文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)
現代は先行きに不安を感じる時代です。
そんな時こそ、神のことばに目を留めて生きていきたいものです。
共にみことばを学びながら、励ましを受けてまいりましょう。
地上の至る所で美しさを目にします。伝道者の書3章11節によれば、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。風のささやき、友の声、鳥のさえずり――これらもまた神の美しい創造です。詩篇の記者は「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩19:1)と、うたいました。夏の青空や幾万の星々がきらめく漆黒の夜空以上に美しいものがあるでしょうか。
私たちは、すべてを創造された神の威光と驚異に満ちた世界の中で暮らしています。時間と季節によって秩序が生じ、生ける神がご自身の宇宙を大切にされていることを日々思い起こさせてくれます。
では、なぜ現代は「不安の時代」と言われるのでしょうか。カナダのアルバータ大学が行った最近の研究によれば、ミレニアル世代(81年〜90年代半ばごろまでに生まれた世代)の50%が不安やうつに悩んでいます。Z世代(90年代半ば〜2010年代初頭に生まれた世代)に至ってはその数値は75%にまで跳ね上がります。世界的に見ても、イギリス、オーストラリア、ラテンアメリカから日本まで統計はほぼ変わりません。これらの国のほとんどで、国民の20〜30%が同じ問題を抱えています。
神か、自分か?
40歳を過ぎた私たちの世代では、親や祖父母が第二次世界大戦や大恐慌を経験しています。親たちは「自立」の方法を会得し、「最も困難な状況でも乗り越えられる強い人になれ」と言われて育ちました。ですから、自分の子どもにも自立した人間になることを求めました。他人に助けを求めたり頼ったりせず、自分で何とかするということです。子どもは18歳になると家を出て自活し、懸命に働いて成功を遂げることが期待されました。
そのため、自立心がないことは弱点と見なされました。誰かに依存するなら、他人から影響を受けたり支配されたりします。そんな子どもは恥ずべき存在と見なされたのです。
信仰を持つと、こうした考え方に頭を悩ませることも少なくありません。「自立」をたたき込まれているので、主にすべてを明け渡し、完全に頼ることが難しくなります。この内なる葛藤は、心配の悪循環にもってこいの状況をつくり出します。「自分にはできないことは分かっている。でも、しなくてはならない。神にはできると思う。神にお任せする必要があることも分かっている。しかし委ねきれない……」
聖書には、「心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(マタ6:27)と明記されています。「自分でできる」と主張し続けるのは、「神にはできない」と言うことと同じです。自分がするということは、神はなさらないという意味です。自分に責任があるなら、神には責任はありません。自分がどうすればいいか分かっているなら、神は分かっておられないことになります。
不信仰の結果、心配が生じます。同様に、心配の結果、思い煩いが生じます。思い煩いは、雪だるま式に膨れ上がって恐れなどに変わります。思い煩いは聖書にたびたび出てきます。ダビデ王は思い煩いを幾度となく告白しました。「私のうちで 思い煩いが増す」(詩94:19)。「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください」(詩139:23)。しかし、どのような場合でも告白の後には明け渡しが続きます。
なぜ思い煩うのか
思い煩いとうつ病は現代社会の病です。原因の一つとして、40歳以上では「主に明け渡すことができない」「心から主に信頼し、頼ることができない」ことなどが挙げられます。
一方、今日のティーンや若者の原因は全く逆のようです。専門家は、現代の親は多くの場合、子どもが自立した生活を送るための土台を据えていないと考えています。両者の原因は正反対でも、問題は同じです。
マタイの福音書13章1〜23節で、イエスは四つの種のたとえ話をされました。これは神の国における4種類の人々のことです。3番目の登場人物は、「この世の思い煩い」が原因で実を結ばなかった種として表現されています。この世の思い煩いで心が占められていたため、神のことばが心と生活に堅く植えられなかったのです。このような人は、周りの世界に目を向けては心配ばかりし、ますます思い煩うようになります。心が思い煩いでいっぱいになればなるほど、命を与える主のことばを受け入れる余地は無くなっていきます。これは軽視できる問題ではありません。
この人物が、ペテロの手紙第一5章7節を肝に銘じていたなら、どれほど幸せだったことでしょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。この他にも、心配したり思い煩ったりしないよう勧告するみことばは400近くあります。
中でも最も素晴らしいみことばはマタイの福音書6章25〜34節です。「……何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。……」
イエスがこのことばを語られた当時、イスラエルはローマの支配下にあり、生活は困難を極めました。信教の自由は制限され、十字架刑が頻繁に執行されていた時代です。心配事は尽きません。しかし、イエスは弟子たちに、すべての心配事を神に委ねるよう励ましておられます。
イエスは命から話し始めました。なぜ、自分の命のことで思い煩うのでしょうか。命は食べ物や着る物以上のものです! あなたの命は美しく、奇跡です。ただし、実際には、命はあなたのものではありません。他のすべてのものと同様、贈り物です。あなたが創造したものでもなければ、維持することもできないものです。恐れや心配に費やすためではなく、喜んで神に委ね、感謝し、神と楽しみつつ歩むために、神から与えられました。
次に、イエスは私たちの価値について語られました。今日、地上には推定11万種以上の鳥がいます。神はその一羽一羽を創造され、丹念に世話をしておられます。その神が、どれほどあなたを大切に思っておられることでしょう。あなたは、単なる生き物ではなく、神の御姿を帯びた存在です。
神の似姿は命の無い石とは異なります。喜び、愛し、笑い、親切にし、情熱を持ち、信頼でき、生きて息をするものです。あなたは、神の愛を切実に必要としている世界に神の似姿を伝えるために選ばれた、神のイメージなのです。神にとってあなたの命以上に大切なものはありません。そのことを信じ、詩篇55篇22節に耳を傾けましょう。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない」
思い煩う時
思い煩ってはならない理由は多々あります。専門家によると、思い煩うと多くのエネルギーを費やします。カロリーも消費しますが、かと言って減量に適した方法とは言えません! 重い健康被害をもたらす可能性があるからです。心臓病、がん、潰瘍(かいよう)、ストレス障害、精神疾患などを引き起こす一つの要因となる場合がある、と医師たちは考えています。
しかし、もっと重要なことがあります。思い煩いは、誠実で変わることのない神の御業を無視することになるのです。神は、絶え間なく私たちを養い、御業を行い続けてくださっています。マタイの福音書6章で花に言及されたように、神は花々を養っておられます。イスラエルは春になると大小さまざまな美しい花々で覆われ、色付きます。太陽が毎日昇るように、花々は毎年咲き誇ります。すべての花、すべての花びらが「心配しないで! 私たちを養ってくださる神は、間違いなくあなたも養ってくださいます」と叫んでいるようです。
思い煩いの解消法
私たちは、紛れもなく美しい世界に生きています。しかし、思い煩うことを自ら選ぶなら、その理由はいくらでも見つかるものです。思い煩いではなく信頼を選びましょう。当然ながら、無神論者も含め誰もが何かに頼りながら生きています。呼吸ができること、スイッチを押せば電気がつくこと、車のキーを回せばエンジンが掛かること、片足を前に出せば前進すること……。
したがって、問題は信頼するかどうかではなく、誰に信頼するかです。周りの世界に目を向け、世の心配事に引きずられ、心配と思い煩いにさいなまれていませんか。それとも、周りの世界に神の誠実さを見ていますか。
自分の力でできないことを、あれこれ心配するのはやめませんか。思い煩いの解消法は、全世界の神と神の主権に信頼することです。1羽のすずめや1枚の花びらが地に落ちることさえ神は知っておられます。ニュースにあふれる戦争や戦争のうわさも、国々を襲う経済不安も、神を驚かせることはありません。神はあなたのすべての必要と願いを知っておられます。神はあなたに目を留め、あなたに耳を傾けておられます。神に明け渡し、神に頼ることは弱さの現れではありません。それこそが真の強さなのです。