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嘆きを喜びに変える -前編-

BFP編集部 2009年04月

神は、私たちが死に直面する中で嘆きを喜びと希望に変えてくださいます。

イザヤ書51章で、神は救いを受けた者たちにこう宣言されています。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。」(1節)「彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(11節)。メシアの役割は次の通りです。「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:3)

死と悲しみから、喜びへ

死はすべての人に訪れます。私たちの多くが人生の中でこの嘆きに直面します。歴史の中で、また考古学でも明らかにされているように、死とそれにまつわる一連の過程は宗教の種類にかかわらず、すべての人間の中心テーマとなっています。しかしながら、聖書の神を信じる私たちにとって、死に関するさまざまな不思議の多くはすでに解明されています。私たちもまた、死とそれに伴う悲しみを経験しますが、実際に私たちの嘆きは喜びへと変えられます。私たちはただ、主によって与えられた永遠の命という希望を握るだけです。主を信じる義人にとって復活は約束であり、死は神の御国において、別の次元へと移行していくことなのです。――私たちはこの世を去って、主にあっての永遠へと入っていくのです。これは信じる者にとって、聖書的真理です。来世について、旧約聖書に土台を置いているユダヤ教では、魂の永遠性、死者の復活、メシア到来後の世界があることを認めています。旧約の時代から天国は救いの最終目標であり、死は信徒を神の元へと導く案内人であると信じていました。天国は神を信じる者たちが喜びに満たされて楽しむ場所です。初期のクリスチャン、・痰ヲばローマにいた初期のクリスチャンは、カタコンベ(地下の共同墓地)に宴会の様子やたくさんの子どもたちが遊んでいる風景など、天国の想像図を描きました。故人に関する碑文などにも「神の元へと去った」「キリストと共に生きている」「星々の中で生まれ変わって喜びに満たされている」などと記しています。

聖書時代のイスラエルの墓。
大人数の収容が可能であった

ユダヤ人とクリスチャン、この両者にとって、復活と神の臨在の中で永遠に生きることは、これから先に起こる希望に満ちた出来事です。未来における復活は、神の権威の下、イスラエルの地とエルサレムを中心として行われるメシア支配に結び付いています。

聖書の中の死

聖書は死、葬式、また喪に服することについて何と言っているでしょうか。死はアダムとエバの堕落によって、この世界にもたらされた罪(原罪)の結果です(創3:22―24)。神は私たちを肉体、魂、霊の三つの部分に分けてご自身のかたちに創造されました。それゆえ、イスラエル人にとって死者を尊敬することは大変重要なことでした。しかし同時に、異教の極端な習慣は避けていました。エジプト人は死者崇拝に走り、逆にギリシャ人は死者を弔うことを軽んじました。埋葬に関する決まりごとはなく、当時の伝統と慣習に従って行われていました。ただし聖書では、カナン人の葬儀をまねをすることは特別に禁じられていました。死と埋葬について、聖書で触れられている数少ない箇所は次の通りです。「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」(申21:23)「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創3:19)。また、死者に触れる場合に関する、いろいろな律法がありました(民数5:1―4、19:16、申21:22、23)。これは埋葬に備えて遺体をどのように扱い、どこに安置するかを定めたさまざまな注意事項でした。

墓の入口を閉ざすのに
大きな石のふたが用いられた

聖書では人が死ぬ理由を二つ挙げています。

・その1――もともと神は地上のちりから人を造った。だから人は土に帰らなければならない。(創2:7、3:19、ヨブ10:9

・その2――人は罪のゆえに死ぬ。(創3:22―24

ユダヤ人は、死は消滅を意味するのではないと信じていました。その肉体は本来の土に返り(伝道者3:20)、そして、魂はシェオル(新改訳聖書で「よみ」創37:35)と呼ばれる永遠の場所へ向かう(民数16:33、詩6:5、イザヤ38:18)と考えていました。ダニエルの時代に啓示が与えられるまでは、肉体の復活があることも、また、ある人々は永遠の命を受け、残りは永遠の罰を受けることも明らかにされていませんでした。(ダニエル12:2

第二神殿期になると、サドカイ派とパリサイ派の間で復活に関する教義の相違が起こりました。パリサイ派はメシアが来てイスラエルを救う際、死者の魂が地に戻ってきて、肉体が再生され、復活すると説きました。サドカイ派は肉体の復活を否定しました。新約聖書の時代に入り、永遠の命という概念が発達していきました。キリスト教の基本として、人は罪の中に生まれるが、イエス・キリストの死によるあがないを信じることで、罪を告白して赦され、天国で神と共に永遠の時を生きると教えられています。この信仰なしでは、神から引き裂かれ、地獄で永遠の時を過ごすことになるのです。イエスが地上に再臨されるとき、肉体の復活があるという概念もまた、新約聖書の中で発展していきました。(ヨハネ3:16、36、ローマ6:23、Ⅰコリント15:12―23

死の影響と主の守り

家族、一族、部族、あるいはその集落の安全を支えるのは、そこに属する人々でした。聖書時代、生きることの不安定さは現代とは比べようもなく厳しいものでした。それゆえ父や母、近しい親類、また子どもが亡くなることは、人々にとって単なる感情的な喪失だけでなく、その集団にとって容易に調整できない問題が生じる可能性をも意味しました。

エルサレムにあるヤソンの墓。
故人を記念するデザインとして典型的な例

夫よりも長生きした女性は苦境に立たされました。夫の財産を相続することができないのです。しかし、夫の身内の誰かが彼女と再婚するなら、彼女は夫の家にとどまることができました(申25:5、6、ルツ3:12)。それ以上に、やもめは経済的な支援を受けることができませんでした。それゆえ聖書では、やもめを守り大切にすることを義務付けています(申10:18、14:29、24:17―21)。預言者マラキによると、やもめを圧迫した人物には、魔術を行う者、姦淫を行う者、不正直な雇い主が受けるものと同等の罰が待っているとされています。(マラキ3:5

初期の教会ではやもめを世話するための特別な献金項目がありました(使徒6:1)。また、やもめや孤児を大切にするよう(Ⅰテモテ5:3、4、8―10)。ヤコブは彼らを世話することこそ真の信仰であると説きました(ヤコブ1:27)。ルカの福音書7章11節から17節に記されている奇跡の中で、イエスは、ひとりのやもめがたった一人の息子を亡くして嘆き悲しんでいるのに出会いました。こう書かれています。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。」(13、14節)。おそらく彼女にとって、息子は唯一の生きがいであり、社会的保障と同等でした。その息子をイエスはお返しになったのです。

喪の期間の嘆き

イスラエルでは、重要な人物が亡くなった(Ⅱサムエル3:31)、ある個人に大きな災いが起こった(Ⅱサムエル12:15、16)、または会衆全体に悪い知らせが来たとき(民数14:1―6)、そのニュースは大声で伝えられ、人は服を引き裂いて嘆きを表し(創37:29―34、Ⅱサムエル1:11、3:31)、自分が喪に入ったことを近所の人々に知らせました。

喪の期間は通常7日間とされました(創50:10)。喪の期間中、人々は食事や飲み物を携え、喪に服する家人を慰めにやって来ました(Ⅱサムエル3:35)。ユダヤ人は葬式の時の食事の規定を守りましたが、後にクリスチャンもそれを行いました(今日ユダヤ人たちはいまだにシヴァ―ヘブライ語で「7」の数字を意味する―と呼ばれる1週間の喪の期間を守る。遺族は友人たちと共に泣いたり、笑ったりしながら時を過ごし、故人について思い出を語り合う。これは、愛する者の死を敬う行為であり、彼ら自身の魂が癒やされるための期間である)。

悲しみの雰囲気をより高めるために、こうした喪専門の「泣き」を職業としている人々が雇われました。ほとんどの場合、泣き女と呼ばれる女性が葬式の場に招かれ、嘆きを盛り上げました(エレミヤ9:17)。エジプトの壁画には、泣き女が立ったまま髪を振り乱して泣く様子が描かれています。ここからも、それが古代の中東において広く行われていたことが分かります。

古代エジプトの壁画に描かれた
“泣き”専門の女性たち

泣く、叫ぶ、服を引き裂くといった行為のほかに、喪に服することの嘆きを表すものとして、胸をたたく(ルカ23:48)、頭を覆って裸足で歩く(Ⅱサムエル15:30、19:4)、荒布を身にまとう(創37:34、Ⅱサムエル13:19、エレミヤ6:26)、頭や顔、衣類に灰をかぶる、などがあり、これは、神と他の人々の前に身を低くする(ヨシュア7:6、Ⅰサムエル4:12、Ⅱサムエル13:19)思いを表す姿勢でした。喪に服する人々は足を洗うこと、ひげをそること、服を洗うこと(Ⅱサムエル19:24)を禁じられ、油や香を付けることも不可(Ⅱサムエル14:2)とされました。また、肉と酒を一緒に取ることも避けられました(ダニエル10:3)。喪に服する人は、地べたの灰やほこりの中に座り、身を震わせて嘆き悲しんだのです。(エゼキエル26:16)頭髪をそる、皮膚を傷つける、ひげの一部をそるなどの行為はカナン人が行っていたもので、イスラエル人には禁じられていました(レビ19:26、27、21:5、申14:1)。しかし、こうした風習は律法よりもより強力なもののようです。(エレミヤ16:6

次号、 後編では聖書の中の埋葬風習について学び、その中から見いだせる嘆きに対する神の真理を理解していきましょう。

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