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4つのレンズを通して見るイスラエル -前編-

ビル・アダムズ/BFP米国副局長

ローマ人への手紙9章から11章で使徒パウロは、聖書全体の中で最も重要な奥義の一つについて論じています。その奥義とは何でしょうか。それは、イスラエルとユダヤ人についてです。これは、現代の異邦人クリスチャンにとっても、重きを置く必要のある重要な奥義です。しかし、以下に挙げる3つのみことばは、聖書の中で敬遠され、誤解され続けて来た箇所です。これらのみことばは謎に満ちており、イスラエルについての驚くべき奥義が隠されています。

パウロは、この素晴らしい奥義を敬遠させたり、誤解させたりしようとしたわけではありません。彼は次のように、明確に語っています。

「……兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。」(ローマ11・25a)

つまり、奥義を知らないで聖書を読み続けていると、「自分自身の理解」が先行して高慢に陥るかもしれません。同じ章の前半でパウロは警告しています。

「あなたはその枝(折られた枝)に対して誇ってはいけません。」(ローマ11・18 a)
「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(ローマ11・20b)

ここではとても重要なことが語られていますが、何世紀もの間、この箇所は重要視されず、避けられる傾向にありました。しかし、慈しみ深い神は、この聖書箇所を通して、私たちにイスラエルについての奥義を明らかにしてくださったのです。

イスラエルに焦点を当てて見る

キリスト教国が取り続けてきた、ユダヤ人に対する一般的な態度は、彼らを敬遠するということでした。しかしパウロは、この奥義を知らないままでいることがないように、ローマ人への手紙9章から11章全体にわたって、神と契約を結んできたイスラエルに、神がどのように働いてこられたのかを書き記しています。そのパウロの切なる願いにもかかわらず、歴史の中で多くのキリスト教国が「神のひとみ」(ゼカリヤ2・8b)と呼ばれた民族に対し、背を向けることを選択したのです。

多くのユダヤ人が、メシア(救世主)であるイエスを受け入れなかったことは、1世紀の初代教会のクリスチャンにとって悲しむべきことでした。なぜなら、キリスト教がユダヤ人であるイエス・キリストとユダヤ人の弟子たちから始まったにもかかわらず、ほとんどのユダヤ人が、この「救いの道」(使徒22・4)に従わなかったからです。そのため、神の計画はユダヤ人を離れ、教会が取って代わった、という考えが台頭し始めました。

そして、ガラテヤ人への手紙にある「神のイスラエル」という言葉によって、クリスチャンこそがイスラエルである、という置き換えの解釈が起こりました。「神のイスラエル」という言葉は、ガラテヤ人への手紙6章16節だけに出てきますが、それは決して教会がイスラエルに取って代わるという意味ではありませんでした。

人が自分のレンズを通して聖書を見るとき、神の意図するところをゆがめて、聖書に自分の価値観を当てはめてしまう恐れがあります。聖書を読むときには、素直に字義通りに読むことが大切です。「字義通りの解釈」というレンズを通して見ると、イスラエル民族が神の契約の中で存在し続けていることが見えてくると共に、霊的なアブラハムの子孫(クリスチャン)の存在も、より明確になってきます。

それをローマ人への手紙9章から11章に適用すると、「実際のイスラエルと霊的イスラエルの、まるでどちらか一つしかない、あるいは、どちらか一つしか重要ではない」というような分析をする必要がなくなります。また、イスラエルを別のものに置き換える必要もなくなります。代わりに、御国を待ち望むというレンズを通して見ることによって、神が最高の目的のために、実際のイスラエルと霊的イスラエルの両方を完成に導いておられることが見えてきます。

国際的聖書教師であった故デレック・プリンスは、この問題を次のように分かりやすく定義しました。「聖書の中でイスラエルと書かれている箇所は、例外として書かれていない限り、実際のイスラエルを表しており、象徴的な他のものを表しているわけではない。神が地上の民を見るとき、イスラエルを中心に置いている。イスラエルを軸に、他のすべての国々が周りを旋回する。イスラエルは出発点であり、中心でもある」と。なぜなら、イスラエルを軸として聖書は書かれているからです。

聖書の中で、神はイスラエルについての奥義を初めから啓示されています。しかし、何世紀にもわたって多くの人々がその奥義を知ろうとせず、かえってそれらをないがしろにしてきました。今、私たちは神を恐れ、4つのレンズを通してイスラエルの奥義を見てみましょう。それは、「敬遠」、「置き換え」、「過大な評価」、「正当な理解」というレンズです。

第一のレンズ―「敬遠」

2000年もの間、キリスト教国はイスラエルについての奥義を敬遠し続けてきたため、ユダヤ人に対してだけではなく、教会自身も健全さと活力を失うという、計り知れない不利益を被ることになりました。この「敬遠」は、決して故意に無視したということではなく、その事実に直面することを避けてきたということです。

歴史の中で、ユダヤ人の存在が永遠に軽視され続けるように思われた時代には、イスラエルを敬遠しておくほうが聖書を理解しやすかったのです。なぜなら、ユダヤ人が世界中に離散し、イスラエルという国もなかったからです。しかし19世紀以降、ユダヤ人は約束の地に次々とアリヤー(帰還)し、彼らは再び世界史の表舞台に登場しました。そればかりか、その中心的存在を演じるまでになりました。そのため、イスラエルについての奥義を敬遠することはもはやできなくなり、ユダヤ人の存在を認めざるを得なくなりました。

神学的にイスラエルを敬遠することで、ローマ人への手紙9章から11章は聖書全巻の中においても理解が難しく、重要視されない箇所となりました。その視点でローマ人への手紙を読むと、9章から11章が、その前の1章から8章、後の12章から16章と関係のない、つながりのない箇所と見なされてしまいます。

「パウロがローマ人への手紙で最も主張したかったのは8章である」という理由から、その後の9章から11章を単に補足と理解する人々もいます。しかし、本当に単なる補足なのでしょうか。聖書を素直に読み、字義通りに解釈するならば、事実は明白です。8章の終わりでパウロは、神と民とを切り離すことができるものは何もないと断言しています。

「それならばイスラエルはどうなのか? イスラエルの不信仰によって、彼らは神から切り離されたのではないのか?」という疑問が起こります。それに対してパウロは、9章から11章で論理的に反論をし、11章1節でははっきりと「絶対にそんなことはありません」と答えています。この議論をパウロは、「……すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11・36)と、驚くべき計り知れないイスラエルの神への賛美で終えています。

歴史の中で、いろいろな神学的立場が登場しましたが、それらによって教会は確かに祝福を受けました。そのような中、ある神学者たちは動的なイスラエルを静的に理解しようとしました。ローマ人への手紙11章30節から32節について、ある神学者は次のように記しています。「イスラエルについての神の将来の目的をすべて除外するわけではないが、11章に書かれているイスラエルに関する未来はすべてを字義どおりに解釈しないように」と主張しています。このように、動的なイスラエル、つまり実際に存在するイスラエルを静的なイスラエルとして、単なる象徴的な教育的「型」へとはめ込んでいるのです。

同様に、ある学者たちはユダヤ人が約束の地にアリヤー(帰還)するという預言は、「メシアの再臨の時に起きる、最終的な死人の復活の時にのみ成就する」と解釈しました。彼らは、聖書に書かれているイスラエルへの土地の約束、子孫の約束、祝福の約束を十分に理解することなく、かえってイスラエルについての神の約束を敬遠することによって逃れようとしたのです。このことについて神学者であり作家のラニエ・バーンズは、「クリスチャンの伝統の中で、ローマ人への手紙11章は、注意深く解釈され、適用されるよりもむしろ、都合よく書き換えられたり、敬遠されたりしてきた」と述べています。そしてこの敬遠によって、教会は傷を受けることになったのです。

聖書はイスラエルを、そして教会をどのように語っているのでしょうか。次号後編では、イスラエルを見る残り3つのレンズ、「置き換え」、「過大な評価」、「正当な理解」がもたらす結果について学んでみましょう。

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