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必要なのは愛だけ -前編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

「愛」について、また最も大切な戒めとイエスが言われた「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ(マルコ12:30-31)」について、具体的に学びます。

コミュニケーション能力

言葉を使ってコミュニケーションを取る能力は、神が人類に与えられた素晴らしい賜物です。しかし、言葉が理解を深めるというよりむしろ邪魔をすることがあります。たとえば、愛という言葉を考えてみましょう。聖書を学ぶ者にとってこれほど大切な言葉はありません。実際、聖書は初めから終わりまで壮大なラブ・ストーリーです。私たちは繰り返しお互いを、隣人を、見知らぬ人を、そして神ご自身を愛するように命じられています。タナハ(創世記―マラキ)と使徒の著した新約聖書は共に、神の命令で一番大切なものは愛することだと言っています。しかし現在、愛ほど乱用され、誤解されている言葉もありません。

ヘブライ語には愛のさまざまなニュアンスを伝える言葉がありますが、英語や日本語にはありません。ですから、「愛」というたった一つの言葉を使って、父や夫や愛犬や愛猫、そしてコーヒーや読んでいる本やチョコレートに対する思いを適切に表現しなくてはなりません。この言葉はネットの世界や本、そして映画の中にあふれています。愛は10代の少女たちが夢見たり、熱くなったり、冷めてしまったりするものです。お気に入りの色から夫に対する情熱までがこの一言に集約されています。愛、愛、愛、この言葉は何にでも使われています。そして、その結果ほとんど意味がなくなっているのです。

しかし聖書において「愛」は何よりも優先される問題でした。神は、繰り返しイスラエルに対する愛を語っておられます。永遠で無条件の愛こそ、神がイスラエルに注ごうとしておられる祝福の原動力です。手紙の中でしばしば愛について語ったパウロは、愛は神にとって最優先であり、信仰や希望以上に大切であることを明確にしています。パウロは、「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです(Ⅰコリ13:1)」と言っています。聖書は、神を愛することが何よりも重要であり、基本であることを強調しています。

神による愛の定義

旧約時代、主に従う者にとって、愛と行いは切り離すことができないものでした。ヘブライ語のアハバ(愛)という言葉は、愛する者と共にいたいという強い願いに伴う親密な行いと感情を意味しています。この言葉の動詞形には「供給する」、「守る」、「与える」という意味があります。このような枠組みの中では愛を失ったり、愛が冷めたりすることはあり得ませんでした。

「主、わが力。私は、あなたを慕います(詩18:1)」と詩篇の記者は言いました。ここで記者は自己犠牲の生活への献身、積極的な神の御心への従順、そして神が定められた義と善を喜んで受け入れることについて語っているのです。聖書を読めば分かるように、このような旧約時代の愛の理解は決してロマンスや情熱に欠けるものではありませんでした。しかしその焦点は、受けることではなく与えることに置かれ、感情ではなく献身と選択に置かれ、神の、すべてを取り囲む無尽蔵の愛に倣うことに置かれていたのです。

今日、愛の理解は感情的体験と自己満足への欲求によって曇らされています。私は15冊もの辞書を調べましたが、愛の定義の中に選択、献身、行動という言葉が含まれていたものは一冊もありませんでした。すべての辞書に共通していた定義は、「深い愛情、性的欲求を含む強い魅力、深い愛着、ぬくもりの強い感情、心からの喜び、親切心、熱心、思いやり」といったものでした。

これはいったいどういうことなのでしょうか。古い歌に「あなたが愛してくれたように愛するわ」というものがありますが、大切なのは、相手が自分をどういう気分にしてくれるかなのです。今日は、クリスチャン・ミュージックでさえ、神や神への奉仕に焦点を当てるよりも、神が自分をどんな気分にしてくれたかに焦点を当てているものが少なくありません。このような現代的な愛の理解と、心を尽くして主を愛しなさいという命令とをどうしたら調和させることができるのでしょうか。神の臨在のもとで、感情的に圧倒されるを待つのでしょうか。もし何も感じなければどうなるのでしょうか。また喜びではなく、困難や絶望や争いしか起こらない時はどうなるのでしょうか。主よ、あなたを愛するとはどういうことなのでしょうか。

シェマー

ユダヤ人のウェブサイトを開設しているラビ・シャラガ・シモンズは次のように語っています。

1945年、ラビ・エリエゼル・シルバーは、ホロコーストの間、異邦人にかくまわれていたユダヤ人の子どもたちを連れ戻すためにヨーロッパに派遣されました。シルバーはどうやってユダヤ人の子どもたちを見つけ出すことができたのでしょうか。彼は子どもの集会に出かけていき、大きな声で、「シェマー」と呼ばれる聖書箇所「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである(申命6:4)」を宣言しました。

そしてシルバーは子どもたちの顔を見ます。自分がユダヤ人であるという遠い記憶を持っている子どもたちは涙を浮かべています。ユダヤ人の母親は、毎晩子どもと一緒に枕元でシェマーを唱えていたからです。

申命記6章と11章、民数記15章の聖句からなるシェマーは、ユダヤ人の基本的信仰信条です。それは信仰の宣言であり、唯一の神への忠誠の誓いであり、神を献身的に愛するという確認でした。シェマーは朝起きる時、夜寝る前、神をたたえる時、神に懇願する時に唱えられます。シェマーはユダヤ人の子どもが最初に教わる祈りであり、息を引き取る前に口にする最後の言葉でもあります。

時代を超えて、たとえ真っ暗闇の状況にあっても、シェマーの叫びはイスラエルの神と御民の間の破ることのできない契約のきずなの象徴でした。イエスもトーラー(創世〜申命)の中で一番大切な戒めが何であるか尋ねられた時、シェマーが一番大切であると答えられました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:30-31)それでは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神を愛する」とはどういうことでしょうか。

心を尽くして愛する

心に当たるヘブライ語はレブという言葉です。この言葉は、「取り囲まれている、内側や中心にある」という意味の語根から派生しました。ギリシャ語ではカルディアという言葉で、神の影響に服している、あるいは堕落に支配されているなど、人間の内面生活の中心を指しています。現代心理学では、心は「知・情・意」の範囲内にあると言われています。これに対して古代人は、心は人間の道徳と霊的生活の中心であり、感情と知性はそこから流れてくると信じていました。心は感情の中核であり、畏敬(いけい)、後悔、喜び、悲しみ、感謝、恐怖のわき出る場所だったのです。

一方で聖書には「心のいろいろな考えやはかりごと(ヘブ4:12)」について書かれています。心は単に知性と感情の中心ではなく、意思の中心でもあり、意図的決断を下す場所でもあったのです。心において難しい選択がなされ、誓約が打ち立てられ、実行に移されるのです。決断するのは心であり、すべてのことがそれに続くのです。

第二次世界大戦終結からしばらくして、ケルンのゲットーの壁に刻まれていた文字が見つかりました。後にアウシュビッツの焼却炉に消えた、名もない著者によって壁に殴り書きされた文章は次のようなものでした。

「私は太陽を信じる、たとえそれが輝いていなくても。私は愛を信じる、たとえそれを感じられなくても。私は神を信じる、たとえ神が沈黙していても。」

シェマーのヘブライ語表記 velveteenrabbi.blogs.com

この文句を壁に刻んだ人は、詩篇の記者同様「私は…する」と言いました。恐れ、怒り、憎しみしか起こらない身の毛もよだつ状況の中で信じ、愛し、信頼するという理解を超えた決断を選択したのです。これはシェマー同様、信仰と忠誠の誓いの宣言なのです。これが心を尽くして神を愛することです。

魂(思い)を尽くして愛する

魂(思い)はヘブライ語ではネフェシュという言葉が使われます。現代において、魂は肉体とは別のはかない存在と理解されていますが、古代ではネフェシュは人間存在そのものと理解されていました。それは文字どおりには「生きた者」という意味であり、形をとった命を指していました。今日私たちは人間には「魂がある」と教えられますが、聖書によれば人間は魂そのものなのです。

トーラーの中でネフェシュ(魂)は生きている「人間の全存在」を指しており、そこには心を始め、すべてのものが含まれていました。神が命の息をアダムに吹き込んだ時、アダムはネフェシュになったのです。私たちの全存在をもって主の威光を宣言しなくてはならないのです。私たちの情熱、渇望、感じ方、考え、欲求と言ったものはすべて、唯一まことの神の本性(ほんせい)を反映させるために造られています。私たちは、話し方、時間の使い方、行動、反応といった自分の全存在によって神の栄光を映し出すよう召されているのです。

2世紀のユダヤの賢人にして指導者だったラビ・アキバの教えは今日もユダヤ教の中で崇敬されています。当時イスラエルを占領していたローマは、トーラーの教えを禁じましたが、ラビ・アキバは神のみことばによって自分の弟子たちを励まし続けました。

ラビ・アキバは逮捕され、死刑の判決を受けました。大きな鉄のくしで処刑人によって体の肉を削ぎ取られる拷問を受けながら、彼は喜びに満ちてシェマーを暗唱し始めました。恐怖と悲しみに圧倒されそうになっていたラビ・アキバの生徒たちは、どうしてこのようなぞっとする状況の中で神をたたえることができるのかと彼に尋ねました。彼は答えました、「私はこれまで心を尽くし、力を尽くして、神を愛してきた。そして今、魂(思い)を尽くして神を愛するとはどういうことか分かったのだ。だから私は喜んでそうするのだ。」

後編では、さらに「知性と力を尽くして」神を愛すること、また隣人を愛することを学びます。

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