の平安、すなわちつかの間の、不首尾一貫の平安を与えるのではないと強調しておられるのは、興味深いことです。イエシュアは神のシャロームを約束されました。それは、救い、完全、幸福、すこやかさ、友好、安全、繁栄、健康、安定、満足の実体です。誰がそれ以上のものを求め得るでしょうか。

もう待たないでください。全ての理解を超える主のシャロームが、それを求める人のものとなるのなら、今日こそこの大いなる贈り物を経験する日です。

エルサレムからシャローム

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