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ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇103篇1~5節 【前半】

感謝の詩篇

詩篇103篇は、ダビデの感謝の詩です。感謝は礼拝の重要な要素です。もちろん、感謝の心がなくても神の価値を認めることはできます。しかし、感謝の心は神の恵みを理解し、体験している表れなのです。

ダビデは礼拝にあたって、自分の心を整えます。まず、神から受けた恩恵を思い起こします。次に、自分がその祝福にどれほど値いしないかを考えます。その結果、感謝の心に満たされ、神によって創られたすべてのものがダビデと共に神を礼拝するように勧めているのです。

詩篇103篇は、150ある詩篇の中でも特に印象的です。詩の構成も芸術的に巧みに組まれています。日本語訳では明確に認識しにくいですが、この詩篇は交差対句法(中心に最も言いたいことを配置する表現法)によって書かれています。以下のように、対になっている言葉を拾っていくと、この詩篇の主題が、「人間のはかなさと比べて圧倒的に素晴らしい神の偉大さ」であることが見えます。

 A わがたましいよ。主をほめたたえよ(1a)
  B 主はすべての必要を満たされる(1b-5)
   C 正しいことを行われる神(6)
    D 主はご自身をイスラエルの子らに知らされた(7)
     E 主の永遠のあわれみ「いつまでも」(8-9)
      F 主が民をどのように扱うか「せず・ない」(10)
       G 主の優れた偉大さ「ように」(11-14)
       G 人の哀れなはかなさ「ように」(15)
      F 現実が人をどのように扱うか「ない、ない」(16)
     E 主の永遠の恵み「とこしえに」(17a)
    D 主の義はイスラエルの子らの子らに及ぶ(17b)
   C 正しいことを行う者(18)
  B 主が治めるすべての者は主をほめるべき(19-22a)
 A わがたましいよ。主をほめたたえよ(22b)

(Gが主題)

詩篇103篇は、ヘブライ語でユダヤ人の視点から読むのと、日本語訳を読むのとでは、だいぶ印象が異なります。まず、日本語に含まれていないニュアンスがヘブライ語に含まれていること。そして、この詩の背景に、モーセの契約があるからです。この詩篇の本当のすばらしさを理解するには、神がイスラエルの民と結んだ契約という背景を知ることが重要です。

モーセの契約は、イスラエルの民と、彼らの主としてご自身を明かされた創造主との間に結ばれた契約です。それは教会とキリストとの間で結ばれた契約と異なります。そのため、主とイスラエルの民との間では、他の異邦人たちには無関係な約束や決まり事があったのです。イスラエルは、律法をすべて守れば、すばらしい祝福の約束が与えられていました。同時に、彼らが律法を破れば、異邦人が体験しないような災いが降り掛かれることが約束されていました。

ダビデは、そのような特別な契約と責任が与えられている、特別な民の王としてこの詩篇を書いたのです。ですから、この詩篇に書かれているすべての約束はイスラエルに向けて書かれています。私たち教会が、自分たちに与えられていない約束に信仰を持ったとしても、その信仰が報われる保証はありません。

しかし、ここに書かれている多くの原則は時代を超えて、すべての神の民として呼び出された人たちに当てはまります。その原則とは、神の約束の背後にある「神の愛と恵みと不変さ」です。主がイスラエルの民に与えられた約束に忠実でいてくださったように、主が教会に与えれらた約束に、同じ愛と恵みと不変さをもって、忠実でいてくださる、という確信を持つことができるのです。

ダビデの賛美 103:1-5

103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

ダビデは、自分の心に主をほめたたえるよう言い聞かせます。ここで「たましい」と訳されているヘブライ語は「ネフェシュ」という言葉です。これは元々「喉」を指す言葉ですが、そのうち、人の「息」や「いのち」を指すようになりました。人は喉を通して呼吸をし、その息によって生きるからです。息をしなくなったら、その人のいのちが終わったと彼らは考えたのです。

同時に「ネフェシュ」という言葉は、人間の感情を司る器官としても理解されていました。ここでの「たましい」は霊魂のことではなく、心の感情や意思のことを指しています。ダビデは自分の心の中にある感情が、主をほめたたえることができるように準備しているのです。

ここで「主」と訳されているヘブライ語は「ヤハウェ」です。この「ヤハウェ」という名前はモーセの契約をイスラエルの民に思い起こさせる時に使う特別な名前です。次の「聖なる御名」とは、比べるものがないほど優れた御名のことを指します。当時、人の呼び名は、その人の価値や働きや地位を示すと考えられていました。聖書にいくつも登場する神の名前は、目に見えない神がどのような存在であるのかを私たちに教えてくれます。

ヘブライ語で「主の良くしてくださったこと」は、一つの名詞です。この言葉を直訳すれば、「利益」という意味です。特別な主との契約があることによって、その民だけが体験できる有利さを忘れてはいけないということです。ここで「忘れる」とは、ただ物忘れをしているのではなく、心が高慢になり、神から与えられたものを当たり前に考えている心の状態を指していると思われます。II歴代誌32:25には、「ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた」と書かれていますが、この「恵み」に同一の単語が使われています。では「主の良くしてくださったこと」=「利益」の中身を見ていきます。

主の契約の民に与えられていた利益

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

ここでの利益は、主と契約関係を持っている民だけが体験できるものでした。まず、主はモーセの契約の中で、イスラエルの民のすべての罪を赦すことを約束されました。

主は、モーセに「主、主は(ヤハウェ、ヤハウェは)、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者(出エジプト34:6-7)」と言われました。それに対してモーセはイスラエルの民が非常に強情であることを認め、彼らの「咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように(34:9)」と求めました。主は、「今ここで、わたしは契約を結ぼう(34:10)」と約束して彼らの罪を赦すことを約束されました。

詩篇130篇に、「イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される」と書かれているように、彼らは契約の民であることを条件として、彼らのすべての罪が赦される希望を持てたのです。

二つ目の利益として「あなたのすべての病をいやし」と書かれています。この聖句もモーセの契約という背景を無視しては、解釈できません。ここで、「病」と訳されているヘブライ語は、いわゆる一般的な病気を指す言葉ではありません。ここで使われている言葉は、神との契約を破ることによってイスラエルの民に降りかかる、特別な裁きの病のことを指しています。

ここで使われている「病」というヘブライ語は、聖書の中でこの箇所を含んで5回しか登場しないことからも、特別な用語であると分かります。モーセの契約がイスラエルと結ばれた時に、もし彼らが契約に従わず、神から離れ、偶像を礼拝するようなことがあれば、裁きの一つとして、病が下ることが約束されています。(参照:申命記29:21-22)重要なのは、これが義人でもかかる一般的な病気ではなく、 罪のゆえに“主が起こされた”特別な裁きの病と書かれていることです。

この裁きを体験したイスラエル人として唯一記録されているのは、神の前で多くの悪を行ったヨラム王です。「主は彼を、その内臓を打たれた。彼は不治の病になった。年は巡り、二年の終わりが来ると、彼の内臓は病のために外に出てしまい、ついに彼は重病の床で死んだ。彼の民は、彼の父祖たちのために香をたいたようには、彼のために香をたかなかった(II歴代誌21:18-19)

この特別な「病」という言葉が使われている他の2カ所も(参照:エレミヤ14:18、16:14)、神がイスラエルの罪のゆえに 特別に下される災いについて書かれている箇所です。つまり、ここでダビデが語る利益とは、神が、私たちのどのような病気でも癒やしてくださるということではありません。イスラエルの罪を赦される神が、特別な裁きの「病」を取り除いてくださるということです。

このような災いが下される可能性は、教会時代にもあります。キリストの流された血によって実現した教会の一致を象徴する聖餐式を、わきまえないで行う人たちに与えられる災いがそれです。「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます(Iコリント11:27-30)

しかし、クリスチャンが体験するすべての病気 が神の裁きの表れではありません。パウロは、弟子のテモテに「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい(Iテモテ5:23)」と教えました。たびたび病気になるのは、義人でも避けることができない現実です。その場合には、罪から悔い改めるのではなく、その病状にあった薬を取る必要があるのです。歴史を通してすでに私たちが知っているように、神が、すべての人のすべての病を癒やされないことは明確です。ですから詩篇103:3のみことばを時代背景と文脈を無視して読むと、間違った信仰観を持つ結果につながりかねません。

後半では、4〜5節の解説と、私たち現代に生きるクリスチャンへの適応を学びます。
詩篇103篇1節〜5節 【後半】‏

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