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イエスと熱心党 Part-1

BFP編集部 2002年2月

聖書には、神に熱心に仕える人々が数多く登場します。たとえば、祭司ピネハス(民数25:12)、律法熱心なイスラエル人たち(ローマ11:2)、コロサイ人エパフラス(コロサイ4:13)、熱烈なユダヤ教徒だったパウロ(ガラテヤ1:14)、主の聖徒たち(テトス2:14、黙示録3:19)などです。しかし彼らの行動を良く吟味してみると、「熱心さ」は、肯定的かつ否定的の両方の意味を持っていることがわかります。言い換えれば、熱心さは、必ずしも神の御心を行っているかどうかのはかりにはならないということです。ひたすら御心を求め、神に栄光を帰すときのみ、清く正しい熱心さとされます。御心にかなう熱意とは、真の信仰を追求し、それを体現することへの情熱で燃えていることです。

これは、狂信的な献身の思いを持つこととは全く異なります。熱心さを良きものとするためには、心からの献身(神のご性質の中に表される)と狂信主義(自分自身の肉で表される)がはっきりと区別される必要があります。

イエスの時代、『熱心党』、あるいは『スカリー』と呼ばれる狂信的な一派が存在しました。彼らは、「神以外のどんな支配者も、イスラエルはきっぱりと拒絶するべきだ」と考えていました。彼らは税金を払うことを拒絶し、政府の役人に対して略奪と殺りくを繰り返し、異教の象徴だとしてギリシャ語の使用を認めませんでした。そして、支配者であるローマに対抗して戦いました。熱心党は、目標を達成するためなら、陰謀や暴力、詐欺行為を使うことをためらいませんでした。イスラエルの主権がユダヤ人にあること、そしてイスラエルの神のみを礼拝することを求めた彼らの動機そのものは、間違いではありませんでした。しかし行いがあまりにも狂信的で、またその熱心さにはあわれみや愛が欠けていましたから、聖書のメッセージとは相反するものでした。新約聖書では、このグループについて、「熱心党のシモン」(ルカ6:14)という記述で触れられています。おそらく他の弟子たちも、熱心党の政治的、宗教的な教えを深く受けていたことでしょう。しかしイエスは、熱心党の思想、方法論を否定しています。

熱心党とは

紀元前二世紀、イスラエルはハスモン家と呼ばれるユダヤ人の祭司王家によって統治されていました。この一族は、イスラエルの国土を、ダビデ時代の国境線近くにまで拡大することに成功しました。ハスモン家が、王と大祭司の両方を兼任していました。この時代を、ハスモン王朝時代と呼びます。ハスモン王朝時代、イスラエルは、超大国からこの国の支配権を奪回し、ようやく国家としての独立を実現しました。この時、ユダヤ教は豊かに花開き、神殿を中心とする礼拝が栄えました。そして、異邦人さえも、続々とユダヤ教に改宗していきました。ユダヤ人が主権を握り、国土は拡大され、国民はバビロン捕囚以来、初めて自分たちの国を持ったことを実感しました。

ところが、イスラエルへの侵略をローマが決断したことで、この独立と繁栄の時代が唐突に終わりました。紀元前67年、戦いに勝利したローマによって、ハスモン王朝時代に終止符が打たれたのです。これは、イエスの伝道活動が始まるおよそ百年前の出来事です。

紀元6年から7年にかけて、ローマのコポニウス総督がこの地で国勢調査を実施しました。このとき、熱心党はこれを「ローマの占領を認めることと同じ」ととらえました。そして、ローマに対して反乱を起こしました。ローマが支配権を確固たるものとしていく一方で、熱心党は『自由解放運動』を繰り広げ、民衆から幅広い支持を得ました。

熱心党の構成員は、安全な北部のガリラヤ地方、今日で言うゴラン高原に住んでいました。ガリラヤ湖北東にある峡谷の中の一つに、『ガムラ』と呼ばれる孤立した急峻な山があります。初期の指導者の一人、ガムラのユダ(ガリラヤのユダとも言われた-使徒5:37)という人物が、国勢調査の時に抵抗運動を始めました。彼のグループは「短刀を持つ者」という意味の『スカリー』と呼ばれ、この運動の政治的、宗教的思想の基盤を築きました。後に、彼らは熱心党と呼ばれるようになります。

ガムラで発掘されたシナゴーグを見物する人々。

新約聖書とのつながり

福音書を正しく理解するために、「ローマに協力することは、最悪の行為である」と考えたスカリー(熱心党員)の要塞が、ガリラヤ湖周辺に点在していたことを知る必要があります。イエスの時代、ガリラヤの熱心党はまだ小さなグループでしたが、「ローマはこの地の正統な支配者ではない。われわれはこの占領から自由になり、独立を勝ち得る日を待ち望む」という信念を、声高に主張しました。熱心党の抵抗運動の拠点・ガムラは、3〜4世代の間、反ローマ運動の基地として用いられ、ユダヤ人の不満の高まりとともに、徐々に拡大していきました。

イエスが弟子たちを集められたガリラヤ湖周辺の村々は、ガムラの影響を受けていました。ハスモン王朝時代、ガリラヤの開拓地へ移り住んだ人々は、“約束の地”と“神への礼拝”について、宗教的・政治的に深い信念を持っていました。ですから、彼らの心は熱心党のメッセージに対して開かれていました。

ガムラのユダの後継者については、使徒行伝の中で触れられています(使徒5:37)。ペテロとヨハネが、神殿で福音を語ったという理由で牢に入れられた事件を思い出してください。彼らが最高議会(サンヘドリン)へ呼び出された時、議長ガマリエルは同僚たちに言いました。「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(使徒5:38-39)。そしてガマリエルは、社会問題になった人々の例を挙げました。その中で、「その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。」(使徒5:37)と語っています。また、ガムラのユダとその息子たち、さらに後には孫たちも、スカリーにかかわっていたという資料が残っています。

ガムラの反対側・ガリラヤ湖東岸にも熱心党の要塞が存在していました。マグダラのマリヤが住んでいた町・ミグダルのそばにそびえるアルベル山の垂直な崖に面した『鳩の峡谷』には、熱心党の要塞と司令部がありました。高さ461メートルのこの崖は、ガリラヤ周辺のどこからでも見えたので、ローマ、そしてその手下であるヘロデ大王に対する抵抗運動を常に思い起こさせるシンボルとなりました。

ゲネサレ平原を見下ろす
アルベル山の崖。

ガリラヤ湖沿岸に住む宗教熱心なユダヤ人は、ヘロデ大王とその息子たちをイスラエルの統治者として受け入れようとはしませんでした。

第一に、ヘロデの一族は純血のユダヤ人ではなく、イドメア人との混血でした。第二に、彼らは異教徒であるローマ人の手先でした。歴史家ヨセフスの記録によれば、アルベル山の要塞を攻略したとき、ヘロデは熱心党の兵士たちを足場から吊り下げて火あぶりにし、漁業用の鉄カギに引っ掛けて死に至るまで振りまわし、地面に叩きつけて殺したそうです。同時に、ある洞窟に隠れ住んでいた老人が、ヘロデに服従するよりは……と、自分の子や孫たちを崖から突き落とした後、自らも身を投げたと記述しています。

イエスがガリラヤの地で、「平和をつくる人は幸いです」と教えておられたとき、そこにいた人々は、これから迎えようとしているローマとの戦争に備え、武器を準備する音を耳にしていました。ガリラヤ湖岸のイエスをイメージするとき、私たちの頭には、そよ風が吹いて草花が咲き、平和を謳歌(おうか)するイエスの姿が浮かんではこないでしょうか。しかし、現実はそうではありませんでした。バプテスマのヨハネとイエスが伝道活動を展開した時期、ガリラヤ湖の周辺では、ローマに対して6回にわたる反乱が企てられていたのです。

イエスと熱心党

イエスが熱心党の教えに精通されていたことは間違いありません。弟子の一人・シモンは、以前熱心党員でした(ルカ6:15、使徒1:13)。ある学者は、イスカリオテのユダも熱心党員だったと信じています。ユダは十二弟子の中で唯一、ユダ地方の出身でした。そして、ユダ地方の革命分子たちとも親しかったようです。これらの弟子たちとの付き合いから、イエスは熱心党に同情的であったと推測できます。しかし、熱心党の方法論や見解に賛成していなかったことは、その教えから明らかです。弟子が熱心党の出身だったからといって、イエスが理解を示したという証拠にはなりません。イエスは伝道活動の間ずっと、人々に携えていくべき、新しい教えと生き方を弟子たちに伝えようとされました。

イエスの時代、イスラエルには「救世主・メシア」を待ち望む風潮が高まっていました。人々は血眼になって、自分たちをローマの支配から解放してくれる、また古き良き独立の時代を取り戻してくれる人物を求めていました。

イエスと出会った多くの人が、彼のことを「ローマを追い払い、政治的王国の樹立を告げ知らせる救世主、あるいは解放者だ」と考え期待しました。しかしイエスは一度ならず何度も、ご自分の王国は神の御国にあることをはっきりと言い表されました。天の王国は、人々が地上の肉的領域で求めていたものよりも、はるかに高く遠大なものでした。

地上での伝道活動が終わりに近づいたとき、ポンテオ・ピラトの質問に、主はこう答えておられます。「わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)。イエスはご自分が王であることは否定されませんでした。しかし、地上の権力者を脅かす、単なる政治的存在ではないことをはっきりさせたかったのです。主の王国は神のものであり、その目的は、人々の心に天の王国を打ち立て、ほかの人々にも福音を告げ知らせるためのものでした。簡単に言えば、主の伝道は地上の権力闘争とは無縁のものでした。大切なことは、人々の心の王座に誰が座るかでした。

伝道活動中、ずっとイエスは「地上の肉的なことばかりに気を取られるのではなく、より高い神の召しを捜し求めなさい」と人々に語っておられました。その教えは、「自分たちの考えこそ、神の御心を代弁するものだLと、無理やり信じさせようとする、熱心党の独善的な教えと真っ向から対立するものでした。

しかし、イエスの弟子たちも、熱心党の教えに強く影響されていたに違いありません。『スカリー=熱心党の四つの教義』を見れば、それは明らかです。

イエスの時代に使用されていた
皇帝ティベリウスの刻まれたコイン。

第一の教義・「納税は不必要」

納税することは、政府の正当性を証明するためのものと見なされました。熱心党員が、人を寄せ付けない、ごつごつと切り立ったアルベル山の崖やガムラを住みかに選んだ理由の一つは、収税人を避けるためでした。崖に住んでいれば、収税人もなかなかやって来ることはできません。忠実で献身的なスカリーになるためには、納税を避けなければいけませんから、大嫌いなローマ人に出くわすことがないよう山の要塞に住む必要がありました。

マタイ22章15節から22節で、パリサイ派の人々が税金を支払うことについてイエスに尋ねています。「どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」イエスは彼らのコインを見せろと言い、「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか」と問い返します。彼らが「カイザルのです」と答えると、イエスは彼らにこう言われました。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去りました。イエスは地上の権威に対して反抗的ではありませんでした。むしろ税金の支払いについて、指導者に従うように教えられました。コインにローマ皇帝の顔が刻まれているので、皇帝が税を支払えと言うのであれば、それらの通貨を使っている人々は嫌がらずに支払いなさいと。

マタイの福音書17章24節から27節にかけて、もう一つの税に関する出来事が記されています。カペナウムの収税人がペテロに、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」と尋ねました。当時は、神殿のために2ドラクマの税を払うことが義務づけられていました。ここに展開されている会話から、イエスが税金を支払うことについて不賛成であることが明らかですが、それでも主は払いました。「湖に行って釣りをし、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル1枚(4ドラクマ)が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」(マタイ17:27)

第二の教義・「神のみに仕える」

熱心党はローマからの独立を強く求めていました。彼らはまた、イスラエルの神以外、他の誰にも仕えないと公言していました。もちろん、ローマ帝国に従うなど問題外でした。

当時、至る所にローマ兵がいました。また、彼らが連れてきた外国の傭兵もいました。彼らは「荷を運ぶように」と、イスラエル人にいつでも命じることができる特権を持っていました。

ところで、イエスはマタイの福音書5章41節で、「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。」とおっしゃっています。こうした歴史的背景を考えるとき、果たして人々が喜んでこのことばを聞くことができたのかどうか疑問を感じます。ここでイエスは、彼らを酷使するローマ兵への態度について、論争の的になるようなことを言っているのです。それは、「上に立つ者たちに対し、その要求が神の律法に違反しないかぎり、愛と尊敬を示しなさい」という内容でした。

イエスの時代、多くのユダヤ人が反ローマ的でした。イエスの弟子も例外ではありません。彼らについてより深く理解するためには、彼らの反ローマ主義意識についても柔軟に受け止める必要があります。

ヘロデ大王の息子の1人に、イエスが「狐」とあだ名したヘロデ・アンティパスという人物がいます。ヘロデ・アンティパスは、ローマ皇帝ティベリウスの肖像が描かれたコ.インを鋳造しました。ガリラヤの宗教的なユダヤ人は、このコインに触ることさえ拒絶しました。なぜなら、そのようなコインはみな偶像と見なされたからです。しかも、そこには単なる人間ではない、神と自称するローマ皇帝の姿が刻まれていたのです。ユダヤ人がそうした硬貨の使用をボイコットしたため、ガリラヤ地方全体の経済が一時低迷したほど、彼らの拒絶は強烈なものでした。

結局、ヘロデ・アンティパスは、人の姿が刻まれていない新しいコインを鋳造しました。その模様に最も多く使用されたシンボルは、棕櫚(しゅろ)の木でした。ですから棕櫚の木は、ガリラヤの宗教的なユダヤ人にとって、手ごわいローマ人への勝利を表すシンボルとなったのです。「われわれがコインの偶像を取り除かせ、清くした!」と。

「棕櫚の日曜日」に使われた棕櫚の葉は、
メシア的・かつ政治的メッセージを示すものだった。

このエピソードは、「棕櫚の日曜日の物語(イエスのイスラエル入場)」をより深く解釈する助けとなります。歴史家は、イエスの時代、オリーブ山にガリラヤの巡礼者たちの野営地が3つあったと言っています。祭りの季節、エルサレムの宿屋が満杯になると、ガリラヤから来た巡礼者は、オリーブ山上に宿営しました。棕櫚の日曜日の物語は、イエスがオリーブ山上から、ガリラヤ人に囲まれ、子ロバ(メシアを象徴するものの一つ)に乗って、エルサレムに入場する場面が描かれています。イエスの進む道に上着を敷いた人々は、もちろん、メシアの到来を熱望するガリラヤのユダヤ人でした。ローマを追い出してくれると期待し、イエスを迎えるのに彼らが選んだ象徴的な物は何だったでしょう。それはもちろん、偶像礼拝への勝利を意味する、コインに刻まれたのと同じ棕櫚の枝です。棕櫚の枝は、ユダヤ人の国民主義の象徴となりました。

棕櫚の木でヘロデ・
アンティパスの顔が
消された二つのコイン。

後の紀元66年に起きた第一次ユダヤ戦争で、エルサレムの造幣工場を熱心党が占領した時、彼らは自分たちのコインを鋳造しました。ハレー彗星が空に見えた66年、熱心党の指揮官が、エルサレム内の駐屯地からローマの守備隊を追い出しました。熱心党員たちは、ありったけのコイン(当時は皇帝ネロの顔が刻まれていた)をかき集め、棕櫚の木とその下にヘブル語文字をデザインしたものを彫ったハンマーで、コインを打ち直しました。一つひとつネロの顔を上から棕櫚のデザインでつぶしていったのです。このコインが現代になっていくつか発見されています。

さて、イエスの弟子たちがどれほど反ローマ主義的だったかという疑問に答えるには、この時代のガリラヤ湖沿岸の人々の暮らしを見るのが一番でしょう。まず『ベツサイダ』です。ベツサイダはヨルダン川の水がガリラヤ湖に流れ込む河口に面し、少し内陸のジュリアス(1.6キロメートルも離れていない)というローマ人の町の隣に位置していました。

十二弟子のうち、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの2組の兄弟がベツサイダ出身です。そしてヨハネの福音書に、ピリポもそうだったと書かれています。では、弟子たちのローマヘの態度は、実際どのようなものだったのでしょうか。

ローマ人の町・ジュリアスは、ヘロデ・ピリポによって地方の首都として建てられました。事実、ヘロデ・ピリポはジュリアスに住んでいました。ジュリアスにはローマのジュピター神の像がありました。そこは世俗的かつ異教の町で、福音書はジュリアスについて一度も触れていません。それは、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてピリポも、たぶんそこへ一度も行ったことがなかったからです。そこは宗教的なユダヤ人が決して行かない場所でした。

シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてピリポもおそらく、熱心党員と同じように、「世俗からの分離による救い」を信じた宗教的ユダヤ人だったのでしょう。彼らは異教徒だからということで、非ユダヤ人たちと交際しませんでした。ジュリアスヘ行くことなど、考えもしなかったでしょう。

ベツサイダは、ジュリアスに近かっただけでなく、ちょうどガムラの真下に位置していました。ベツサイダの上にそり立つ峡谷にある、熱心党の要塞です。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてピリポも、夜、寝床に就くと、上にガムラの明かりを見、ローマとの対戦に備えて鉄の武器を鍛えるカンカンという音も聞いていたのではないでしょうか。

イエスの弟子たちは、ベツサイダのシナゴーグで、「自己を俗世間から聖別し、卑しい者たちと付き合って妥協してはならない」という説教を、たぶん何度も聞いたでしょう。シナゴーグには、礼拝でラビが座って説教をする「モーセの座」がありました。イエスが「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。」(マタイ23:2)と言ったのを思い出してください。これは、彼らがシナゴーグで教える立場にあったことを意味します。ラビたちが座るときは、いつも、公式の説教がなされました。

ジュリアスが平地にあっ
た一方、ベツサイダは岸
辺の木の中にあった。

イエスの時代、パリサイ人の中には、異邦人の影が身体にかかっただけで、ミクベー(ユダヤ教の清めの儀式のための浴槽)へ行って身を清めるよう教える人々がいました。彼らはそれほど異邦人嫌いで、反ローマ主義だったのです。イエスの弟子たちが育った背景も、おそらくこのようなものでした。

ガリラヤ湖周辺には、ガデラ、フィロテリア、センナブリス、ヒッポス、そしてジュリアスなどの大都市がありました。しかし、福音書ではこれらの町について一度も言及されていません。それは、これらが異邦人の町だったため、弟子たちや宗教的ユダヤ人に避けられていたからです。

ヨハネ6章23節で、人々がイエスの説教を聴くために「ティベリヤから数隻の小舟が来た」とあります。ガリラヤ湖で最大の町ティベリヤさえも、ここでたった一度言及されているだけです。これは典型的な「選民」と「異邦人」という区別意識です。弟子たちは異邦人と交わらず、異邦人の町へ足を踏み入れもしませんでした。後に、弟子たちの視野はぐんと開かれ、改宗者を求めて異邦人の町へ出ていくまでに変えられていきました。

もし、ペテロが最初から、何の問題もなく異邦人と交わるような考えを持った人物であったのなら、使徒行伝10章の出来事は何の意味もなさなかったでしょう。この箇所には、ローマ人の百人隊長・コルネリオが、ペテロに使いを送ったことが書かれています。コルネリオの使者は、宗教的なユダヤ人の家に足を踏み入れてはいけないと知っていたので、門の外から呼びかけています。そして屋根から下りたペテロが何と言ったでしょう。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。」このような背景から、弟子たちはどんな異邦人の町にも行ったことがありませんでした。

第三の教義・「奴隷反対」

熱心党員たちは、「神にのみ仕えよ」と聖書を解釈していました。ですから、奴隷制度に断固反対でした。

墓石に刻まれた言葉などから、イエスの時代、ユダヤ人人口の15パーセントが奴隷であったことがわかっています。考古学者は、奴隷の首にかけられていた「私の名前は云々。私は誰々のもので、私を見つけたら連れ戻してください。そうすれば豪華なお礼を差し上げます」などと書かれた鉄かせを発見しています。

このことから、アルベル山やガムラに住んでいた人々の多くが、脱走者や逃亡奴隷であったと推測することができます。ある意味で、これらの人々は、純粋な社会を望む高い理想の持ち主だったとも言えますが、もう一方で、逃亡者や法を犯した罪人だったとも言えます。熱心党員とその指揮官たちは、さまざまな背景から集まった雑多な人々のグループだったのです。中には泥棒や強盗も混じっていました。

イエスの弟子には、逃亡奴隷や脱走者は一人もいませんでしたが、彼らが職業を離れ、イスラエル中を伝道して歩くのについて行ったことが書かれています。十二弟子たちは、ユダ以外は全員がガリラヤ人でした。イエスのメッセージは、しばしば当時の政府や宗教指導者たちの言葉とは相反するものでした。人々はイエスを、注目すべき新しい派閥の指導者だと考えていました。イエスに脅威を感じた当時の政府、そして宗教勢力は、他の自称「メシア」たちと同じように、イエスを始末し、彼の弟子たちを追い散らそうと企てました。

第四の教義・「服従よりは死」

熱心党員は、「死か奴隷か」の最悪の選択を迫られた場合、「奴隷になるよりは自らの命を絶つほうがましだ」と信じていました。ヨセフスの著作の中に、マサダに立てこもった熱心党員の司令官だったエリエゼル・ベン・ヤイールが、人々を説得して自害へと導いた演説が書かれています。「これは、われわれの律法で命じられていることだ」と彼は言っています。いったい聖書のどこに、「奴隷になるよりは自殺せよ」と書かれているでしょうか。もちろん、そのようなことは書かれていません。少なくとも、文字どおりの表現では。しかし、もし他の主人に奴隷として仕えることを偶像礼拝と解釈するなら、モーセの律法に「偶像礼拝の罰は死」とあります。多分これを根拠に、熱心党員は奴隷よりは死のほうが良いと思い込んだのでしょう。

もちろん、イエスは自殺をするようには教えておられません。福音を伝えたことで殺されるかもしれないとしても、教え続けるべきであるとは教えておられます。事実、主は福音のためにご自分の命を捧げられました。そして使徒たちに、彼ら自身も信仰のために殉教するだろうと預言されました。

来月のティーチングレターでは、イエスの死後、熱心党に何が起こったのか、また、後世のイスラエルの政治・宗教にどのような影響を及ぼしたのかについて、学びたいと思います。熱心党の思想と行動は、使徒行伝や他の新約の書簡が記された時代に多大な影響を及ぼし、それが聖書のさまざまなページにも色濃く表れています。

また、21世紀に生きる私たちにとっても、この学びがどのような意味を持つのかについて、お話させていただきます。それではまた来月号をお楽しみに!

エルサレムよりシャローム

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