文:ネイサン・ウィリアムズ(BFP広報部長)
私たちは、聖書の預言が次々と成就する時代に生かされています。
預言の中心にあるのがイスラエルです。
今、イスラエルに対してどう応答するかが問われています。
Photo by geralt/pixabay.comBFPボランティア向けの基礎研修の一環として、私は反ユダヤ主義の憎悪について教えています。その憎悪とは、人間の心に潜伏し、ある日突然激しい興奮を引き起こすウイルスのようなものだと説明します。
23年10月7日から続いたガザでの戦争以降、反ユダヤ主義がこれほど急速に欧米に広がったことに、私は衝撃を受けました。わずか数カ月の間に、ソーシャルメディアや大学構内、またアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパの街頭や議会で、そして悲しいことに一部の教会の中でさえユダヤ人に対する憎悪が噴出しています。
しかし、主はこれらの出来事に驚いてはおられません。聖書は、国々がイスラエルに対し怒りを発すると宣言しました。天の御座に座っておられる神は、それらを注視し、見定め、裁きの準備をしておられます。
今日私たちが目撃していることは、国々と教会に対する明確な警告です。ユダヤ人に対する憎しみの増大は、預言のスケジュールが私たちの目前で急速に進んでいるしるしなのです。問題は、主が契約を守られるかどうかではありません。私たちが、この危機的な時代に目を覚まし、時を見分け、主と一つになっているかどうかです。
イスラエルとの永遠の契約
初めに主は、アブラハム及びその子孫と永遠の契約を結ばれました。主は至上の権威に基づくご自身の誓いをもって、自らアブラハムとその子孫たちに対し、取り消し不能な義務を負われたのです。
Photo by Michaelisgreat1234/wikimedia.org「二つに切り裂いた物による契約」(創15章)において、全能の神である主はアブラハムと四つの事柄について契約を確立されました。第一に、アブラハムの身から生まれ出る子孫が星のように多くなり、イスラエルとして確立されること(創15:4〜5)。第二に、アブラハムの子孫が400年間異国に寄留して苦しめられながらも、最終的には多くの財産と共に救出されること(創15:13〜14)。第三に、神がその子孫たちに特定の相続地を与え、大イスラエルとも呼ばれる境界を定められたこと。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」(創15:18b)。第四に、この契約は劇的な儀式で保証されたこと。アブラハムが深い眠りに陥る中、煙の立つかまどと燃えるたいまつだけが、切り裂かれた物の間を通り過ぎるという儀式です(創15:17)。
聖書学者デレク・キドナー師は『Genesis:AnIntroductionandCommentary』(創世記・緒論と注解)の中で、次のように記しました。「神は、切り裂かれた物の間をただ一人で通り過ぎたことによって、事実上、契約の両当事者として署名し、自らに無条件の契約の義務を負わせた」
この契約の方法は、主の約束が人間の功績や従順に左右されず、神の不変のご性質に基づくものであることを強調しています。新約聖書もこの真理を裏付けました。「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い」(ヘブル6:13)
このように、アブラハム及びその子孫であるイスラエルとの契約は、完全、永遠、不変という、主ご自身の本性(ほんせい)を基盤としています。この契約は、今なお主とイスラエルとの結び付きを明確にし、ご自身の民と彼らの土地に対する主の変わらない真実さを証しするものです。旧約聖書学者ウォルター・カイザー師はこう記しました。「神は、みことばの確かさを保証するために、ご自身を担保として誓われた。これは何よりも厳粛な保証である」
現代イスラエル国家は聖書のイスラエルか?
主がアブラハムと結ばれた永遠の契約について、次のような反論をよく耳にします。「現代のイスラエル国家は、聖書のイスラエルと同一視はできない。したがって、アブラハムの子孫に関する約束や預言とは無関係である」
しかし、明らかに主の契約は、民と土地の両方に対するものです。今日、「イスラエル」とは正確には誰を指すのかについて、さまざまな意見があります。この問いへの答えは、人間の判断に委ねられるものではありません。
使徒パウロはローマ人への手紙11章1〜2節でこう諭しました。「それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。……神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません」。主ご自身がエレミヤ書31章35〜36節でこのことを強調しています。「主はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、……もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、──主のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない」(強調筆者)
太陽、月、星がまだ存在しているのであれば、主ご自身の約束により、イスラエルの子孫は今でも主の前に一つの民族として存在しているのです。捕囚、迫害、国土に対する脅威の中にあっても、永続する被造物が神の契約の永続性を証言しています。
歴史的に見てイスラエルは唯一無二の存在です。祖国を完全に失い、何百年にもわたる捕囚と離散を経験しながらも、父祖に約束された土地に超自然的に再び集められました。このような民はイスラエル以外に存在しません。
紀元前722年にアッシリアによって、紀元前586年にはバビロンによって始まった捕囚に続き、その後約2千間、ユダヤ人はペルシア人、ギリシア人、ローマ人、ビザンチン帝国、アラブ人、十字軍、オスマン帝国、大英帝国の支配下に置かれ、ほぼ自決権を持ちませんでした。それでも、自らのアイデンティティーと信仰、そして契約による希望を失わなかったのです。1948年のイスラエル国家の再建は、歴史的偶然ではなく、主の契約が目に見える形で実現したものです。
植民地主義ではなく、契約
「イスラエル国家は、植民地占領や民族浄化で領土を拡大しようとしている」。このような非難は、歴史とみことばの両方をゆがめます。
Photo by Jenna Solomon/bridgesforpeace.com
創世記15章18節の約束は、主ご自身が決定されたものです。神はこれを永遠の契約として宣言され、預言者たちもそれを再確認しました。アモスは、イスラエルが回復し二度と引き抜かれないと預言しました(アモ9:14〜15)。エゼキエルは、ユダヤ人が再び集められることを約束し、それはイスラエルへの報いではなく、神の聖なる御名のためと記しました(エゼ36・22〜24、37・21〜22)。
現代イスラエルは、今も継続する神の国の回復計画の一部であり、植民地計画とは無縁です。イスラエルの回復は神のあがないの計画を示す案内図であり、国々は神の契約の地と契約の民の取り扱いによって評価されることになります。
主は国々を裁かれる
預言者ヨエルは、国々への将来の裁きについて厳粛な警告をしました。「わたしはすべての国々を集め、彼らをヨシャファテの谷に連れ下り、わたしの民、わたしのゆずりイスラエルのために、そこで彼らをさばく。彼らはわたしの民を国々の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分配したのだ」(ヨエ3:2)
主はそこで二つのことを告発します。一つは神の民を散らしたこと、もう一つは主の地を分割したことです。ユダヤ教とキリスト教の学者は共に、主が国々に責任を問うと断言します。
23年10月7日以降、反ユダヤ主義は地球規模で高まっています。さらに憂慮すべきは、犠牲になっているのが一般のユダヤ人であることです。彼らは、ワシントン、ロンドン、パリ、シドニーの町中で公然と襲撃され、命を奪われています。聖書は、こうした行為が天に記録されることを示しています。現代風に偽装された反ユダヤ主義は、神の契約に対する反逆であり、神の預言的計画を拒絶するものです。それには裁きが伴うと、神ご自身が断言されました。
国々が反逆する中 イスラエルと共に立つ
Photo by Sergei25/shutterstock.comクリスチャンにとって、これは身が引き締まる緊急メッセージです。主は、拡大する敵意の中にあっても、ご自分の契約の民と共に立つ義なるレムナント(残りの民)を召し出しておられるのです。
イエスさまはこの原則について、マタイの福音書25章31〜46節の羊と山羊を分ける箇所で明言されました。トーマス・コンスタブル師の注解によると、国々の裁きは、イエスの「兄弟たち」、つまりユダヤ人を異邦人がどう扱ったかに基づきます。すなわち、「あなたは主の民と共に立ったか、それとも背を向けたか」が問われるのです。
たとえ犠牲や危険が伴おうとも、立ち上がり、声を上げ、主の契約の民と一つであろうとする教会を、主は熱心に探しておられます。
神は見ておられる
預言者たちの警告どおり、反ユダヤ主義は増大する一方です。しかし、主は変わることのないお方であり、イスラエルとの契約も揺らぐことはありません。捕囚、迫害、離散の期間を通じて、この契約はユダヤ人を守ってきました。
主は国々を見つめ、ご自身の教会を見つめておられます。イスラエルは神の時計です。私たちがどのようにイスラエルに応答するかによって、神の目的と一致しているかどうかが明らかになります。主の契約の民と共に立ちますか。それとも時代の精神に妥協しますか。メシアが再臨し、エルサレムが「真実の都」(ゼカ8:3)と呼ばれるようになる日まで、主の真実さを証しするユダヤ人を祝福し、ユダヤ人のために祈り、彼らと共に立つ者であり続けられますように。
















