ティーチングレター

自由

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

自由とは何でしょう。
一般的に考えられている自由と、聖書が語る自由には大きな違いがあります。
エジプトで奴隷であったイスラエルの民が解放されていく姿から、聖書の語る自由について考えてみましょう。

Photo by Aditya Saxena/unsplash.com

今年も半年以上が過ぎ、新型コロナウイルス感染症が人類に与えた変化を思い巡らさずにはいられません。隔離、マスクや手袋の着用、頻繁な手洗い、2m以上のソーシャルディスタンス…。握手やハグをして親しく触れ合う日々は過ぎ去り、車での長旅、映画館や公園での午後のひと時、飛行機での遠出もなくなりました。

多くの人々が仕事や愛する人を失い、生活は混乱状態に陥りました。簡単に得られる満足感は失われ、家に閉じこもって感染率の上昇を見ながら、なすすべもなく待つしかない新生活に席を譲りました。

そんな中私は、長い間当然だと思っていた自由を求めて主に叫んでいました。目に見えない敵の抑圧から解放されて再び自由に行き来し、愛する教会で大勢の人々と共に礼拝を捧げ、人生を祝うために家族や友人を家に招きたいと切に願ったのです。

この時思い出したのは、出エジプト記13〜17章です。目に見える現実の敵に虐げられ奴隷生活を送っていたヘブル人が、奇跡的に解放された驚異的な物語。ヘブル人がエジプトで受けた400年にわたる肉体的・精神的虐待は、新型コロナの世界的大流行という短期的な経験とは比べ物になりません。一方、この物語に散りばめられている教訓は、何千年も前のユダヤ人に有効だったように今日の私たちにも役立つものです。

奇跡的解放!

400年は非常に長い年月です。事実、人間の寿命をはるかに超え、先祖が経験した全地の神の実在を忘れるのに十分な年月でした。世代が過ぎゆく中で、アブラハム、イサク、ヤコブの物語はますます遠い夢のように感じられたことでしょう。自分で何とかして「事態を改善できる」という考えは徐々に消滅し、神に頼る以外にこの窮地から救われる道はないという現実に変わっていきました。民は幾度となく神に叫び、ついに神は聞かれたのです。

神が定めた時に神は解放の御業を行われました。何と素晴らしい御業でしょう! ついにエジプトから脱出しただけでなく、エジプトの富を携えていくことができたのです。民は、次々と起こる災いによってエジプトの神々が打ち負かされるのを見ました。未来を握る最高神だと信じられていたエジプトの王パロとモーセが、論争を繰り返すのを聞きました。さらに、エジプトに下された死の霊によって、家族と家畜の初子を殺されたエジプト人の叫びを聞きました。このぼろぼろでバラバラな奴隷集団が、地上最大の権力を持つ国から、財宝を持って立ち去るなど誰が想像できたでしょうか。神が人間の歴史に介入し、自然の力を制圧して海を分け、岩から水を出し、数え切れない奇跡を行い、400年もの間神の御声を聞かなかった民を解放することを誰が予想できたでしょうか。

なぜこんなことが?

クリスチャンはよく、「神がエジプトでなされた御業をイスラエル人が早々と忘れ、不平や愚痴を言い始めたのは信じ難い」と言います。聖書には、水がわずか3日間無かっただけで不平や恐れや怒りが起こったと書かれています。その数日後には、食べ物のことで不平を言いました。なぜ、こんなことができるのでしょうか。思い浮かぶのは、神の臨在と愛を知り神の御国の奇跡を体験しながら、新型コロナウイルスに圧倒され、恐れ、心配し、落ち込む私たちの姿ではないでしょうか。忘れやすいのはイスラエル人だけではないようです。

民を解放するという神の使命を持って現れたモーセは、どれほどの力量を持った人物か不明でした。モーセは兄弟姉妹と同じ共同体で育ったわけではなく、奴隷だったこともありません。どう見てもパロの宮廷で育ったエジプト人でした。民を解放するためにモーセが最初に取った行動はパロの怒りを買い、何の助けにもならず、かえってわら無しでレンガをつくらざるを得なくなりました。

民は神に解放を求めて叫びました。民が、宗教制度や神との関係を持っていたことを示す歴史的記録はありません。しかし、奇跡を行う偉大な力によって民を救うことができる神の存在を信じていたことは明らかです。まだトーラー(モーセ五書)や今日ユダヤ教と呼ばれる宗教もなかった時代、民の信仰は、歴史のかなたに見える物語と400年間の迫害によって形づくられたのです。

聖書を見ると、モーセがいつも信頼されていたわけではないことが分かります。エジプトでの最初の9つの災いはほぼ効果がなく、民は依然として奴隷のままでした。ついに解放されたのは恐ろしい死の夜が終わった直後のことです。

心に深い傷を負い、とてつもない恐れと不安に包まれていたであろうイスラエルの民。奴隷生活を憎んでいたとはいえ、それ以外の生活を知りません。どこに行くのか全く分からないまま住居を追われました。分かっていたのは荒野に潜む危険と十分な食料も水も持たずに旅を決行した愚かさだけでした。

振り返ってみると、誠実で愛に満ちた全能の神が民と共におられ、民を一歩一歩解放へと導いておられたことがよく分かります。しかし、神は民にそのことを教えなくてはなりませんでした。長い奴隷生活の結果、民の行動、自己認識、人生についての知識は奴隷そのものだったからです。自分で決断せず、ただ命令に従い、すべてにおいて主人に依存していました。

民は解放を求めて叫びましたが、実際に解放された時本当にそれを望んでいたのかが分からなくなりました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか」(出17:3)と民はモーセに詰め寄りました。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう」(民14:4)。結局のところ、奴隷生活は別の意味で解放された生活だったのです。自分や他人に対する責任を解かれ、目標を決めてそれを目指したり、未来について考えたりすることから解放されていました。それこそが唯一、民が知り経験してきた安全な生活でした。

何と私たちと似ていることでしょう。私たちは皆、内側に「立ち入り禁止」という小さな札を付けた場所を持っています。自分を縛り、奴隷にしているものから自由になり、解放される必要があっても、その場所から主を閉め出しているのです。解放の旅は大変で痛みを伴うように見えます。安全な場所にとどまるほうが楽だと思えるでしょう。

神のご計画は、奴隷だったイスラエルの民が他人への従属をやめて、神に頼る道を選ぶようにすることでした。こうして民は、もはや従属や抑圧、虐待から逃れられない惨めな奴隷ではなくなります。全地の神を信頼し、自らの国を持つ自由な民となり、神が共におられるなら解決の道があると知る、そのような平和と繁栄と祝福の民となるのです。古い性質を脱ぎ捨てた民は、神の子、王の子となります。神を信頼し、神の力によって歩むことを学び、戦士にして開拓者として生き、全人類のあがないという神のご計画を中心に据える国家の建設者となるのです。民は真に神の民となり、今後何千年にもわたって全世界に神を示すために選ばれました。それがイスラエルの民の本当の姿です。しかし、民はまず自由を理解しなくてはなりませんでした。

自由とは…

自由は次のように定義されています。義務や強制によらず行動し、語り、考える力、または自治、選択の自由、義務の免除です。しかし現代では自由の意味は狭まり、社会的責任を排除し、自己決定という個人の意思表示が強調されています。自由はあっという間に自己満足に姿を変え、自分の権利のために他人の権利を踏みにじることを意味するようになりました。いつの間にか自由とは、周りの人の人生にほとんど注意を払わず自分の人生を決定する権利を意味するようになっています。

目的の無い自由は隷属につながります
Photo by Nour Wageh/unsplash.com

ラビ・ヤコブ・シンクレアは著書『自由の本当の意味』の中で、自由の原型はエジプトからの脱出だと語っています。エジプトが神の民にとっての抑圧を表していたように、神の民の脱出は究極の自由を表しています。しかし、自由を責任と切り離すことはできません。ラビ・シンクレアは、トーラー(モーセ五書)に書かれてある自由はいつも明確な最終目的につながっていると指摘します。目的の無い自由はそれ自体が隷属であるというのです。

ヘブライ語では、この考え方を「ホへッシュ」「ヘルート」と言います。この2つの言葉の意味は「自分のしたいことをする自由」と「するべきことをする自由」です。

ホへッシュは、奴隷が主人を失い、誰も命じる人がいなくなった時に得られる自由です。束縛から解放された奴隷は自由になり、何の責任もありません。

ヘルートは、イスラエルの民がシナイ山で契約という形で得た自由です。「わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ」(出9:1)という、パロに対する神のメッセージは明らかにヘルートでした。エジプトでの奴隷生活からの解放とは、全地の神と自由に契約を結べるようになることを意味しています。自由(ヘルート)になったイスラエルの民は、神と神の戒めに自由に結び付くことができるようになりました。民はそこで、ラビ・シンクレアの語る「目的のある自由」を見つけたのです。

今日多くの人がホへッシュを追い求め、ヘルートの考え方は廃れています。これは偶然ではないでしょう。世界は自分のしたいことを自由に行う場となっています。自由を求める叫びは至るところで上がっていますが、多くの場合、本当の自由を求めるところから生まれてはいません。むしろ、自分にだけ焦点を当て、社会的責任から解放されたいという自己中心から生まれています。

しかし、クリスチャンには主のしもべとなること(ロマ1:1)を選ぶ自由があります。そうすることで私たちは真の自由への導き手となり、神の御国を強固にし、神とその戒めにはばかることなく結び付き、喜んで熱心に従うことによって神に栄光をお返しできるのです。真の自由に歩む者以上に、神の誠実さと愛を示す例はありません。新型コロナが世界と神の御国に与えた衝撃にかかわらず、私の祈りは、私たちが真の自由を理解し、人々と主を愛することを特徴とする、真の王の子となることです。

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