ティーチングレター

生ける神の聖所

BFP編集部 2003年11月

聖書に記されている、幕屋やイスラエルの例祭に関する記事は“退屈”という印象をもたれがちです。多くのクリスチャンが、これらがすでに過去のものであり、キリスト教とはほとんどつながりがないと思っています。しかし、これらの箇所には、過去、現在、そして未来にいたるまで、決して変わることのない永遠なる神のご性質と神格が豊かに反映されています。みことばには、神について何らかのメッセージが込められており、それを学ぶことによって、私たちは良い弟子となることができるのです。

「このイエスは、神が昔から、
聖なる預言者たちの口を通
してたびたび語られた、あの
万物の改まる時まで、天にと
どまっていなければなりま
せん。」(使徒3:21)

パウロはこう言っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテ3:16)。彼はただ、これを新約聖書にだけ当てはめて述べているのではありません。実を言えば、旧約聖書を指して言っているのです。驚かれるかもしれません。しかし、ここで知っていていただきたいのは、私たちが今日読んでいる新約聖書は、紀元350年に初めて成立したということです。パウロがこの書簡を書いた時代、新約聖書は存在しませんでした。使徒行伝時代からその後数百年間の教会にとって、「聖書」とは、旧約聖書を指していたのです。パウロがあちこちの教会に送った書簡類は、神のみことばにどう従っていったらよいのかについて、また、寄せられた特定の質問に回答するために書かれたものであり、一般に広く知れ渡ったのはかなり後になってからのことでした。ですから、旧約聖書に込められた教えや訓戒、また歴史は、教会にとって、私たちが考えるよりはるかに大きな重要性をもっているのです。

私はときどきこのティーチング・レターの中で、他の神学者や教師の教えを引用します。今回は、ケレン・ハナ・プロイヤー女史の、“幕屋”に関する研究を紹介させていただきます。女史は、夫のドワイト・プロイヤー氏と共に、『ユダヤ=キリスト教研究所』を主宰しておられます。

荒野の幕屋は、ヤコブの子孫である
イスラエルの12部族の宿営に取り囲
まれるようにして建っていた。
ヨム・キプールとして知られる、年に
1度の大贖罪日には、宿営の外で火が
焚かれ、その清めの象徴としての
「身代わりのヤギ」が荒野に放たれた。

地上を住まいとされる神

神の、地上に対する最大の計画の一つは、ご自分の住まいとされる所を築き、そこにとどまり、栄光を現されることでした。神が最初に築かれたのは、ヘブライ語で『ミシュカン』と呼ばれる、荒野の幕屋でした。その後、ダビデ王が契約の箱を安置するための質素なテントを建てました。その意志を継いで、息子ソロモン王が、父ダビデのプランに基づいて、エルサレムに壮麗を極める神殿を建てました。今日『神殿の丘』として知られる、エルサレム旧市街の一角に建てられました。建立儀式の時、突如、雲が神殿内に満ちました。「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(歴代5:14)。ソロモンによる神殿は、バビロンの進攻で破壊されました。

その後、再建された第二神殿は、ヘロデ大王の手によって完成され、当時でも世界有数の建築物の一つと唱えられました。しかしながら、主イエスは、その破壊を予見して次のように宣言されました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)

メシアなる主イエスこそ、詩篇118編22節に出てくる「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」と預言されている“礎の石”です。礎の石は、建物に使われるすべての石を一つにつなげる非常に大切な存在です。このイエスを通して、今は主を信じるクリスチャンが、地上における神殿とされています。ですから、かつて神がどんな所に宿っておられたのかについて学ぶことを通して、新しい神殿とされた私たちのあり方が明らかになります。

細部を語られる神

「過越の祭り」の時、出エジプトの出来事を思い起こす中で、私は「ミシュカン(幕屋)」に注目しました。イスラエルの宿営の真中に、ご自身の住まいである幕屋を建築されるにあたり、神は構造まで、事細かにその建て方を指示されました。中でも最も私の注意を引き付けたのは、イスラエル人の宿営から聖所である幕屋を隔てるため、その周囲に張り巡らされていた亜麻布のカーテンについてでした。

幕屋は、周囲の環境に溶け込んで、隠れてしまうように建てられていたのではありません。荒野の中でひときわ目立つように設計されていました。白い布のフェンスで囲まれていたことで、神の聖なる場所として周囲から完全に隔絶されていました。この白いフェンスは、砂(汚ないもの)の多い荒野――世俗、汚れた世界を意味する――から、神のおられる場所が聖なる地として完全に分離していることの象徴でした。

「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。」(レビ20:26)。神に救われ、このお方との聖なる契約にとどまり成長していくために、私たちはこの世と分離されました。そして、子羊イエスの花嫁(教会)のために、純白の輝かしい亜麻布でできた衣装が用意されました。この白い衣装とは何でしょう。これこそ、「聖徒たちの正しい行ない」(黙示19:8)です。詩篇15篇1節で、記者ダビデは神にこう尋ねています。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」次の2節は、彼の質問に対する回答です。「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。」言い換えれば、聖なる神に倣い、自身も聖なる者として歩んでいる人のことです。

この亜麻布のフェンスは、一方でみことばであるトーラー(聖書、律法)の巻物が広げられた状態に似ています。そう、神の聖なる住まいを囲っているのは、神ご自身のおことばです。みことばを通して、神はご自身を現され、義を明らかにし、約束を示され、契約を成立されました。真っ白な亜麻布に象徴される、純粋な明るい輝きに満ちた神のみ教えと導きは、神を信じる人々の上に与えられます。

人間は、努力して清くなることはできません。メシアなる主によって新しく造り変えられることで、父なる神と和解し、聖霊のお力によって、世俗的なもの、汚れたものが、聖なるものへと変えられます。私たちがなすすべての行いは、神の目的のために尊いものとされます。みことばの光の中を歩むとき、地上にあっても、主にある命に満ちあふれた人生が始まります。聖書のみことばの中で明らかにされている、神の御心に従って、人生のすべての局面において高みを目指すとき、清めが私たちのうちに始まります。私たちはそうすることで、神の義の中で光輝くことができ、幕屋を覆っていた純白の亜麻布のカーテンのように、御名に栄光を帰すため、私たちの内に神の臨在を現すことができるのです。

画家によって描かれた、幕屋の断面図

ヘブル書1章3節、そして8節には次のようにあります。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。……神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」生ける神のみことばであり、生きた律法の書である主イエスによって救われた私たちは、何と祝福された者たちでしょうか。この方によって、私たちは聖霊に包まれ、生き続けることができるのですから。

より糸

幕屋について、さらに神がより深い啓示を示してくださることを待っていました。この時、私は幕屋を構成するもう一つのカーテンに関心をもちました。このカーテンというのは、実際に幕屋自体を覆っている10枚の布でした。中でも特に、このカーテンの2組(5枚1組)を一つに留めるために用いられた、青色(ヘブライ語で“トゥ・シェイレット”)の輪留めに注目しました。

この「トゥ・シェイレット」とは聖書的な意味をもつ青色で、神殿で仕える祭司が着用する祈祷用のショールの縁に付いている「ツィツィヨット」と呼ばれる飾り紐も、この色に染められていました。また、イスラエルの民が荒野に寄留する間、宿営を移動する際はいつでも、幕屋内の家具はすべて、トゥ・シェイレット色の布に覆われました。緋色のより糸(この緋色は、血の中にある命を象徴している)と共に、この輝きに満ちた青のより糸は、聖書時代にわたってイスラエルで作られ続けました。トゥ・シェイレットの青は、神の恵みに満ちた義を表しています。地上のすべての被造物を覆う青い空、そして青い海のように、神の義は、エデンの園を源流として歴史を通して流れる一本の川である、みことばの流れの青さに表されています。この川は、神の子であるメシア、イエス・キリスト、「義なる主」であるお方によって、私たちの上にも流れるようになりました。この流れこそ、黙示録に出てくる“いのちの川”そのものです。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示22:1-2)

2組のカーテンがトゥ・シェイレットの青の輪留めで組み合わせられるように、私たちもまた、主が祈られた通り(ヨハネ17:11、21)、ただイエスの義によって、真の意味で一つとなることができます。聖霊による心の刷新によって、神の似姿に変えられていきます。そして、ユダヤ人と異邦人の間に、夫と妻の間に、人とその隣人の間に、「真の一体」が訪れます。神によって変えられることで、私たちは父なるお方の似姿を映し出し、命の水が流れ出るようになります。そう、神にある私たち自身の中にこそ、詩篇23篇の「いこいの水のほとり」―安らかな場所があり、この中に癒やしと、真のシャローム(平安)、あるいは完全さが見い出されるのです。

ある土曜日の夕方、教会の礼拝で(イスラエルでは土曜日が聖日なため、この日に礼拝を行う教会が多い)、夫と私は「新しい一人の人」というテーマでメッセージを語りました。この中で、この「トゥ・シェイレット」に関する考えを語りました。私たちの親しい兄弟であり、その教会の長老でもある一人の友人は、私のメッセージを聞いて、この輪留めがどう働くか、幕屋のモデルを実際に作り、あとで私に見せてくれました。彼は、この部品がどういうものか、どのように作用して、布同士を固定して幕屋が出来上がるのかを理解したかったのです。私に説明しながら、彼の表情は興奮で輝いていました。説明が終わると、それまでまっすぐに並んで2組のカーテンをしっかりと固定していた1列の輪留めが、一気に崩れ落ちました。その落下地点こそ、「至聖所」(神の箱が安置され、神の臨在が宿る、幕屋の中でも最も聖なる場所。大祭司だけが入ることができた)と通常の聖所に二分していたカーテンがある所だったのです。そうです!このカーテンは、神と人の間に介在してくださるイエス・キリストを表しています。イエスが十字架上で息を引き取られたとき、神殿の中のこのカーテンが、音を立てて真っ二つに裂けました(マタイ27:51、他)。神と人との間にあった垣根はイエス・キリストのあがないによって取り除かれたのです。

私たちは、ただ一人の大祭司であるイエス・キリストと一つになることによって、父なる神が臨在される聖所へと入っていくことができます。その時主は、私たちをご自身の義によって飾られたマントで覆ってくださいます。こうして私たちは、恐れなく神とお会いし、聖霊を通してこの方を「アバ、お父さん!!」と呼ぶことができるのです。

チャレンジ

初めであり終わりであり、最も高きお方であるこの神の子どもたちとして、「いのちの川から水を飲むこと」「みことばに心を満たされること」「神の霊によって強められること」、これらは私たちの受けるチャレンジです。私たちの中に、神によって義とされる場所(聖所)、が築かれる時――つまり、新しい創造が成される時、私たちは互いに触れ合い、愛によって結ばれ、完全に一体となることができます。そしてここに、神の御体である、生ける聖所が完成されます。「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:3)。私たちは、神によって定められた時に従って1年を歩む(ユダヤ暦を守って生活する、という意味ではなく、折々にみことばを覚える)――つまり神の義の道を歩み、御手の中で建て上げられる中で、個人的生活においても、他の人々との関係においても、教会の中でも、社会の中でも、神の生ける聖所の修復と建て上げの業に加わることができます。このようにして、私たちは希望を増し加えられ、喜びをもって、“祝福あれ、主の御名によって来られる方に!”とそのお方に叫ぶことができる、栄光ある日を待ち望むことができるのです。アーメン。

記事の先頭に戻る

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.