ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇103篇6~18節

詩篇103篇の前半には、神と契約を結んだ民だけが感謝できる特別な約束と祝福を忘れてはいけないと書かれていました。

まことの神を主としてない人たちも、 感謝の心を大切にする人たちは多くいます。彼らが感謝できる理由は、天地を創造された神が恵みに満ちあふれており「 悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」方だからです。義人であっても、なくても同じように健康、知力、成功などを与えてくださいます。場合によっては、神を認めていない人の方が恵まれて見えることもしばしばです。

ダビデがここで忘れてはいけないと教えているのは、単なる感謝の心ではなく、神に属していることによってしか体験できない特別な祝福のことなのです。

この中盤では、そのような特別な祝福を忘れてしまったとしても、彼らを優しく扱ってくださる神の素晴らしさが語られています。そこには、どれほど感謝もなく、信仰もなく、精神的にも肉体的にも弱い民であったとしても、神は変わらず愛を注ぎ、恵みによって彼らの歩みを支える事実が強調されています。

不従順な民と優しい父

103:6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。
103:7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。

ここでダビデは出エジプトの物語に戻ります。そして主がどれだけ救いようのない民に正義を与え、彼らを素晴らしい恵みによって祝福したかを思い出しています。イスラエルの民は、エジプトで400年以上も奴隷として虐げられていました。しかし、神はアブラハムに与えた契約を思い起こし、彼の子孫をエジプトから贖い出されました。

イスラエルの民を救っただけではなく、その後もその素晴らしい力によって彼らを救い続けたことが7節に書かれています。主は、モーセを通してイスラエルの民を救われましたが、モーセが亡くなった後も、イスラエルの民を見捨てることはなかったのです。ここでは、主が積極的に、彼らを救い、彼らを導いてきたことが強調されています。しかし、ここでダビデの意図は神の契約に対する誠実さを讃えるだけでなく、エジプトから贖われた民がどれほど早く主を見捨て、他の偶像についていったかを思い起こさせるためでもあったでしょう。

主が約束するすべての利益を忘れるな、という命令の後に、イスラエルの民の歴史を振り返ることによって、彼らの過ちを繰り返すな、という意図があったのでしょう。

103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。

この節は出エジプト記34:6をほぼそのまま引用しています。出エジプト記34章には、神がイスラエルの民をご自身の所有とされ、彼らに律法を与えた直後の話しが記録されています。そこには、彼らがまことの神だけを主として礼拝すると約束した直後に、金で大きな牛の偶像を創り、それを礼拝したことが書き残されています。

つまり、この聖句を引用することで、イスラエルの民がその初期のころから、神が与える利益をすぐに忘れ、偶像に従う歴史を持っていることを思い起こさせているのです。ダビデはイスラエルの民がどれほど神に祝福に相応しくないかを強調し、それでも彼らを見捨てない神の大きさを讃えているのです。

ここで大切なことは、主が「あわれみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵み豊かである」事実を私たちが忘れてはいけないということです。まことの神がどのようなお方であるかを正しく知るためには、神が聖霊を通して聖書に書き残された言葉を学ぶしかありません。そこには、神が聖い、または愛であると書かれていますが、それらよりも頻繁に神が「あわれみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵み豊かである」と書かれています(参照:出エジ34:6-7、民数14:18、ネヘ9:17、詩86:5、15、145:8、イザ55:7、ヨナ4:2、ヨエ2:13)。聖書に、これほど繰り返し使われているのですから、私たちもこの言葉を用いてお互いを何度も励まさなければいけません。

103:9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

この節には、神の愛情が最大限に示されています。人間は心を傷付けられると人を憎み、怒り続けます。妻が夫に対して不誠実であれば、夫が妻を愛していたとしても、相手を完全に許すことは人並みの力ではできません。聖書によると、私たちが神から離れ、心の偶像に従っていく時、私たちは神に対して不誠実な妻のようであると表現されています。しかし、神は人とは異なり、私たちが悔い改めると私たちの罪を赦し、怒りをなくしてくださるのです。

神が私たちをそのように扱ってくださる理由は恵み以外に何もありません。ですから、神の恵みを体験した神の民に神は、その似姿として隣人をそのように扱うことを律法の中で命じたのです。

神が私たちに怒り続けないから、私たちに、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である(レビ19:18)」と求めることができるのです。

103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

神は、怒りの感情を抑えてくださるだけではなく、正義の裁きさえも抑えてくださいます。旧約聖書の中でもここに書かれている節ほど、罪人に喜びを与える良い知らせはありません。これは、神が悪を裁かないということではなく、私たちの咎にしたがって私たちに報いることをしないということです。

旧約時代では、故意に罪を犯した場合、その人の心は神に拳を突き上げているということで、冒涜者として石打ちの刑に合いました(参照:民数記15章)。イスラエルの王であったダビデは、数多くの律法と神から与えられた特別な命令を破りました。しかし、ダビデは石打ちになることはありませんでした。神は正義を全うされます。ですから、神に対して犯された罪を見て見ぬ振りをするのではなく、キリストが十字架にかかるという前提によって、彼らを律法の言葉どおりに扱うことをされなかったのです。

パウロは、そのことを「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです(ローマ3:25)」と説明します。

103:11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

この節では、当時の人たちにとって天と地上の距離が計り知れなかったほど、主がその民に示す愛と恵みの量は計り知れないことを教えます。

ヘブライ語で「天」は「シャマイーム」と言います。そして、1節で登場する「名前」という言葉は「シャム」といいます。同じ詩の中で発音が似た言葉を使った言葉遊びをすることによって、主の恵み、御名、その偉大さはまさしく偉大な天のような様子だということを表しているかのようです。「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実(誠実さ)は雲にまで及びます(詩篇36:5)」とダビデ王が歌うように、神の契約への忠実さ、主の愛情は、この地上に属するレベルのものではありません。

「主を恐れる」とは主を怖がることではなく、主に対する驚きと謙遜から生じる健全なつつしみによって、主の言葉に聞き従うことを示します(参照:出エジ20:20)。この文脈で、主を恐れる者は、主が約束される利益を忘れずに、主との契約に基づきモーセの律法を守ることです。新約時代では、モーセの律法ではなく、キリストの律法を実践するものが主を恐れていると言えるでしょう。

103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

当時、「東」という言葉は「日の出」という意味があり、「西」には「日の入り」という使われ方がされていました。つまり、日の出と日の入りが同時に同じ場所で起こらないのと同じように、私たちと私たちの罪が同じ場所に無いようにされるということです。

天と地の距離が「垂直」の次元を指すとすれば、「東」と「西」は「水平」の次元を指します。まずは縦の神の愛と恵みがあることによって、横の赦しを体験できます。神の恵みと赦しの高さ、広さを理解することによって私たちに礼拝の心と神に従うやる気が生まれてくるのです。

パウロが「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように(エペソ3:18-19)」と書いた時に、この詩篇を考えていたかは分かりません。しかし、ここで神の愛のさまざまな側面を「すべての」クリスチャン(聖徒)と共に理解する大切さが強調されています。これらのことを神の民として理解することは、神の民として神に仕えるために必要です。そして、この愛を理解する過程は、個人単位で行うのではなく、神に属する神の家族と共にしなければいけません。

103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

計り知れない神の愛と恵みの量は、計り知れない天と地の距離によって量ることができます。しかし、もう一つの神の愛の量り方として、親が子供に対する計り知れない愛情から知ることもできると詩篇は教えます。

主はイザヤを通して「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない(イザヤ49:15)」と言われました。

多くの現代人は、親の役割を理解していない、または知っていたとしてもそれらを果たすことができなかった親に育てられていることがあります。そのため、聖書が神のことを「天の父」などという表現で表すときに、聖書の意図が伝わらず、神を遠い、親密ではない存在ととらえてしまうこともあります。この地上での親が不完全であったとしても、まことの親である神は完全です。そして、この地上での親が私たちから離れていたとしても、まことの主は私たちの隣にいつもいてくださり、私たちに深いあわれみを示してくださるのです。

それだけではありません。主は私たちの成り立ちを知っておられるのです。「私たちがちりにすぎないこと」という表現は、人間の価値が塵ほどでしかないと言っているのではありません。ここで言っているのはその正反対のことです。この詩篇の著者は、主が人間をちりから創られたこと(成り立ち)を忘れていないことを強調しているのです(参照:創世記2:7)。つまり、私たちがどこから、どのように、そして、何のために創られたのかを覚えてくださっているのです。

主は、私たちのことを親密に知っておられるのです。私たちが、自分のことをよく知っていると思っている以上に、私たちのことを知っておられるのです。私たちの弱さ、はかなさ、罪深さをすべて知っておられるにも関わらず、それでも私たちのことを愛し、求め、赦し、救ってくださるのです。

103:15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
103:16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
103:17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
103:18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。

15-18節は、この詩篇の中心となる箇所です。この箇所は、人のはかなさと主の恵みの確かさを比較します。また、人間のつかの間である人生を遥かに超越した神の契約に対する誠実さを唄っています。

聖書は、草や野の花を用いて、この地上での人間の繁栄の限界を教えます(参照:ヤコブ1:10-11、Iペテロ1:24、ヨブ14:2、詩37:2、20、90:5等)。

この真理は、イザヤ書40:6-8で繰り返されています。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

イザヤ書では、永遠に保たれるものは神のことばであると教えますが、神のことばとは神の恵みが約束されていることばです。

神の民は、すぐに世代交代をします。新しい世代が生まれたかと思うとすぐに次の世代とバトンタッチをします。それぞれの世代が神に対して律法を守る責任が与えられ、それぞれの世代がその責任を完全に果たせずに尽きてしまうのです。しかし、それらの不誠実な神の民のパターンとは対照的に、神の契約に対して誠実でいてくださる不変の神がおられることは、すべての世代の神の民に希望とおそれを生じさせます。

ここで、忘れてはいけないことは、この詩篇はモーセの契約のもとにいたイスラエル人たちに与えられていたということです。

新約時代では、これと同じ祝福がモーセの律法を守る者にではなく、キリストに属する人たち、そしてキリストの律法を守る人たちに約束されています。神の祝福は、主を恐れて従う者の上にあるという真理は時代が変わったとしても変わらないのです。

信仰生活と詩篇

この詩篇を読む時に、私たちが受けるべきいくつかの印象があります。一つ目は、まことの神は私たちが想像している以上に優しく、身近で、あわれみと恵みに満ちておられる方であるということです。

神は正義の神であり、罪を裁かれるお方でもあります。しかし、神は私たち罪の代価を私たちに負わせるのではなく、キリストに身代わりとして負わせました。そして、私たちの罪のためにキリストが代わりに裁かれたと聖書は教えます。

そのため、キリストに属する人は、罪を犯してもその罪のために裁かれることはありません。神が私たちの成長のために罪を犯し続ける私たちを懲らしめることがあったとしても(ヘブル12章)、それはあわれみに満ちている神の愛情表現であり、罪の裁きではありません。

神は罪を裁かれる方ですが、私たちをその罪に応じて報われるのではなく、私たちが神のあわれみを体験できるように救い主を送ってくださったのです。そして、すべての人が神の素晴らしさを体験できるように、罪人が悔い改めることを望まれているのです。

聖書には、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(IIペテロ3:9)」と書いてある通りです。

もし、私たちがそのような忍耐のゆえに滅ぼされず、救われたのであれば、他の罪人たちも同じあわれみを受けることができるように、自分たちを苦しめる人たちに裁きを望むのではなく、キリストの愛を伝えることが求められるのではないでしょうか。

もう一つ学べることは、神の忍耐と恵みは私たちが神を主とし、主に仕える心のためであることを忘れないということです。

この詩篇では、「主の恵みは、主を恐れ、主の契約を守り、その戒めに心を留めて行う者に及ぶ」と書かれています。

ここで「恵み」と訳されているのは、「ヘセッド」という言葉で、神の民に特別約束する契約に誠実な神の愛を示します。つまり、ここで恵みと訳されている言葉は、パウロが使う「恵み」vs.「行い」の恵みではなく、神の民の生活の中で体験する恵みです。

この「恵み」を新約用語に変えるなら「慈愛」と訳することができます。パウロは、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか(ローマ2:4)」と書くことによって、神の慈愛から生まれる忍耐と寛容を軽んじてはならないことを強調します。むしろ、それらによって悔い改めることが求められると教えます。

旧約時代であれ、新約時代であれ、どの時代であったとしても、神の民に求められることは同じです。それは、神の恵みを理解し、悔い改めることによって、神の律法(旧約=モーセ、新約=キリスト)を守ることであることではないでしょうか。

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