文:シェリル・ハウアー(BFPライター)
世界を眺めると、
人間的には解決が難しいと思える難問が散見されます。
将来への希望を見失いそうになる中、
聖書には確かな希望があります。
人生は謎に満ちています。使徒パウロは、このような謎のうち三つをコリント人への手紙第一に記しました。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリ13:13)
そもそも「愛」とは何でしょうか。人類は何千年もの間、愛を定義しようと試みてきました。しかし、愛を経験した人でさえ、それが何かを正確に説明しようとすると頭を抱えてしまいます。では「信仰」や「希望」はどうでしょう。信仰に続いてもたらされるのが「希望」です。
希望は謎めいた概念の一つです。希望に関する名言で有名なものの一つは、17世紀の詩人アレクサンダー・ポープの言葉です。ポープは著書『人間論』の中で、「希望は人の胸に永遠にわき出る」という有名な一節を残しました。
このように、希望とは何か、どこから来るのかを探し当てるために、何世紀もの間偉大な頭脳が探究し、何千もの言葉を書きつづってきました。彼らが一致していた点は「希望は大切だ」ということです。有名なロシアの小説家ドストエフスキーは「希望無しに生きることは、生きるのをやめることだ」と書き記し、著名な伝道者ビリー・グラハムは「おそらく人々が心理的、霊的、医学的に最も必要としているのは希望だろう」と記しました。
希望無しには……
今日、心理学者たちもこの議論に加わり、希望を失うと精神疾患が引き起こされることを示唆しています。希望の反対は単に希望が無いということではなく、一部の人にとっては自殺につながるほどの深い落胆になります。
研究によると、希望の無い人は不幸な人生を送る可能性が高く、社会生活がうまく行かなかったり、成績が振るわなかったり、人生の困難に対処できなかったりする傾向が強いといいます。希望のもたらす明るい未来像を思い描けなければ、生活改善もあきらめてしまいがちです。希望の無い人は、引きこもりがちで、地域社会との交流も薄れ、貢献することもできなくなります。
残念なことに、今日の世界はいわゆる「絶望の危機」に直面しています。醜悪で不確かな世界に対し自分の非力を覚える人が増えるにつれて、うつ病や落胆に苦しむ人々も世界中で増えているのです。
しかし希望によって……
希望は、人間の心身の健康とウェルビーング(心身だけでなく社会的にも良好な状態)に不可欠な要素です。希望に満ちた人は、困難や難しい状況に取り囲まれても前向きでい続けることができます。目標達成率も高く、学業に秀で、あまり心配したり憂えたりしない傾向が強いです。自己評価が高く、自信喪失に陥ることも少ないとされています。興味深いことに、希望に満ちた人は希望を失った人よりも免疫力が高いという研究結果もあります。
希望か楽観主義か
オックスフォード辞典によれば、希望とは「何かが起こってほしい、そうなってほしいと感じたり願ったりすること」と定義されています。もしそれが真実なら、希望は楽観主義、つまり、物事は良くなるだろうと単純に思い込むことと何ら変わらないことになります。「新しい仕事が見つかるといいなあ」「何とかして新しい車を手に入れたいなあ」。こうした考えは希望ではなく、不確かな希望的観測です。
聖書における希望
イギリスの著名な正統派ラビで哲学者、神学者、著述家のジョナサン・サックス師は、こう言います。「希望に満ちた性格であろうとなかろうと、自分は人生のどの地点にいて、どこに行きたいかを知っている。にもかかわらず、そこに行く道が見えない瞬間を経験する」。サックス師によれば、それこそが絶望の前触れです。
そのような時こそ聖書が唯一の命綱になるとサックス師は信じました。同様の窮地に追い込まれた勇敢な神の人々を思い出せば、前進し続ける力を見いだします。
サックス師が例に出したのはモーセです。民数記11章11〜15節に登場するモーセは完全に神経衰弱の状態でした。イスラエルの民に失望し、神にこう叫んでいます。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか」。そしてついにモーセは怒りの一線を越え、絶望してしまうのです。「私一人で、この民全体を負うことはできません。……私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。……」
これはモーセに限ったことではありません。ユダヤ史上最も偉大な戦士にして王であり、詩篇の多くを著したダビデは、何度も絶望の瞬間を詩篇に赤裸々に記しました。「私は衰え果て 砕き尽くされ 心もだえて ほえ叫んでいます」(詩38:8)と叫び、なぜ神に見捨てられたのか(詩22:1)と尋ね、「私は嘆きで疲れ果て 夜ごとに 涙で寝床を漂わせ ふしどを大水で押し流します」(詩6:6)と絶望の中で語っています。
預言者エリヤは、ひどい落胆のために荒野に逃げ、エニシダの木の下に座り、神に「私のいのちを取ってください」と懇願しました(Ⅰ列王19:3〜4)。聖書の偉人サムエルの母ハンナは意気消沈のあまり祈りが言葉にならず、深酒をした人のように断腸の思いでうめきました(Ⅰサム1:12〜13)。ヨブは、たましいの敵のもたらした惨事に次ぐ惨事に絶望し、自分の生まれた日を呪い、生まれてこなければよかったと言いました(ヨブ3:1〜12)。他にも絶望に対処した人としてエレミヤ(20:7〜18)やヨナ(4:3)などがいます。ただし、彼らは希望を失うことなく、自分の人生に対する神の御心を成就するために立ち上がり、時代を超えて何十億人もの聖書読者に希望の力を示す実例となりました。
それができたのは、彼らが聖書的な意味での希望を理解していたからです。ヘブル的世界観では、希望とは確信に満ちた期待であり、希望の父である神への堅固な信仰の表現です。単なる楽観主義ではなく、「確実な」ものなのです。希望はよりどころとなる岩です。ですから聖書の勇者たちは、希望が見えない時にも希望を持ち、信じることが全く理にかなわない時にも信じました。
神はモーセの頭をなでて「わが子よ、心配するな。すべてうまく行く」とささやかれたのではありません。その代わりに、モーセの重荷を軽くし、前進して物事を改善する方法を教えられました。エリヤが嵐と地震のただ中で山の中腹に立っていた時、神は「楽観的になれ、エリヤ、明日は今日よりも良い日になるだろう」とは言われず、「エリヤよ、ここで何をしているのか」(Ⅰ列王19:13)と尋ねられました。そして神の召しを全うさせるためにエリヤを再び遣わされたのです。
ヨブは確かに報われました。さらに多くの子どもをもうけ、より多くの穀物を育て、もっと多くの家畜を飼うようになりました。ハンナは、神に信仰を持って求めた息子が与えられるまで信頼し、忍耐し続けました。これらの聖書の人物たちは、消極的な楽観主義と真の希望の違いを知っていたのです。真の希望には、粘り強い忍耐と、希望をかなえるために神が示されたことを何でも行うという勇気が求められます。
今日のユダヤ人は祖先の例に倣い、立ち直りが早く、前向きで勇敢です。しかし、楽観的ではいられないほどあまりにも多くの苦しみを通ってきたため、むしろ現実主義者です。それはユダヤ人独特のものです。ユダヤ人は、物事をあるがままに受け入れます(現実主義)。と同時に、神の助けによって物事を良くできるという絶対的な信念も持っています(希望)。
ユダヤ人が仕えている神は、彼らを導き、指導し、解放し、何千年も素晴らしい愛とあわれみを示してくださった神です。神は約束を与え、ユダヤ人を守り、常に先を示してこられました。神は常にそこにおられ、まどろむことも眠ることもありません。よろめく時には引き上げ、失敗した時には力付け、過ちを犯した時には赦すと約束されました。ラビ・サックスは、イスラエルの地を「希望の故郷」と呼び、希望を生み出した民族の祖国と呼びました。希望を意味する「ハティクバ」がイスラエルの国歌であることは、まさにふさわしいのです。
希望の源
聖書全体を通して希望と信頼という二つの言葉は同義語として使われています。信頼とは、信頼する対象の確実性、真理、能力に対する固い信念であり、揺るぎない確信につながります。つまり、これこそが聖書が語る希望の定義なのです。
ダビデが詩篇37篇で書いたのは「希望への讃歌」だと思います。ここでダビデは、神の信頼性、正しい人に対する神の誠実さ、正義に対する神の愛、神に信頼する人を待ち受ける素晴らしい未来について語り、どのように神を待ち望むべきかを教えました。また、「腹を立てたり、ねたみを起こしたりするな」と何度も語りました。「主を自分の喜びとし、自分の道を神に委ね、神に信頼し忍耐強く神を待ち望め。腹を立てるのをやめ、悪者の未来は断ち切られることを知って主の中に安らげ。苦難の時にはいつでも神が私たちの力となってくださり、神に信頼する者を助け解放してくださる」と言っています。
希望が生まれたのは天地創造にまでさかのぼると考える人もいます。神が天地創造について語られた時、「朝があり、夕があった」と語っても辻褄は合ったはずですが、実際にはまず夕があり次に朝があったと言われました。神は、夜明け前の光が差し込むその瞬間まで深い暗闇へと突き進んだ後、光が再び勝利して暗闇を打ち倒すと語られたのです。「私の神 主は 私の闇を照らされます」(詩18:28)の通りです。このみことばは、神に希望を置く力を日々思い起こさせてくれます。