ホーム知る・学ぶティーチングレターバックナンバー > 聖書におけるイスラエルの理解 -12の鍵-

ティーチングレター

聖書におけるイスラエルの理解 -12の鍵-

BFP編集部 2000年4月

ブリッジス・フォー・ピースの講演をするために世界を旅するにつけ、何度も繰り返し同じような質問を受けます。南アフリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、イギリス、アメリカのどこであれ、クリスチャンたちが知りたいことは、イスラエルやユダヤ人についての「鍵になるみことばの要約」なのです。神は、ご自身の契約の民とご自身の地イスラエルについて、多くのことを語っておられます。イスラエルの地は、「わたしが所有している」と神ご自身が言われる、地上で唯一の場所です(もちろん全世界は神のものですが、地上でのこの一区画の土地は、神との特別な関係を持っています)。イスラエルについて神はこう言われます。「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。」(レビ25:23)

正確には、聖書は神の土地について何と言っているでしょうか。また、誰がその権利を持つと言っているでしょうか。

現代のイスラエル・パレスチナ問題を考えるとき、人々はしばしばこのように尋ねます。「いったいイスラエルとユダヤ人たちに、この土地に対するどんな権利があるのですか?」

そして、双方ともに理にかなっていると思われるような、パレスチナ人の権利やイスラエル人の権利に関する論争が絶えず繰り広げられています。しかし、この土地に関して対立する様々な見解を耳にするにつけ、「誰が、この特別な土地に関する権利を決定する絶対的な権威を持っておられるのか?」という根本的な疑問が私の心に浮かんできます。

その疑問に対する聖書的な答えは、私たちが持つ“権利”は、ただ神だけが決定されるということです。ある事柄は、人間の感情や理由によらず、神の宣告によって正しいか間違っているかが決まるのです。宇宙や人類の創造以前に神が存在されたということは、神が私たちの“所有権”を決定する権利を持っておられることを意味します。神が存在されるゆえに道徳が存在し、神が存在されるゆえに権威が存在します。そして全能の神は、この土地へのイスラエルとユダヤ人の権利をすでに決定され、それを彼らに譲渡されたのです。

イスラエルの地について、また神が所有される民について、神が何と言っておられるかをともに学んでまいりましょう。

第1の鍵

主によってイスラエルと改名されたカナンの地は、神によってアブラハムとその子孫に永久の所有として与えられた

創世記12章7節にはこうあります。「主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。」

また、創世記13章15節で、その約束を繰り返されました。「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」

神はまた、創世記15章18節でも同じように言われています。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」

第2の鍵

アブラハムとその子孫への「この地」という贈り物は、神ご自身の無条件の契約に基づいていた

神は創世記17章7、8節でこう言われています。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

アブラハムとその子孫の契約のしるしは割礼でした。この箇所で二度、神はこの契約の永続性について触れておられます。今日、ある人々は、この契約は条件付きであると言います。しかし、聖書はこう教えます。「もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。それは月のよにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は真実である。」(詩篇89:30-37)

エレミヤ書31章35-36節ではこう宣言されています。「主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。『もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、-主の御告げ。-イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で一つの民をなすことはできない。』」

もし、民が神に従わないなら、神は彼らを裁くと約束されました。私もこれを信じます。それは私たちすべての者にとって真実です。しかしイスラエルがその不従順によって、その土地や国家的地位という賜物を喪失しているのだという人々には同意できません。申命記28章の祝福と呪いに関する神の宣言は、イスラエル人の生活の領域においてのみ影響を与えるものです。それは彼らの忠実さに基づいていたことを表しています。しかし、その土地の約束に関しては、イスラエルの行ないに基づいていたのではなく、偽ることのない神の誓いとそのご人格に基づいていたのです。申命記30章によると、彼らが約束の地に入る以前から、神の戒めを破り、将来そこから追い出されることを神は知っておられたことがわかります。それでもなお、神が彼らの先祖に与えられたその地に彼らを連れ戻されることが宣言されています(第8の鍵参照)。

第3の鍵

その地は、世界への贖いの祝福として、アブラハムと彼の子孫に与えられた

創世記12章1-3節にはこうあります。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」

イスラエルは古代世界の中心に位置し、大陸間のすべての交通やコミュニケーションが互いに交わる通過地点でした。ですから、旅行者、商人、貿易商、そして軍隊でさえ、イスラエルの民と出会うことになったのです。

イスラエルの民は、三つの目的のために選ばれた者たちでした。一つは、この地において神を礼拝し、宇宙で唯一の真実な神に仕える祝福を世界に示すことです。次に、神の言葉を受け取り、記録し、それを伝えていくことです(彼らを通して私たちに聖書が与えられています)。そして最後に、私たちが救いをいただくメシアのための、人間的なチャンネルになるということです。イスラエルの民に対するご自身の目的を守られるために、神はアブラハムと彼の子孫を祝福する者を祝福し、彼らをのろう者をのろうことを約束されました。

第4の鍵

この地はイシュマエル(アラブ民族の一つの先祖)の子孫に与えられたのではなく、イサクの子孫に与えられた

私はイシュマエルの子孫に対して何の苦々しい思いもなければ、アラブの友たちに対して不親切にすることを願うものでもありません。しかし、聖書が教えていることには忠実でなければならないのです。アブラハム自身は、神がこの地を与えられる候補はイシュマエルの子孫だと考えていました。創世記17章18節で、アブラハムは神に言いました。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

しかし、神の答えは非常に明白でした。それは今もそうです。創世記17章19節で、神はアブラハムに答えられました。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

神はイシュマエルを祝福し、大いなる国民とすることを約束されました。「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」(創世記17:20)

しかし、その地に関する契約の約束は、イサクの血統を通して与えられているのであって、イシュマエルの血統を通してではありません。「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」(ヘブル11:18)

第5の鍵

この地はアブラハムの他の息子たちに与えられたものではなく、ただイサクだけに与えられた

サラが死んだ後、そばめたちによって生まれた息子の他に、もう一人の妻ケトラによる6人の息子がアブラハムにはいました。彼らは今日存在する多くのアラブ民族の先祖になっています。しかし、その地の契約は彼らのためのものではありませんでした。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」(創世記25:5-6)

アブラハムが、その息子たちをカナンの地から追い出すことさえした点に注意してください。

第6の鍵

この地と契約はイサクの息子ヤコブとその子孫だけに与えられたものである

ヤコブは、父イサクから長子としての祝福を受け取りました。創世記28章4節で、イサクはヤコブに言いました。「神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」

しかしヤコブの将来を導いたのは、単に彼の父イサクの言葉だけではありませんでした。ヤコブにその運命を確信させたのは、神ご自身からの直接的な啓示だったのです。主なる神は、この地に関する神のメッセージをヤコブに現わされました。創世記28章13-15節にはこうあります。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:13-15)

創世記36章6-9節には、エサウは彼の親族とすべての財産を携えて、兄弟ヤコブを離れて他の地へ行ったとあります。彼は丘の上、セイルの山地に住みつきました。聖書はエサウがエドム人の先祖であることを告げています。特に、エサウの子孫がエドム人であるために、イスラエルは彼らの土地ではなかったことをも告げています。オバデヤ書には、エサウの息子たち(エドム)がヤコブの子孫(イスラエル)を常に迫害したために、彼らへの運命(滅亡)の宣告がなされています。「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」(オバデヤ10)

第7の鍵

神はイスラエルに、神が与えられた地を征服するように言われた

申命記1章8節にこうあります。「見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

ヨルダン川の東岸で、イスラエル人が約束の地に入ろうとしていたとき、主はヨシュアに言われました。「『わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。……強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」(ヨシュア1:2-4、6)

そして、ヨシュアは民にこのように語りました。「『生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」(ヨシュア3:10)

それから、ヨシュアは人々が川の向こう側に渡ることができるように、主がどのようにしてヨルダン川の水を分けてくださるかを伝えました。このことによって、人々は神が彼らとともにいてくださることを知り、エリコから始め、地域ごとにその地を征服したのです。

イスラエルの地をめぐる争いの現実は何も新しいことではありません。また、今日の土地問題に関しても、神がユダヤ人とともにおられないとはどこにも書かれていません。ところが、「イスラエルには神にふさわしくない多くの戦争や争いがあるため、今日のイスラエルは神のご計画の役割を果たすことができない」とクリスチャンが言うのを私は聞いてきました。いつからそのような認識の違いが起こってきたのでしょうか。国々は旧約聖書の時代を通じて、アブラハムの子孫であるユダヤ人に対し、イスラエルの地において戦いを挑んできたのです。ヨシュアがイスラエルの民をその約束の地に導き入れたその瞬間から、その地を占領するための戦いがありました。ダビデ王は、隣人であるペリシテ人たちと常に戦っていました。今日もなお争いがあるとしても驚くことがあるでしょうか。神に敵対する者は、常に神のご計画に対抗して戦っているのです。

預言者ゼカリヤは、終わりの日に神ご自身がエルサレムを国々のつまずきの石とされ、エルサレムとイスラエルのために立てられた神のご計画を彼らが理解し、支援するか否かによって裁かれるということをかなり明白にしています。もし、支援を行なうなら彼らは祝福され、行なわないなら滅ぼされるのです。「『見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。……その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」(ゼカリヤ12:2-3、9)

第8の鍵

契約によるこの地の権利は、イスラエルの罪とそれに続く彼らの離散によっても変わることはなかった

多くの人々が、イスラエルにこの地を与えるという神の約束は、神の律法に対するイスラエルの忠誠に基づいているのであって、彼らの不従順によって補囚となったとき、その約束は無効にされたのだと言います。しかし、聖書はこう教えます。レビ記26章40-45節で、神はその不従順のためにイスラエルを罰し、補囚にされると書かれていますが、44-45節によれば、神は彼らを再び連れ戻されるのです。「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」

申命記30章3-5節では、神はこう約束されています。「あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。」

アモス書9章14-15節には、次のような驚くべきことが語られています。「『わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。』とあなたの神、主は、仰せられる。」

その地へのイスラエルの権利に反対する人々の中には、これらのみことばはユダヤ人たちがバビロン補囚から帰還したときに成就したのだと言う人もいます。しかし、それからも再び離散と帰還がありました。「『彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。』とあなたの神、主は、仰せられる。」(アモス9:15)とアモスが語ったこのことばは、彼らの故郷・イスラエルへの最後の帰還について語ったのです。それは歴史上、今だかつてまだ起こったことがなく、多くの者は現在のイスラエルへの帰還が最後のものであり、メシアの到来がそれに続くものであると信じています。

第9の鍵

この地の名前はイスラエルである

終わりの日に見られるイスラエルの回復について、2500年前に預言者エゼキエルが語っています。エゼキエルは、枯れた骨が生き返ると語りました。歴史において一つの国民が滅ぼされ、世界中に散らされ、そしていのちがよみがえるということはかつて一度もありませんでした。それは奇跡であり、聖書の預言の成就です。エゼキエル37章11-12節にこうあります。「主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、“私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。”と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。』」

聖書の中でしばしば“カナンの地”と呼ばれていたその地が、イスラエルと名付けられていることに注目してください。終わりの日には、そこがイスラエルと呼ばれるであろうと神は言われます。パレスチナという名前は、紀元135年の第2次ユダヤ暴動を鎮圧した、ローマ皇帝ハドリアヌスによって押し付けられた地域的な名前でした。彼のユダヤ人に対する怒りはあまりにも大きく、それゆえにユダヤの国民を侮辱し、彼らはローマの支配下にあってその故郷への権利を失ったということを強調したかったのです。パレスチナという名前の語源は、1000年ほど以前にイスラエルの主敵であったペリシテに由来しています。

ハドリアヌスはまた、彼自身の名字である「アエリア」を取り、エルサレムを「アエリア・キャピトリーナ」と改名しました。また、年に一度、その破壊を悲しむため以外には、ユダヤ人たちが町へ入ることをも禁止しました。当時彼はローマ帝国の神として見られていました。ですから、これはユダヤ人とこの地との間にある、神の契約を破棄しようとする試みだったのです。さらに、イスラエルの神が臨在される場所であったエルサレムに対する、彼の異教の権威を効果的に宣言するものでした。

パレスチナという名は、今日までイスラエルの面前を飛び交っています。すべての問題はそれが神の土地であるがために、神によってその運命が決定されるであろうこの土地をめぐる宗教的(霊的)戦いに凝縮されるのです(レビ25:23)。

イェシュア(イエス)は、終わりの時代のしるしについてこう説明されました。「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)

ハドリアヌスの時代から1967年に至るまで、エルサレムは異邦人に支配されてきました。今それがユダヤ人たちの手に戻されており、それはメシアがまもなくシオンに来られることの一つのしるしなのです。

第10の鍵

他国人(契約の外にある者)があなたたちの中に住み、敬われるだろう

「彼ら(神の契約の民)は昔の廃虚を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃虚の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。……」(イザヤ61:4、5)

「もし、ほんとうに、あなたがたが(イスラエルが)行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。」(エレミヤ7:5-7)

これらのみことばの“在留異国人”や“外国人”は、その地に住んでいるパレスチナ・アラブ人や、ユダヤ人でない他の人々を含みます。パレスチナの地ではなくイスラエルの地に住んで働くことによって、彼らは祝福を受けます。一方では、イスラエルは彼らを尊重し、他方では、彼らは誰の主権の下に属しているのかを認識しながら、その地の法律に従い、平和に生活する責任があります。

モーセはこう教えました。「一つの(イスラエルの)集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。」(民数記15:15、16)

今日、起きているように、この関係が壊されたとき、その結果として危機が起こってきます。預言において、みことばはその地に関してより多くのことを語っていますが、それは、メシアがすべての国民の頭としてイスラエルを完全に再建するために来られる前に、イスラエルがより多くの試練を通るという事実をも含んでいます。

第11の鍵

終わりの日に見られるユダヤ人の帰還は神によって導かれ、その帰還は荒れた不毛の地の回復の前兆となるだろう

預言者イザヤは、民がイスラエルに戻されるという神のご計画について語っています。「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」(イザヤ11:12)

前世紀の終わりにユダヤ人たちが世界の国々から戻り始めたとき、その土地は荒れており、住民はまばらでした。1860年、作家マーク・トウェインは、オスマン‐トルコ帝国の領地に戻されてパレスチナと呼ばれたその地を旅して、「すべてが荒れ果てた地」と表現し、“傷つき、裸で、木のない地”と呼びました。また、ガリラヤのことをこう言いました。「露もなく、花もなく、鳥もなく、木もない。向こうには不毛の山々がある。」

パレスチナについての彼の感想はこうでした。「土地のすべてに、寂しい光景がある。丘は荒廃し、どんよりとした色をし、その形も美しさがない。それは希望のない、荒涼とした、心を痛めるような地である。」

この描写は、エゼキエル書36章1-7節の“イスラエルの荒れた山々”の預言と一致します。しかし、エゼキエルは続けて言います。「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。」(エゼキエル36:8-12)

実に、世界の100カ国以上の国々からユダヤ人が帰還していることは現代の奇跡です。1880年代に移民者の大きな波が起こり始めました。この初期の時代以来、砂漠に植林がされ、岩地が肥沃にされ、沼地が排水・植林され、古代の台地が建て直され、古くさびれた町が再建されています。現在、イスラエルは600万人以上の人口を持つ国で、食料輸出国であり、高いレベルの識字力、保険、教育、福祉を持ち、科学技術と農業の急速な発展をとげています。

第12の鍵

国々は、人々の帰還とその地の回復の役割に参加する

預言者イザヤは言います。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。……まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んでくる。主があなたを輝かされたからである。外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。」(イザヤ60:1、9-12)

私たちクリスチャンは、イスラエルの契約であり、約束であり、希望であるオリーブの木に継ぎ木されているものだと、ローマ書11章11-14節でパウロは教えています。私たちがその木を支えているのではなく、その木が私たちを支えているのであって、私たちは神の民イスラエルに対して誇るべきではありません。28節では、彼らは先祖たちのゆえに愛されている者であると言っています。イスラエルのユダヤ人の忠実さなくしては、私たちはそのお手本や聖書、イェシュアや救いを得ることはありませんでした。ゆえに、彼はこう結んでいます。「あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身も(神の)あわれみを受けるためなのです。」(ローマ11:31)

私たちクリスチャンには、具体的な形でユダヤ人たちを祝福することによって返すべき負債があることをパウロは教えています。

ローマ書15章27節に明らかに書かれています。「異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」

クリスチャンとイスラエル、ユダヤ人との関係において、神がこれ以上はっきりと語られることはないのではないでしょうか。

このことは私たちにとってどんな意味があるのか?

イスラエルが完全に回復するのは間近です。メシアがそれを可能にし、私たちはみな平和に暮らすでしょう。彼が来られるまで、聖書が神の言葉であることを信じ、すべての神の約束が成就されることを信じる私たちは、その地に対するイスラエルの権利を擁護しなければなりません。それは神聖な権利です。私たちは、聖書を信じない人やその地へのイスラエルの権利を受け入れない人々に対して忍耐します。しかし、すべての者への愛をもって、イスラエルの権利を力強く援助しなければなりません。そうでなければ、明らかな良心を持つことができません。一方で、神の聖なるみことばにご自身の完全なみこころを表されている神がおられることを信じ、他方で、神がイスラエルに約束された彼らのその地への権利を否定することはできないのです。

イスラエルに対する私たちのコミットメントは詩篇102篇13節において、その記者によってこのように書かれています。「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。」今がその時です。

また、詩篇の記者は再び私たちを促します。「エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。』私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。『おまえのうちに平和があるように。』私たちの神、主の家のために、私はおまえの繁栄を求めよう。」(詩篇122:6-9)

エルサレムからシャローム

記事の先頭に戻る

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.