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神殿の西壁~ユダヤ民族の中心 -前編-

TEXT:ダン・ブラウン師(BFP国際開発副部長)

一般に「嘆きの壁」として知られる「西壁」(ユダヤ人の呼称)。なぜそれほどに注目を集める場所なのでしょうか。壁についての解説を通してエルサレムの歴史、ユダヤ人にとっての壁の意味を探ります。

エルサレム-西壁(嘆きの壁)©Ashernet

西壁か嘆きの壁か?

初めてエルサレムに行った時、旧市街でもっとも大切な「壁」が「嘆きの壁」と呼ばれていないことに驚きました。ユダヤ人が集まって祈る場所が神殿の丘の西側に位置していることから、それはユダヤ人から「西壁」と呼ばれています。正式名称は、「嘆きの壁」なのか?「西壁」なのか?と困惑しました。

今日、ユダヤ人はその壁を「西壁」と呼ぶように主張しています。しかし、ユダヤ人以外はどちらの名称も使っています。多くの人は、これは単に言葉の問題だと思いますが、この二通りの呼び方は、宗教的で国家的な意味合いをはらんでいます。「西壁(ヘブライ語で〝ハコテルハマァラビ〟)」という名称は、実は「嘆きの壁」という名称よりもはるかに古いのです。

AD70年、神殿崩壊の後に残った壁を「西壁」と呼び始めたのは4世紀の学者ラビ・アハのようです。そして11世紀のイタリア系ヘブライ人の詩人、アヒマアツ・ベン・パルティエルが西壁を〝ハコテルハマァラビ〟と呼んでいたのは間違いありません。

1800年代、画家グスタフ・バウエルンファイントによって
描かれた嘆きの壁

それからだいぶ時を経た19世紀になって、西壁は「嘆く場所」と呼ばれるようになりました。これは当時パレスチナと呼ばれていた場所を訪れたヨーロッパ人が、よく嘆いていたことによるものです。「嘆きの壁」という名称は実は20世紀に入ってからのもので、1917年にイギリスがオスマン・トルコからエルサレムを勝ち取った後にイギリス人によって初めて使われました。イギリスの委任統治が始まって間もなく、「嘆きの壁」は一般的な名称となりました。当時これに明白な異議を唱えるユダヤ人はいませんでした。しかしこの状況は1967年の六日戦争でイスラエルが勝利した後、明らかに変わりました。この戦争によってエルサレムは再統一され、自由に西壁に近付くことができるようになりました。

プリンストンのユダヤ人センターのラビ・フェルドマンは、「嘆きの壁」という名称は親しみやすくもなければ適切でもない、「嘆きの壁」にはユダヤ人がそこに行くのは祈るためではなく「嘆く」ためで、神殿の丘の下の聖なる場所で嘆きの祈りだけが捧げられるというニュアンスがあると言っています。

こう言うわけで、少なくともここ数千年間、この壁はヘブライ語では〝ハコテルハマァラビ〟(「西壁」)と呼ばれてきました。そして今日イスラエルでは、この壁はハコテル(「その壁」の意)とだけ呼ばれています。

エルサレムの歴史

モリヤ山の上に建てられたエルサレムは、世界で最も古い町の一つで、ユダヤ人によれば、その起原は万物の創世にさかのぼります。ユダヤ人は万物の創世の時からその礎石(エベンハシュティヤ)はモリヤ山の上に据えられてきたと主張しています。この山の上で神の命令に従いアブラハムは息子のイサクをいけにえとして捧げようとしました。神殿はモリヤ山の上に二度建設され、二度破壊されました。バビロンのネブカデネザル王がBC586年に第一神殿を破壊し、その70年後(BC515年)、エルサレムに帰還した人々が第二神殿を建てました。BC20年ごろヘロデ王は神殿を拡張し、壮大な城壁で囲いました。そして城壁の中に荘厳な神殿を建築したのです。

ローマ帝国への反乱の翌年、AD70年アブの月の9日、ローマ軍がエルサレムと神殿を征服しました。ローマ軍は火を付けて城壁を破壊しましたが、神殿の外壁の一部が残りました。その外壁は単なる神殿の丘を取り巻く、神殿の一部でさえなかったため、ローマ軍にとっては価値がないように見えました。そのため、「西壁」だけが当時の高さを保ったまま残りました。

それ以降1900年間にわたるエルサレムの歴史は苦難の連続で、さまざまな軍隊や民族による征服が繰り返されました。AD130年頃、バル・コクバの乱を鎮圧したローマのハドリアヌス帝はエルサレムを異教の町として再建し、アエリア・カピトリナと名前を変えました。

歴代の統治者

4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となると、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)はエルサレムをキリスト教の聖都と宣言しました。638年にエルサレムを征服したイスラム教徒は、エルサレムをイスラム教徒とアラブ人の町に変えようと奮闘し、神殿の丘にモスクを建てました。

西壁の見張りにつくイギリス兵
PhotobyWikipedia

1099年に十字軍がエルサレムを奪還しましたが、1187年にエジプトとシリアの支配者でイスラム教徒のサラディンは十字軍をエルサレムから追放しました。以後、1517年のオスマン・トルコによる征服までの330年間、さまざまなイスラム王朝がエルサレムを支配しました。1538年にスレイマン1世の統治下で今日見られるエルサレムを囲む城壁が建てられました。第一次世界大戦が終わりに近付いた1917年にイギリスの委任統治が始まるまでの400年間、オスマン・トルコはエルサレムに圧制を加え続けました。

ユダヤ人の管理下へ

このような困難な時代の中にあってもユダヤ人は破壊された神殿への思いを一度も捨てることはありませんでした。神殿は、ユダヤ人にとって最も神聖なる場所です。ユダヤ人は単に神殿の再建を祈るだけでなく、以前神殿があった場所に巡礼し、そこに古くからある石に触れて祈りたいと切望しました。エルサレムを支配した外国の支配者たちは、礼拝するユダヤ人を神殿のあった場所やオリーブ山から何度も追い払ったので、ユダヤ人にかろうじて残されたのは「西壁」に沿った狭い場所だけになりました。「千年以上に渡るエルサレムのイスラム支配下において、アラブ人は訪れるユダヤ人に屈辱感を与えるため、しばしば「西壁」をゴミ捨て場として使用しました。(ユダヤ・バーチャル・ライブラリー)」

このような辱めに加えて、外国に支配されていた1900年の間に西壁の外観と形は大きく変わりました。"Touching the Stones of Our Heritage"(「われらの相続の石に触れる」)の中で、「西壁」は次のように描写されています。

「あたかも西壁は地面に沈みこんだように見えました。こうべを垂れ、栄光は覆い隠されたのです。征服軍は西壁に怒りを注ぎだし、西壁の壮麗さを損なわせたのです。16世紀初頭にはその下の谷の外見は完全に変化し、目に見える城壁はほんの一部となってしまいました。」

六日戦争時、西壁にたどり着いたユダヤ兵

イギリス委任統治政府は、前の支配者であったオスマン・トルコと同様にユダヤ人を西壁の所有者とは認めませんでした。イスラエルが再建国されてからも、1948年の独立戦争から1967年の六日戦争までの19年間、西壁はヨルダン支配の下で荒れ果てていました。1949年、ヨルダンが休戦協定に署名して、ユダヤ人の西壁訪問の権利が保証されました。しかし、イスラエルのユダヤ人は一人として西壁に近付くことが許されませんでした。

1967年、六日戦争の時イスラエルのパラシュート部隊がライオン門を通って旧市街に侵入しました。この時、西壁と神殿の丘が解放され、エルサレムは再統一されました。ユダヤ人は再び西壁に来て、祈ることが出来るようになったのです。すべてのユダヤ人が恋い慕ってきた聖なる場所が、ついにユダヤ人の統治下に置かれたのです。ラビ・ヨセフ・テルシュキンは著書『ユダヤ人の知識』の中で、「六日戦争でいち早く西壁に達した人の中に、国防軍のモシェ・ダヤンがいました。壁の石の間に紙に書いた祈りを挟むというユダヤ人の伝統的習慣を、ダヤンは復活させました。後になってダヤンの祈りの紙は、『イスラエルの家の上に永久に平和が訪れるように』というものだったことが分かりました。」

次回もさらに西壁についての学びを深めていきましょう

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