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「シオンへの帰還」神のご計画における“アリヤー” -前編-

レベッカ・J・ブリマー/ブリッジス・フォー・ピースCEO(最高経営責任者)

1943年、ハンガリーからイスラエルに
帰還してきたユダヤ人

イスラエルは奇跡の国です。今日、その人口は700万近くに達していますが、この小さな国が、大挙する移民を受け入れることができたのは、神がなされた大いなる奇跡であると、私はいつも思ってきました。

私たちは歴史上、特別な時代に住んでいます。聖書には、世界に散らされたイスラエルの民が、もう一度約束の地へ連れ戻される預言が随所に記されています。そして今、神はユダヤ人をイスラエルへ連れ戻しておられます。この15年間だけでも百万人以上の人々が帰ってきました。聖書の預言が実現する様子を、私たちは自分の目で見ています。イスラエルに住んでいると、聖書の預言のみことばを読み、毎日のニュースの中でそれが実現していくのを見るだけでなく、世界中の国から戻ってくる新しい移民を迎えることにより、そのみことばのリアリティーに触れることができます。

預言者エレミヤは現代について、次のように記しました。

「それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておらる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」(エレミヤ16:14-15)

イスラエルには今日も、世界中
からユダヤ人が帰還してくる

現在の奇蹟

今日イスラエルに住んでいると、この「シオンへの帰還」が実現している証拠をあらゆる所で見、感じることができます。

イスラエルの街路を歩けば、世界中から帰還した多くのユダヤ人の姿を見ます。あまりにも日常的な光景になっているこの現実も、今からほんの65年前には、考えられないことでした。当時、世界は第二次世界大戦の真っただ中にありました。神がイスラエルに対するお約束を成就なさることを、信じることは不可能ではないにしろ、非常に困難なことでした。

私の父、デービッド・ルイス博士は少年の頃、アメリカ合衆国サウス・ダコタ州の田舎の小さな集落に住んでいました。1940年の初めごろ、ドイツからハンス・ブレッツナイダーという説教者が、父の属する教会に来ました。

この、聖書を熱く語る若いドイツ人牧師の言葉は、
人々にとって嘲笑の的となった。

折しもヨーロッパは第二次世界大戦のさなかで、ユダヤ人にとっては史上最暗の時代でした。そのような政治的背景を反映して、ブレッツナイダー師は、聖書預言のみことば――「ユダヤ人はイスラエルに戻ってきて、もう一度国を再建することになると聖書は教えているのだ」と語りました。

父はその時非常に若かったのですが、その小さな町の人々が、この勇敢なドイツ人の説教者をいかに嘲笑していたか、鮮明に覚えていました。それから数年後、父は学校で、ラジオのスピーカーから流れる、イスラエル再建のニュースを聞きました。それを聞いた瞬間、神のみことばは真実であり、すべて成就するのだということを悟って鳥肌が立ったそうです。以後、父は、聖書預言の研究に生涯を捧げました。

古代イスラエルの人々は預言は聴いたが、
その実現を目にすることはなかった。
この時代に生きる私たちは、彼らが
見れなかったものの目撃者となっている

このような背景から、私自身も、聖書の預言のみことばを教えられ、その成就のために祈りながら成長してきました。私はしばしば父が聖書を読み上げ、神がそのみことばを実現なさるために御業をなさるのだ、と語っているのを聴きました。何という驚くべき時代に私たちは生きていることでしょう!!旧約の預言者たちは、今の私たちのように生きたいとどれほど切に願ったことでしょう。彼らは預言を書き下ろしましたが、私たちはその実現を後押しするという特権にあずかっているのです。

死から生命へ

ホロコーストの灰の中から、神は乾いた骨(エゼキエル書37章)を集め、命の息吹を吹き込んでくださり、ユダヤ人を生き返らせ、回復し、彼らの故郷であるイスラエルに連れ戻してくださいました。こうして1948年5月14日、現代イスラエル国家が誕生しました。今日展開されているイスラエル国家の建設とユダヤ人の帰還は、この世に対して神がご自身の存在を証明しておられる、重要な手段なのです。

アウシュビッツへの
線路

「アリヤー」こそ、イスラエル国家の存在理由

アリヤー(ユダヤ人たちがイスラエルに移住すること)こそ、新しい国家の基盤でした。そのことは、国家再建の初日に読み上げられたイスラエル建国の宣言文の中に、明白に表されています。イスラエルの最初の首相ダヴィッド・ベングリオンは、世界中のユダヤ人社会に向かって訴えました。

「ディアスポラ(離散――ギリシャ語の“散在”に由来し、イスラエルの外にユダヤ人が散らばって住んでいる状態を指す)のユダヤ人すべてに対して、アリヤーによって祖国と結ばれ、共に祖国を建て上げ、ユダヤ人たちの救いをもたらす絶好の機会を捕らえるように呼び掛けます。それこそ何世代にもわたる、私たちの夢でした。」

昨年、ホロコースト記念日にアウシュヴィッツ
収容所跡で行われた大ラリー「命の行進」。
約2万人のユダヤ人・クリスチャンが
一堂に会した

今日、イスラエル国家のウェブサイトには、「離散したわれわれ民族が、その祖先の故郷に集められることこそ、イスラエル国家の存在理由なのです」と謳われています。

“アリヤー”はヘブライ語の言葉で、字義的には「上ること」を示し、イスラエルにユダヤ人が移民することを指しています。ラビたちは、この文脈における「アリヤー」は具体的な移民を意味するだけでなく、霊的な意味ももっていると語っています。ユダヤ人は皆、この「上ること」ことこそ、ユダヤ教の核心であると教えられてきました。これは、ユダヤ人として、同胞と一つになることの究極的な自己認識です。イスラエル人の人生と運命は、イスラエルの地としっかり結び付いているのです。

「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。」(イザヤ43:5-6)

イエメンから帰って
きたユダヤ人女性

近代アリヤーの歴史

近代のアリヤーはイスラエル建国前から行われていました。現代まで続くその道のりを振り返ってみましょう。

第1次アリヤー(1880年代―1904年)

東ヨーロッパとイエメンから2万5千人のユダヤ人が帰還してきました。ロシア・東ヨーロッパでポグロム(帝政ロシア期の、組織的なユダヤ人迫害・虐殺)が発生し、反ユダヤ主義がひどくなる中、社会で生きていけないユダヤ人たちがこの波に乗りました。一方、イエメンのユダヤ人は、「メシアがすぐにでも到来される」という信仰に立って帰還してきました。

「アリヤー」とは、ヘブライ語で字義的には
「上る」を意味し、イスラエルへ帰還するこ
とを指す。「上る」という言葉には、霊的・
物理的両方の意味があり、ユダヤ教の
信仰にとっての大切な一要素である
第2次アリヤー(1904年―1914年)

4万人の人々が帰還しました。その大部分はロシアからの移民です。1903年に起こった大変厳しいポグロムが、当時ロシアに住んでいたユダヤ人たちを刺激し、彼らの思いをいにしえの故郷へと向けさせたのでした。

ポーランドからの移民(1920年)
第3次アリヤー(1919年―1923年)

第一次世界大戦が終わり、バルフォア宣言(イギリスがパレスチナにユダヤ人の故郷建設を認めた)が1917年に出されて以来、3万5千人のユダヤ人がシオンに帰還しました。

第4次アリヤー(1924年―1932年)

イギリス政府が、イスラエルの社会に貢献できる人々に対して移民許可を出して以来、貿易商、技術者、学者など、資産や知識をもっていた6万5千人が戻ってきました。

第5次アリヤー(1933年―1939年)

ナチスの手をのがれ、25万人のユダヤ人がイスラエルに逃れてきました。民族存亡の危機に直面していたからです。

青年のアリヤー
青少年移民

この、“青年のためのアリヤー”は、最初、ナチス・ドイツからユダヤ人の若者を救出するために組織されました。第二次世界大戦より前に、5千人の青年が帰還し、彼ら専用に設けられた学校で教育を受けました。戦後、1万5千人の若者(その大部分がホロコーストを生き延びた)が加わりました。今日でも、この移民青年の収容施設は、新しく帰還してくる若者を受け入れるだけでなく、貧困家庭に育った何千という若者たちに対して、イスラエルに根を下ろし、成功するための機会を提供しています。

第二次世界大戦(1939年―1945年)
ナチスの強制収容所で着せられていた囚人
服のまま、イスラエルにたどり着いた若者たち

この期間のアリヤーは、ナチス・ドイツによって支配されていたヨーロッパからユダヤ人を救い出すことに焦点が置かれました。1939年、国連の依頼でパレスチナを委任統治していたイギリス政府が、現地へのユダヤ人移民を制限するという政策を採りました。これにより、正式なビザを発給されて戻れるユダヤ人はわずかとなり、大部分は、違法な手段で帰還してきました。この違法移民は「B級アリヤー」と呼ばれ、ヨーロッパや中東諸国から、陸伝いに、あるいは海を渡って、イギリスの監視をくぐって帰還してきました。ヨーロッパの国々との接触は絶たれ、しかも戦争の最中、海を渡ることは大きな危険を伴いました。やっとのことでたどり着いた数隻の船も、イギリスの官憲に見つかり、送り返されてしまいました。多くの命が海の藻屑として、あるいはヨーロッパのナチスが作り出した地獄の中で消されてしまいました。

戦後
1944年から1948年までの間、66回にわたって船による
不法移民が組織された。しかし、イギリスの目をかい
くぐってパレスチナにたどり着けたのはわずかである

当時、東ヨーロッパにいたユダヤ人は、いかなる手段を用いてでもヨーロッパを離れようとしていました。“イシューヴ”(パレスチナ在住のユダヤ人)によって派遣されたスパイ、ユダヤ人バルチザン(ゲリラ隊員)、シオニストの青年運動などが協力して『ベリハ』と呼ばれる救援組織を立て上げ、その結果、約20万人のユダヤ人をヨーロッパから亡命させることに成功しました。彼らの大部分はパレスチナに定住しました。

イギリスが、年間たったの1万8千人しか移民を受け入れないという規制を設けていた中で、違法な移民こそがユダヤ人の最大の手段でした。この数年間に、移民の不法渡航が66回にわたり組織されました。そのうちのほんのわずかな船だけが、イギリスの封鎖をかいくぐって港に入り、人々を無事に上陸させることができました。イギリスは移民を乗せた船を海上で阻止し、キプロス島の難民収容所に収容しました。収容された大部分の人々は、建国後初めて、祖国の土を踏むことができました。1945年から45年の間に、パレスチナに到着した違法移民は約8万人に上ります。イギリスの委任統治期全体からすると、順法・違法を問わず、帰還してきた人々の数は、合計しておよそ48万人です。その90%はヨーロッパからの移民でした。

1981年、エルサレムから投函された一通の
手紙。ホロコーストで生き別れた家族の
消息をたずねる内容である

建国が宣言された1948年までに、パレスチナのユダヤ人人口は65万人に達していました。

以上、建国直後までのアリヤーの歴史を概略から振り返ってみました。これがすべて、神の預言の実現で起こった出来事です。次号では、イスラエル建国以降のアリヤーについて学び、このテーマへの理解を深めたいと思います。〈次号へ続く〉

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