TEXT:テリー・メイソン(BFP国際開発副部長)
私たちが「見る」という行為をする時、知らず知らずのうちに自分の持っている世界観や経験、知識というフィルターを通して見てしまうことがあります。信仰と真理の分野においても、このことが影響する例が数多く起こっています。
私は最近読んだ本に大きな衝撃を受けました。そこには自分の「知っているものを見る」ことと、「自分の見ているものを本当に知る」ことの違いについて書かれていました。これを読み、過去の限られた知識や経験に基づいて判断することがいかに多かったかに気付いたのです。
アブラハム・ヘッシェルは、20世紀をリードしたユダヤ人神学者、哲学者の一人です。彼は不朽の名著『預言書』の中で、次のように言っています。「私たちの見る能力は、習性や考え方によって損なわれてしまう。そして、見ているものの知らないことに目を留める代わりに、見ているものについて知っていることでいっぱいになってしまう。心に留めるべき原則は、自分の知っていることを見るのではなく、自分の見ているものを知ることである。」
視覚的な例
神について知っていると思うことによって、神を本当に知ることができなくなることがよくあります。神を自分の神観にはめ込んで、神を制限してしまうからです。自分がすでに「知っている」ことを見てしまう…。このことがいつも私たちに影響を与えているのです。
分かりやすい例を見てみましょう。左の図1を見た時最初に目に入ってきたものはなんですか。目が二つと鼻とあごのある女性の顔が見えると言う人はたくさんいます。しかし、もっと念入りに見ていくと絵の左側の黒い部分にサクソフォンを吹いている男性の姿も見えてきます。一度見えてしまうと、もう一度絵を見た時、男性の姿を見過ごすことができなくなります。
では図2の絵はどうでしょうか。ほとんどの人には白い花瓶か燭台が見えます。しかしこれはまた向かい合う二人の人の横顔にも見えます。どうでしょう、見えましたか?
最後の例を念入りに見てみましょう。図3の中にはいくつの三角形がありますか?二つと言う人がたくさんいますが、答えは「一つも無い」です。実際にそこにあるのは三つのV字型と三つの円状の形だけなのです。人間の心には欠けているものを埋め合わせる傾向があるので、この図を見慣れた形の「三角形」に見てしまうのです。
歴史上の例
新約聖書のマタイ16章には、自分はすでに知っているというフィルターを通して物事を見た弟子たちの例があります。群衆の中で多くの働きをした後、イエスは弟子たちを静かなピリポ・カイザリヤに連れて行かれました。そこはヘルモン山の麓の南側の緑豊かな場所で、冷たい地下水の湧く大きな泉がありました。イエスは弟子たちに休息が必要であることを知っておられました。しかし同時にイエスは群衆に妨げられずに弟子たちを教えたいと思っておられたのです。
イエスが弟子たちと過ごすようになってからしばらくの期間が経っていました。イエスは数人の弟子たちの間に広がる混乱と不満の高まりに気づいておられたのかもしれません。この静かな場所でイエスは弟子たちに、ご自分についての大切な二つの質問をされました。「『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」(マタイ16:13-15)シモン・ペテロはそれに対して立派な信仰告白をしました。イエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です(マタイ16:17)」と応えられました。
弟子たちはイエスと行動を共にし始めてからしばらく経っていましたが、このことを自分の力で理解することができなかったのです。弟子たちはイエスが多くの奇跡を行うのを目にし、イエスの権威ある教えを聞いてきました。しかし彼らは自分たちがメシアについて「知っている」と思っていたことによって混乱してしまったのです。弟子たちはメシアがどんな人で、何をするか彼らなりのメシア観を持っていました。しかし、「しもべがどうあるべきか」についての教えや「あとの者が先になり、先の者が後になる」という教えは弟子たちの持っていたメシア観とかけ離れたものでした。
ていたメシア像とかけ離れたものだった
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メシア待望はユダヤ人の思考に欠かすことができないもので、いつの時代にも存在していました。迫害や抑圧を受けた時代にはメシアへの待望が高まり、その期待はより政治的なものとなりました。イエスの時代、多くの人々がローマを屈服させ、ユダヤ人の統治を再び打ち立てるメシアを待ち望んでいたのです。弟子たちの多くは熱心な民族主義で知られるガリラヤ地方出身者でした。イエスが行われた奇跡やしるしと、イエスご自身の謙遜や教えは相反するように見えたのです。弟子たちはメシアがどんな人物で何をするか知っていると思い込んでいました。しかしイエスは弟子たちの期待通りの人物ではなかったのです。
今日も同じ
弟子たちを責めることはできません。私たちも皆同じことをするからです。今日、信仰を持つ人は、神のみことばを学ぶ決断を新たにしなくてはなりません。古い思い込みに基づいて教えられたことを受け入れるのではなく、自分たちが確かに見ていることを確認しなくてはならないのです。あなたは聖書の意味を本当に理解し、それをどのように実行したら良いのかを学ぶために、意識して聖書を読むことがどのくらいありますか。
もし人々が定期的に深く聖書を学ばないなら、アメリカのケネディ元大統領が1962年にエール大学の卒業式で警告した罠に陥ってしまうことでしょう。その警告はこうです。「真理の最大の敵は、うそではなく、説得力のある神話だ。私たちは多くの場合、先祖から受け継いだ決まりきった考えに固くしがみ付いている。前もって出来上がっている方法で解釈し、自分で考える努力をせずに、他人の意見を受け入れてしまうのだ。」このスピーチの背景には1960年代当時の政治的、経済的背景がありました。しかし、元大統領の警告は今日の私たちにも無関係ではありません。私たちは聖書を読んで、すでに出来上がっている方法で解釈しがちです。思考したり学んだりする苦労をせずに、安易に心地よく人の意見を受け入れてしまいがちです。
信仰と真理において、変わらないものがあることは明白です。それは確かに尊重され、守られる必要があります。しかし、よく調べず盲目的に受け入れてきた伝統的な意見や解釈を持ち続けることには課題があります。
何百年もの間、クリスチャンは神がご自分の契約の民イスラエルを見捨てたと信じていました。それは、単にそのような考えが聖書の中にあると教えられてきたからです。また、ユダヤ人は迫害されて当然であると多くの人々が信じていました。それは、ユダヤ人がイエスを殺したと聖書に書かれていると教えられてきたためです。また今日に至っても一部のクリスチャンは「旧約聖書」の正当性を疑問視しています。それは「新約聖書」が「旧約聖書」に代わって権威と意義を持つようになったと教えられてきたからです。しかし、今、多くのクリスチャンは、長年の旧弊を捨てて「本当に見る」ことを始めています。イスラエルは神に見捨てられておらず、神のご計画全体の中でその賜物と召命が変わらない(ロマ11:29)ことを再発見しています。そして新・旧約両聖書の全体を貫く神のみこころを、もう一度、みことばそのものから学ぶ努力を始めているのです。
後編では、予め自分の持っている前提や伝統に囚われることなく、「本当に見る」ために、どのような教育(学び)が有益か、ヘブル的な「学び」のあり方を通して見ていきます。