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神を慕い求める -後編-

シャリーダ・スプリンクル/BFP出版局副編集長

先月号では、生涯情熱をもって神を探求し続けたダビデによる詩篇を基に、私たちがどのように神を慕い求めることができるのかを学んでまいりました。今月号では、いつ、どこで、どのくらい神を求めるべきなのか、また、私たちが神を求めるべき理由についても再確認してまいりましょう。

いつ神を慕い求めるのか

私たちはもちろん一日中、どんなときでも神に近付く手段が与えられていますが、詩篇は何と言っているでしょう。「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。」(詩5:3a)、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。」(詩55:17a)

多くのクリスチャンは、祈りの時間を決めて習慣付けることに困難を覚えます。しかしモーセの時代から、教えを遵守するユダヤ人は日々の祈りの時間を習慣付け、実践してきました。

第二神殿が破壊され、神殿礼拝ができなくなった後の紀元2世紀に、二人の有名なラビの間で、ユダヤ人は1日に2回祈るべきか3回祈るべきかという討論が起こりました。伝統的に、アブラハムが朝の祈り、イサクが午後の祈り、ヤコブが夕の祈りを導入したと信じられていました(根拠となる聖書箇所は、創19:27、24:63、32:1.13)。しかしながらシナゴーグでの祈りは、朝と夕(晩遅く)のいけにえ(出エジ29・38 、39)に基づいて行われました。ダニエル書6章10節を踏まえて詩篇55篇を読み解くと、ダビデが1日に3回祈った事実があり、1日に3回祈ることが決められていたことが分かります。

パウロのクリスチャンへの訓戒は、「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:17)です。これは、1日中祈り続けるということではなく、神に信頼し、常に祈りの姿勢にあるようにということです。旧約聖書によると、特に幕屋から神殿の時代にかけて、神は私たちがいつも日々の礼拝を捧げるように計画されました。私たちは主を慕い求めることが常であって、それが一日に一度以上であることが神の願いであると結論付けることができます。それには訓練を必要としますが、もし私たちが主と共にいることを願うなら、それは義務感とはならず、喜びとなるでしょう。

どこで神を求めるのか

・人生の荒野

私たちはどこででも神を求めることができますが、ダビデが神を見いだしたのは特にどんな場所だったのでしょうか。詩篇63篇1節に、「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」とあります。聖書の多くの記事が、砂漠や荒野を舞台としているのはなぜでしょう。ハガルが神と出会ったのも荒野でした(創世16:7)。40年間にもわたって神がモーセを羊飼いとなるべく訓練されたのも、燃える柴の所で神がモーセと最初に出会ったのも(出エジ3:1、2)、神が40年間繰り返しイスラエルにご自身を現してくださったのも荒野でした。また、神がダビデを王となるよう訓練した所も、エリヤがアハブ王から身を隠しカラスに食物を運んでもらった所も(Ⅰ列王17章)、イゼベルから逃げ、モーセと同じ山で神に会った所も荒野でした(Ⅰ列王19章)。バプテスのヨハネが生活し、仕えた場所も荒野で(マタイ3:1)、イエスが働きを始める前に試練を受けられた場所も(マタイ4:1)、そしてパウロがダマスコの近くまで来たとき、天からの光を見たのもおそらく荒野だと思われます(使徒9:3)。あなたは神に用いられるようになりたいと思いますか。もしそうなら、あなたの人生にやってくる荒野のような季節に抵抗しないでください。残念ながら私たちが神を真剣に求め始める前に、私たちはしばしば人生の干ばつとも言えるような渇きを体験します。ホセアはこう言っています。「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。」(5:15b)

・聖所

「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(詩 63:2)。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」(詩27:4、5)。ダビデが詠んでいるように、モーセやヨシュアも聖所で神を捜し求めました。

ダビデの願いは一日2度のいけにえを捧げるときに神に会うことではなく、主の家に住むことでした。イエスを信じる者にはそれが可能です。だからこそ神は私たちが主のうちにとどまるように励ましておられるのです(ヨハネ15:1、11

私は自宅でのプライベートな時間や帰宅途中の車中でも、ただ主と自分だけの素晴らしい礼拝を何度も経験し、この習慣をやめることができないことに気付かされています。けれども、「いっしょに集まること」(ヘブル10:25a)、また、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)とイエスは言われました。

ダビデは神が住まわれる所を愛しました。そこは幕屋であり神殿であって、天の御国にある神の御座の地上における模型です(ヘブル8:5)。やがて、天の御国で私たちが捧げる礼拝は、この地上で経験できる何事にも勝ってはるかに素晴らしいものです。それは個々の礼拝ではなく共同体での礼拝なのです。ヨハネの黙示録7章9節にはこうあります。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」

ヨム・キプールに祈るユダヤ人たち
(c) Israelimages / Yair Han

神は、私たちが個人として神を慕い求めるだけでなく、民族として慕い求めることをも望んでおられます。このことに関して、ユダヤ人は非常に優れていると思います。彼らがヨム・キプール(贖罪の日)に罪を告白するとき、定められた祈りの中では「私たち」という言葉を使用します。

彼らはしばしば民族として悔い改め、祈ります。神が選んだ民族として彼らを傍らに置かれたのは、間違いなくこの理由からです。彼らはネヘミヤ(1:7)のようなとりなし手の例に倣っています。『Basic Judaism(ユダヤ教の基本)』で著者ミルトン・スタインバーグは、「人は人としてのみ存在するのではなく、その地域社会の参加者として存在している」と説明しています。すなわち、人が孤独の中で神に呼び掛けるだけでは十分ではありません。人は他の局面からも主に頼らなければなりません。神は神の御体として、共同体として、共同体の中で共に神を探すようにと私たちに求めておられるのです。

なぜ神を求めるのか

先月号で述べた、「神を求める者には報いてくださる方である。」というヘブル人への手紙11章6節の、この報いとは何のことでしょう。詩篇63篇でダビデは、「私は、あなたの力と栄光を見るために……あなたを仰ぎ見ています。」(2節)そして、「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ」(3節)と言っています。また、「あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」とホセアは言います(10:12)。アモスは、「主を求めて生きよ。」(5:6)と私たちを励ましています。報いとは、終末のとき罪に定められないことだけではありません。キリストにあって私たち一人ひとりが行ったことに対する、神からの報いも指します。信仰者にとって、主を慕い求め、主に依り頼むことが私たちの人生そのもの、生きる力です。そしてその営みの中で、聖霊と共に行ったことについても神は喜び、報いてくださるお方なのです。

主を慕い求めることは、私たちが主にあってより良く生きる可能性をもつということなのです。

満ち足りる

詩篇63篇5節、「私のたましいが……満ち足りるかのように」と羊飼いであり王であるダビデは詩篇23篇でも同様のことを言っています。「私は、乏しいことがありません。」先月号でご紹介した『詩篇からの説教(Sermons from the Psalms)』の著者クロビス・Gチャッペル牧師は、神に満たされることがどのようなことなのかを、ある例話を用いて語りました。

「雌鶏がかえしたひな鳥の中に、他のヒヨコたちとは違う、幾分奇妙な醜いひな鳥がいました。その卵は岩だらけの山の斜面で見付けられました。醜いひな鳥にとって、納屋を囲む庭での生活は単調でつまらないものでした。彼はその生活に満足しているかのように見せかけましたが、うまくいきませんでした。彼の曲がったくちばしは場違いで、大きな翼は全く役に立たないように見えました。ぎこちなく哀れな彼は、この面白みのない世界を輝きのない目で見つめていました。彼がそこにふさわしくなく、招かれざる客であることは明らかでした。しかしある日、頭上で野生の鋭い鳴き声を耳にし、見上げたひな鳥の目は輝きました。自分とそっくりの立派な姿のワシを目にして、自分がずっと何に渇望していたのかが分かったのです。ひな鳥はつやのある茶色の翼を広げてみましたが、彼がいる所は広くて自由な世界とはほど遠い場所でした。彼は空のために造られ、山にそそり立つ岩のために造られたのです。ですから、納屋を囲む庭での生活に満足することはできませんでした。

この例え話のように、神より劣るものに私たちはもう満足することができないのです。私たちがそれを認識するかどうかに関係なく、これは真実なのです」。

私たちが必要とするすべて

イエスは山上の説教で語りました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31、33)。私たちは、クリスチャンとして求めるものの優先順位を狂わせ易い傾向にあります。自分のキャリアや物質的なものを第一とし、そのようなものが得られて次に時間があれば、神を慕い求めようと考えるのです。ところが、私たちが第一に主を探し求めるなら、主は私たちに必要なものを与えてくださるというのです。主は私たちにどのキャリアを選ぶべきか、どこに住むか、どの学校に行くべきかを主に求めるようにと願われているのです。そうすれば、主は確実に私たちの必要のすべてを引き受けてくださいます。

どのくらい神を求めているか

レベッカ・ブラウンは読者にいくつかの難問を投げ掛けています。「あなたはどのくらい神を求めていますか。この世を去った後、天国へ入ることが確実であれば、天国が不自由であっても、居心地が悪くても自分にとっては十分と思っていませんか。

私生活、目標、自分の夢以上に神を優先しているでしょうか。人生において、あなたが望んでいないことを神が求められたとしても、それを喜んで受け入る用意があるでしょうか」。

神をさらに求めるとき、犠牲を伴います。その犠牲を払うだけの十分な神への渇望がありますか。悲しいことに、「神を求めることの前進を妨げるものは、その犠牲を払うことへの恐れです」と、レベッカ・ブラウンは述べています。私たちはクリスチャンとして、イエスが聖書の中で実行された通りのことを進んで行うよう求められています。「わたしは……わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5:30b)

神が私たちを探しておられる

ダビデが求めたような関係は、神の側から始まります。私たちを招いておられるのは神ご自身です。「わたしの顔を、慕い求めよ。」(詩27:8a)、 聖書は神が熱心な探求者であると教えています。愛情深い羊飼いのように、神は数については関心をもたれません。群れを残してまでも、失われた一匹の絶望的な羊を探しに行かれるでしょう。エゼキエル書には、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」(34:16a)と書かれています。

私たちの心がダビデのような情熱を欠いているか、あるいは「前進」に要する鍛錬を欠いているなら、私たちがしなければならないのは「助けてください」と神に哀れみを求めることです。ご自分を求めよという神の願いは、私たちのためです。私たちが願う以上に神は私たちとのより深い関係を求めておられます。

これは、神が預言者エレミヤを通して私たちに語られた約束です。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(29:13)

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