文・テリー・メイソン(BFP国際開発部長)
聖書で多用されている「道」。
イエスは「わたしこそ道だ」と言い、
初代信者たちも「この道の者」と呼ばれました。
道の真意を学び、共にこの道を歩んでまいりましょう。
Photo by Joe/Pixabay「主の道」「いのちの道」「とこしえの道」――「道」は聖書の中心的な概念です。
神はアブラハムを選び、こう言われました。「わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ」(創18:19)。箴言15章24節は「賢明な者はいのちの道を上って行く。下にあるよみから離れるためだ」と語り、ダビデは詩篇139篇23〜24節で「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください」と祈りました。
聖書的・道徳的基準が消えゆく今日、多くの人々が道に迷っています。このような時代に、エレミヤ書6章16節に記された「幸いの道」は、私たちの核となり、たましいに平安をもたらすでしょう。「主はこう言われる。『道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。……」
多くの道か、一つの道か
主の道とは、義と公正を行うこと、すなわち、自分にしてもらいたいように他の人々を取り扱うことであると聖書は示しています。これは基本的な良識であって、神や神のことばを知らない人々でさえ、通常はこの善悪を見分けます。万物の創造主かつ統治者であられる神は、人類が良い生活を送り、強固で正しい社会を築くために原則を与えられました。この一般的な良識の道に反する時、良心が警告を発するのは自然なことです。
Photo by Derek Harper/wikimedia.org誰よりも知恵のあったソロモン王は、しばしば箴言の中で主の道について記しました。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(箴16:25)。自分の行きたい方向に進もうとする時、正しいように見えても、最終的には死に至る道があります。「義の道にはいのちがあり、その道筋には死がない」(箴12:28)。「主の道」とは、義の道です。聖書は繰り返し「いのちの道か、死の道かを選びなさい」と語っています。
預言者ホセアは「……主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく」(ホセ14:9)と語りました。
ヤコブはこの真理を教会に思い起こさせるため、「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」(ヤコブ4:17)と記しています。
ユダヤ教では、この基本的道徳を「デレク・エレツ」と言います。文字どおりには「地での道」を意味し、道徳的で責任のある生き方、あるいは基準となる行動や話し方という意味です。
主の道
使徒の働き18章25節は、アポロのエペソ宣教を記した箇所です。「この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった」
アポロは、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。四福音書の著者によると、ヨハネのバプテスマには悔い改めの働きが伴います。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」(マル1:3〜4)。いずれの福音書もイザヤ書の預言をそのまま引用しています。

イエスも地上での宣教活動中、道について教えました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」(マタ7:13〜14)
世の人々は、正しい道は無数にあると語り、「自分の道を進めば満足するよ」とささやきます。しかし、箴言16章25節とエレミヤ書6章16節を思い出し、用心してください。
私たちの主は完全に義なる方です。私たちは主の弟子として、主の模範に倣って生活するものです。ヨハネは福音書の中で二度イエスのことばを引用し、主の命令に従うなら私たちは主の弟子であると語りました(8:31、15:14)。エレミヤ書6章16節も明白に「幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩(む)」よう教えています。ただ信じるだけでなく、信仰に歩み、生活を通してそれを実践する必要があります。もし信仰が本物なら、義の実を結ぶでしょう。
道、真理、いのち
さて、1世紀におけるイエスの聴衆が「道」ということばをどう理解したのか、またそれが今日の私たちの信仰の歩みにとって何を意味するのかを探ってみましょう。
イエスはヨハネの福音書14章6節で、自らを「道」と呼び、こう教えられました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」
イエスの最初の弟子たちは、自らを「この道に従う者」と呼びました。後にパウロと呼ばれるサウロは使徒の働き9章2節で、「この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るため」に大祭司の書簡を求めました。使徒の働き22章4節でも、パウロは「この道」の弟子たちへの迫害を証言し、19章では2箇所(9、23節)で「この道」について言及しています。
また、24章でパウロはローマ総督フェリクスの前で弁明し、次のように証言しました。「ただ、私は閣下の前で、次のことは認めます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道にしたがって、私たちの先祖の神に仕えています。私は、律法にかなうことと、預言者たちの書に書かれていることを、すべて信じています」(14節)。パウロの最後の告白は重要です。
これに対しローマ総督は「この道についてかなり詳しく知っていたので、『千人隊長リシアが下って来たら、おまえたちの事件に判決を下すことにする』と言って、裁判を延期」(22節)しました。
これらの記録は、初代の信者たちが自らを「この道に従う者」と呼んでいたことを示します。これは、アンティオキアの人々が信者を「キリスト者」(使11:26)と呼び始めるずっと前のことです。
クリストスはギリシャ語でメシアを意味し、クリスティアノイ(キリスト者)はメシアの民という意味です。当時、アンティオキアは異邦人が大半を占めるローマの町でした。聖書学者で著述家のデビッド・H・スターン著『JewishNewTestament』(ユダヤ人のための新約聖書)は次のように解説します。
アンティオキアの異邦人未信者が、異邦人信者を「クリスティアノイ」と呼んだのは、このグループの創始者かつ指導者が「クリストス」(キリストもしくはメシア)と呼ばれているのを何度も耳にしたからです。もともとは蔑称として使われていたようですが、やがてユダヤ人信者も異邦人信者も「キリスト者」と名乗るようになりました。これは、使徒ペテロが「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい」(Ⅰペテ4:16)と諭している点からも明らかです。
文脈が示唆するように、初代信者たちが「この道」に従う者と名乗った時、おそらくイエスを指していたのでしょう。しかし、より広義では、自らをイスラエルの神に従う者、「主の道」に歩む者と見なしていたのではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、イエスが受肉したトーラーであり生けることば、すなわち「道」だと信じています。この教義は、もともとヨハネの福音書の初めの節に起因しています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハ1:1〜4)
新しい道ではない
「この道」は新しい宗教とは見なされず、当初はユダヤ教内部における改革運動の分派と考えられていました(使24:14参照)。初代信者たちは、完全にヘブル的(聖書的)な世界観を持つユダヤ人でした。ユダヤ人の聴衆は、イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14:6)と語った時、神のことばであるヘブライ語聖書(旧約聖書)を指していると理解したはずです。
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ヘブル的理解によると「道、真理、いのち」は、神の生けることば、すなわち聖書を指します。トーラー(モーセ五書)が「いのち」であるというのはユダヤ教の基本信仰です。神は聖書を人類に与え、神や他の人々との正しい関係の中で生きる道を教えてくださいました。みことばを理解し、従順に従って生きる時、私たちはいのちの道を歩みます。
今回のテーマに関心を持たれた方は、聖書で「道」ということばを検索してみてください。豊富な言及と多様な視点が見つかるでしょう。何より、どうしたらイエスのご品格と愛を反映し、より的確に主の道を歩めるのか神に祈り求めてみてください。
詩篇119篇1節にある神の約束にしがみつきましょう。「幸いなことよ 全き道を行く人々 主のみおしえに歩む人々」
















