文:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)
今月は、神に用いられた人々の中でも、
特に女性預言者にスポットを当てて学んでまいりましょう。
聖書とキリスト教史において、神は指導者、牧師、使徒、預言者を起こしてこられました。彼らは、特定の時代と場所のために神から召され、油注がれた人々です。神が私の人生に置いてくださった、多くの敬虔(けいけん)な霊的リーダーたちに感謝します。そのほとんどは男性でしたが、女性が奉仕のために神から召され、指導者になることもあります。
聖書における顕著な例はデボラです。デボラは士師であり預言者でした。聖書に登場する11人の女性預言者のうちの一人です。今月は、デボラを始めとする女性預言者についてみことばから学んでいきましょう。
時代背景
ヨシュアの死後、イスラエルに変化が起こりました。士師記2章10〜11節には次のようにあります。「その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた」
主は怒りに燃え、イスラエルを敵の手に渡されました。しかし、父祖のゆえにご自分の民を忘れることはありませんでした。「そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。……主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである」(士2:16、18。強調筆者)
ここで注目したいのは、民の苦しみをあわれんだ神が、イスラエルを災いから解放するために士師を起こされた、と聖書が語っている点です。しかも、神は「さばきつかさとともに」おられました。
デボラの物語は士師記4章4節〜5章31節に出てきます。カナン人の将軍シセラの軍隊がキション川に押し流され、敗北した様子が描かれている箇所で、デボラの感謝の歌で締めくくられます。
預言者デボラは、困難な時代にイスラエルの指導者となり、さらにさばきつかさとなりました。デボラは、アビノアムの子バラクを呼び寄せ、神の命令を伝えています。「……タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す」(士4:6〜7)
バラクの要請に応じ、同行したデボラは、彼と共に陣頭指揮を執りました。一方のシセラは、軍を集めてキション川へ進軍しましたが、バラクの地上軍と天の軍勢に完全に討ち滅ぼされ、キション川に押し流されました。
敗北したシセラ将軍は徒歩で逃げ、ケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕にたどり着きます。ヤエルはシセラを招き入れ、かくまいつつ、シセラが寝入ると天幕の杭をそのこめかみに打ち込んで殺しました。
興味深いことに、このイスラエル解放の物語では、一人だけでなく二人の女性がバラク将軍と共に活躍しています。
デボラの物語は、トーラー・ポーション(安息日ごとに定められているモーセ五書の朗読箇所)の「出エジプト記13〜17章」を朗読した後に読まれる箇所です。ユダヤ社会では毎週トーラー(モーセ五書)を数章朗読し、その後でトーラー以外の旧約聖書(ハフタラー)を朗読します。
出エジプト記13〜17章に描かれているのは、エジプト軍が紅海に沈む様子とそれに続くモーセとミリアムの歌です。この箇所とデボラの物語には、興味深い共通点があります。それは、戦争、神の備え、水による奇跡的解放、女性預言者、賛美と勝利の歌です。
デボラについての興味深い考察
デボラは神によって立てられました。聖書には「イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た」(士4:5)とあり、デボラが尊敬されていたことが分かります。それは、軍人たちがデボラの助言を求め、その指揮に従い、デボラ無しでは戦いに行きたがらなかったことからも明白です。
聖書では、デボラが「ラピドテの妻」と説明されています。ヘブライ語では「エシェット ラピドット」。多くのユダヤ文書によると、これは「炎の女」という意味です。「ラピド」はヘブライ語でたいまつを意味し、「ラピドット」はその複数形です。「エシェット」という単語は「〜の女性(womanof)」という意味です。箴言31章に出てくる「しっかりした妻(awomanofvirtue)」の箇所でも使われています。
したがって、デボラは「ラピドット(ラピドテ)という名の男性の妻」と解釈することもできますし、「炎(あるいは、たいまつ)の女性」と解釈することもできます。ここから、デボラは幕屋に置かれたメノラー(七枝の燭台)の燈芯を管理する者だったとする学説もあります。そうであれば、名誉ある地位だったことでしょう。
デボラはヘブライ語で「蜂」という意味です。デボラは強力な指導者で、敵を刺す針があるのです! 一方、蜂は蜜をつくります。これは、敵との戦いの後、イスラエルの民に訪れた素晴らしい解放の象徴とも言えるでしょう。聖書によると、この戦いの後、「国は四十年の間、穏やかであった」と記されています。
聖書の女性預言者たち
聖書で預言者と呼ばれている女性は11人だけです。そのうち神の預言者は、ミリアム(出15:20)、デボラ(士4:4)、フルダ(Ⅱ列王22:14、Ⅱ歴代34:22)、イザヤの妻(イザ8:3)、アンナ(ルカ2:36〜38)、ピリポの4人の娘たち(使21:8〜9)の9人で、ノアデヤ(ネヘ6:14)、イゼベル(黙2:20)の2人は偽預言者でした。その半数以上(6人)は新約聖書に登場します。
また、4人は処女の娘で、3人(デボラ、フルダ、イザヤの妻)は既婚者、1人は寡婦(アンナ)でした。他の女性たちは結婚していたかどうかは不明です。このうち3人の女性たちを簡単に見てみましょう。
フルダ
フルダは、「律法の書」(Ⅱ列王22:8)が発見された後、ヨシヤ王に助言をするという重要な役割を果たした人物です。王に助言を求められた大祭司ヒルキヤは、フルダを探し出し、助けを求めました。フルダは、聖書知識と神との霊的関係において素晴らしい評価を受けていたに違いありません。聖書での言及は短いですが、すべての人の模範とも言える敬虔(けいけん)な女性であったことを示しています。
イザヤの妻
イザヤの妻は「女預言者」(イザ8:3)と呼ばれているだけで、名前は分かりません。ここから大切なことが学べます。いかなる形で主に仕えるにせよ、それを出世や名声を得る機会と考えてはならないということです。自分のブランドをつくり、名を馳せるという現代の考え方とは逆行しますが、この無名の女性を神は高く評価して用いられました。
アンナ
預言者アンナはルカの福音書2章36〜38節にだけ登場します。ここでの出来事は、マリアとヨセフがイエスを主に捧げるため神殿に到着した後、起こりました。
アンナは本物の預言者でした。その人生から分かることは、喜んで主に仕えるなら、神は年を重ねた女性も用いられるということです。
神は誰を用いられるのか?
神にとって年齢は関係ありません。男性も女性も用いられます。時に、神の選びと思いもよらない方法に衝撃を受けることもあります。敵を打ち負かすために城壁の周りを7周回らせ、角笛を吹かせるという方法を神は用いられました。神は、私たちの枠に全く収まらない方なのです。
使徒ペテロは、ペンテコステ(シャブオット)の説教でこう語りました。「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」(使2:17〜18)
神は、男性と同様に女性の中からも預言者を選ばれます。私自身、「BFPのリーダーになってほしい」と依頼された時、女性として悩みました。神が私を召しておられると確信した後でさえ、「女性には従わないかもしれません」と、神を説得しようとしました。しかし、神が召される時には備えもあることを知りました。女性として神の働きを行うことは難しい場面もあります。しかし、神が共におられることは常に分かっていました。無数の忠実な妻たちが神に仕える夫を支えたように、私の人生においても支えてくれる夫に恵まれました。
神に喜んで耳を傾け、忠実に従うなら、神は誰であっても用いてくださいます。年齢、性別、独身・既婚は関係ありません。神の召しに応えましょう。神はご自分の目的を達成するために、思いがけない人々(時にはロバさえ)をも用いられます。
いつでも賛美する
ミリアムもデボラも勝利の賛美を歌い、神の偉大な御業をほめたたえました。モーセはパロに勝利し紅海を渡った時、民を率いて賛美と勝利の歌を歌いました。その後でミリアムは、女性たちを導き、タンバリンを叩きながら勝利の舞を踊り、こう告げています。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」(出15:21)
ミリアムやデボラの時代と同様に、今日も多くの困難があります。とてつもない力が信仰と安定を揺るがすこともしばしばです。戦争が起こり、困難だらけかもしれません。しかし、当時と同様、神の民が神に叫ぶ時、神はリーダーを起こされます。神は、祈りと正しい行いによって自分の人生を神に完全に捧げる人を探しておられます。神に召される時は、備えもあります。神はあなたと共にいてくださるのです。何よりも神が探しておられるのは、神に栄光と賛美を捧げる人です。