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不本意ながら従った預言者ヨナ -後編-

文:アビゲイル・ギルバート(BFPスタッフライター)

聖書によれば、一人の罪人が悔い改める時、天には喜びがあります。ヨナ書に記された、罪人に対する神のあわれみは、今日の私たちにも注がれるものです。人知をはるかに超えた神のあわれみを学びながら、その御思いを心に刻んでまいりましょう。

cocoparisienne/pixabay.com

魚の腹の中で三日三晩を過ごしたヨナは神に祈ります。その祈りは礼拝と苦しみの賛美でした。ヨナは、神がその叫びを聞かれ、自分を深淵の中に置かれたままにはしておかれないことを感謝しました。「…しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。(ヨナ2:6-7)

ここでヨナは神のあわれみを認めて悔い改め、「あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。(ヨナ2:9)」と感謝の声を上げています。

これはニネベの悔い改めの前兆となるものです。ヨナは主の命令を逃れた時から、自分の選択の間違いに気付いていました。ヨナはその間違いを認めると同時に悔い改めています。ヨナが本当の意味で、ニネベの人々に対する神の御思いを理解していたとは言えません。けれども、自分の道を突き進んでも行き着く先は滅びの穴か、大きな魚の臭い胃袋の中だけだと気付き、自発的に従うことにしたのです。この時主は、魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。ここでまた「立って」という言葉が出てきます。これは、これまでの「下っていく道」からヨナを呼び戻す言葉です。そして、ついにヨナは神の示す道を選んだのです。

ニネベ

ニネベの伝承には、海から出てきた神に似た使者の話があります。これはペリシテ人が礼拝していたアッシリアの偶像で、半魚人ダゴンと関連しています。ジェフリー・ブルは著書『町としるし』の中で、ヨナが「大きな魚の腹」から出てきたのを見たニネベの異教徒たちは驚愕しただろうと述べています。

ヨナはニネベに迫る滅びを告げました Dore Bible Illustrations

ヨナは大都市ニネベに入り、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる(ヨナ3:4)」という、滅びのメッセージだけを語りました。そこに救いの希望はありません。しかし天罰と死の恐れを感じたニネベの人たちは、悪の道を捨てて悔い改めました。

ヨナ書は、ユダヤ人がヨム・キプールを順守する期間にその全体が読まれます。従って、この書の悔い改めのテーマには特に注意が必要です。ニネベの王は人々に三つの主要な行動、「やめる」「叫ぶ」「向きを変える」ことを通して、ティシュバー(悔い改め)を行うよう呼び掛けました。王はまず王座から立ち上がり、王服を脱ぎ、「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。(ヨナ3:7)」と命じました。そして、「ひたすら神にお願いし(た)(8節)」後、「おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返(る)(8節)」よう命じたのです。これは自分の間違いに気付いて悔い改める時の良い模範です。王は民に、悪い行いだけでなく、食べたり飲んだり家畜の面倒を見たりするという日常的な行為もやめさせました。この断食のおかげで、罪で目が見えなくなっていた人々は現実の危機を見ずにはいられなくなったのです。ここでの神への叫びは力強いものでした。神が町を滅ぼすのをやめてくださるという信仰と信頼があったからです。

ティシュバーで最も力強い一歩は「向きを変える」ことです。「何かから」向きを変えるだけでなく、「何かに」向きを変えるのです。単に罪をやめるだけでは十分ではありません。神の持っておられる何かが、罪に取って代わらなければならないのです。

ヨム・キプールは、ユダヤ人が神の御心と神から与えられた使命に向かって進む時です。また、間違った行動を悔い改め、愛をもって神に立ち返るために聖別された時です。神のご計画から逃避することは神との決別を積極的に選ぶことになります。一方、ヨム・キプールは神の臨在の中に再び帰ってくる素晴らしい時でもあるのです。

「あなたは当然のことのように怒るのか」

ヨナの物語は、ヨナがついに神に従い、ニネベが悔い改めた3章で終わってもいいように見えます。最後の章は、円満に終わった物語に付け加えられた不快な汚点のようです。しかし、もしかするとこの章はこの物語の最も大切な部分かもしれません。大きな魚の腹の中にいるという衝撃的な経験の後、ヨナが神の計画に従ったことは明らかですが、それは責任感と義務感からでした。ヨナはいまだにニネベは神の赦しに値しないという基本姿勢を崩していなかったのです。

ニネベが悔い改めた後、ヨナは主のいつくしみに抗議します。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。(ヨナ4:2)

とうごま Photo by Wikimedia

ヨナはこの時点でタルシシュ、よみ、ニネベへと旅をしてきましたが、この最後の章では神の心の中という最も大切な場所に旅をしています。ツィポラ・ヘラーが『ヨナと鯨』の中で語っているように、「ヨナは預言者だったので神を意識するのはいつものことだったが、神のあわれみの深さを知るのはこれまでにないことだった」のです。

感情を爆発させたヨナに主は「あなたは当然のことのように怒るのか。(ヨナ4:4)」と、一つの質問を返されました。ヨナはこれに答えず、神が最終的にはニネベを罰してくださることを期待しながら、町の外で座って見守っていました。しかし、主がこの質問をするのはこれが最後ではありませんでした。主は、とうごまをヨナの上に茂らせて日陰をつくり、次の日には虫を送ってとうごまを枯らしてしまわれました。この時ヨナが怒って「死んだほうがましだ」と言うと、再び神は「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。(ヨナ4:9)」と尋ねられたのです。今度は、ヨナは確信を持って「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と答えました。

ヨナ書の最後の言葉はヨナに対する主の答えです。これに対するヨナの答えはありません。ヨナがとうごまと虫から学んだかどうか、ヨナの心が柔らかになったかどうかは定かではありません。けれども、それよりも大切な神の心は書かれています。

主は仰せられた。『あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』(ヨナ4:10-11)

多くの学者は、右も左もわきまえない12万人の人々とは子どもを指していると考えています。もしそうなら、主のあわれみの行為によってさらに何十万人もの人々が救われたことでしょう。神は、ヨナが自分の手で植えていないとうごまに抱くあわれみと、ニネベに対する神ご自身のあわれみとを対比しています。ここに暗示されているのは、大都市ニネベとそこにいる人々が、全地の神である主ご自身がつくられた大切な存在であるということです。ニネベは神の御手の業でした。たとえ悪に陥っていたとしても、神はニネベの回復を願っていたのです。

神の愛は何と大きく、想像を絶することでしょう。この神の愛と忍耐がヨナを従順に導き、この愛が私たちを悔い改めに導くのです。詩篇の記者はこの愛について書いていますが、それはヨナのたどった旅路と結び付いています。

主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。(詩36:5-7)

今日、このヨナ書は私たち一人ひとりの人生に神が持っておられる計画に応答しない選択の空しさについて注意を促しています。と同時に、私たちが誤った選択をした時に、適切な悔い改めのステップを踏むためのマニュアルでもあります。しかし何にも増してヨナ書は、深くて忍耐強い神のあわれみを示しています。

神はヨナに対し、神のようなあわれみをもってすべての人を見るように優しく教えています。同じあわれみが今日も私たちに救いの手を差し伸べ続け、私たちに教え続けています。

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