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ティーチングレター

イスラエルを支えること、神の側に立つこと -後編-

レベッカ・J・ブリマー/ブリッジス・フォー・ピースCEO(最高経営責任者)

アメリカからイスラエルに帰還してきた
ユダヤ人青年

先月号の前編では、神の御名に傷を付けるために、サタンが歴史を通してユダヤ人を攻撃してきたことを学びました。神はこうしたサタンの攻撃からユダヤ人を守られ、彼らに対する約束を成就し続けてこられました。

今の時代の紛争において、神の側に立つとは?

預言者ダニエルは、終末の預言者として有名ですが、それだけではありません。彼は神に愛された人でした。エゼキエル書14章14節には、ダニエルは正しい人であると記されています。「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これらの三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ。――」

ダニエルは、神のみことばを畏れる人でした。彼はエレミヤの預言を学び、理解していました。ダニエル書9章でダニエルは、バビロン捕囚(バビロニアに国を滅ぼされ、ユダヤ人がバビロンへと移送された出来事)の時代が終ろうとしていることを読み取りました。それは彼にとって、どれだけ大きな喜びだったことでしょう。

多くの国々からユダヤ人がイスラエルに帰還して
いる現代――ダニエルの時代と同じく、
聖書の預言が成就している

あなたとあなたの国が、他国の奴隷になったことを想像してみてください。人間にとって最大の権利の一つである、自由を奪われたのです。70年もの間、故郷から引き離され、偶像を拝むことを強制され、拝まなければ殺すと言うような王に仕えなければなりませんでした。それは、決して楽しい経験ではなかったはずです。私がもしその立場でエレミヤ書を読んだなら、大喜びのあまり踊り出していたことでしょう。また、すべての友人を呼び集め、神の慈愛の深さを祝って、大きな祝宴を開いたことでしょう。しかし、ダニエルはそうしませんでした。

「メディア族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによってエルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。」(ダニエル9:1-3)

ダニエル書9章全体を読んでみると、4節から19節までは、すべて悔い改めと、とりなしの祈りであることが分かります。この箇所から、ダニエルが学びと祈りの人であったことが分かります。しかし、それだけではありません。ダニエルは現実に活躍する政治家として、自分の社会における役割の重要性を理解していました。

「そこで王は、ダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、また、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官とした。王はダニエルの願いによって、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに、バビロン州の事務をつかさどらせた。しかしダニエルは王の宮廷にとどまった。」(ダニエル2:48-49)

これらの聖句から、ダニエルが書斎に閉じこもったり、祈りの部屋にずっととどまってはいなかったことが分かります。彼は、その国の政務に積極的に関わっていたのです。

また、ダニエル書1章19節から20節、6章25節から28節、8章26節から27節を読んでみてください。

レオン・ウッド氏は著書の中で、次のように語っています。「明らかに、神は計画をもってダニエルを影響力のある地位に就かせた。ユダヤ人をイスラエルの地に連れ戻すために、人々を励まし助けた。それは、ダニエルがバビロンにおいて、ユダヤ人に貢献できる立場に就いていたことを意味した。」(『ダニエル書註解』P.154)

私たちへの教訓
第一に……みことばを読み、全力で従う

以上のことは、私たちにとってどのような意味をもつのでしょうか。私は、ダニエルが示した模範を三つの点で要約できると思います。

第一に、神のみことばを学び、神から指示されることに、全力で取り組まなければならないということです。言い換えれば、私たちは自分の頭を用いなければならないということです。

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(IIテモテ2:15)

良き兵士が上官の命令に従うように、
私たちも神の戦略を学び、
神が望まれること、
神の意図を探る必要がある

神のみことばは私たちのマニュアル、手引書です。良い兵士が自分の部隊長の教えをしっかりと学び取るように、私たちは神のみことばを学び取ること、司令官である主をしっかりと理解する必要があります。主が何を語っておられるのか、主の戦略はどうなのか、主がどんなことに注目しておられるのか、主がどのように考えられるのかを見いだしましょう。

ここで注意することは、学ぶことだけに専念しないことです。時に、細部にこだわる聖書論議は、不一致の末、信者同士の交わりを引き裂きかねません。バランスを保つことが重要です。

第二に……心を込めて祈る

ダニエルは、捕囚の期間がほとんど終わりに近づいていることを発見したとき、なぜ、祈ることの必要性を感じ取ったのでしょうか。神が、“そうなると仰せになったこと”は、必ずそうなりますから、ただ傍観することもできるはずです。しかし、そこに到達するには、さまざまな道を通ることが予想されます。私の父は、いつも言っていました。「イエスが再臨なさることはあらかじめ定められているが、私たちの祈りや良い業が、それまでに起こるさまざまな出来事を造り出していくのだ」と。

聖書の中には、「もしも……なら」という表現が多く見受けられます。例えば、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(II歴代7:14)

神は喜んで御業を成してくださいますが、それには「もしも……なら」で表される、単純であっても、非常に重要な条件が付随しているのです。

私たちは神の御心が何であるかを発見し、それに協力する必要があります。ダニエルは神のご計画を知り、祈りの中で神の御心に従ってとりなしをすることに全力を注ぎました。

私たちクリスチャンは信仰者として、祈りについて語りますが、必ずしも常に祈る時間をもっているとは限りません。祈りは大きな力をもっています。神との直接的な会話手段をもっていることは、尊い特権なのです。私たちが祈ると霊的な力が働きます。

祈りにはどれくらいの力があるのでしょうか。黙示録8章1節から5節を見ましょう。

「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかりの静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」

イスラエルのためにとりなすことを、
神は喜んでくださる

このみことばが、いつの日か必ず完全に成就する日が来ることでしょう。神はイスラエルとの契約を守られます。

BFPでは、皆様が具体的に祈るための「課題」を提供することに力を注いでいます。私たちは「シオンのために、わたしは黙っていない。」(イザヤ62:1、6-7)ということばを、聖書的指針として掲げ、イスラエルのためにとりなしています。B.F.P.Japanでも、本誌上の「いのちの祈り」のコーナーの他、隔週で「ハイメール」というイスラエルに関するニュースと祈りの情報配信を行っています(ご希望の方はchai@bfpj.netまで)。また、全国百カ所以上の教会で、ハイナイト祈り会(いのちの祈り)の開催を進めています。

第三に……行動

最後に、私たちにできること、それは実際的な行動です。

神はご自身の御体である教会を、御国を建て上げる目的のために用いようとしておられます。

残念ながら今日、多くの教会に、御国建設に対する無関心が広がっていると思われます。クリスチャンの訓練で有名なエドワード・ロウ師は、その著書の中で、次のように語っています。

「今日のキリスト教界では、みことばを自分の現実に適応しようとしない傾向が強く見られます。クリスチャンが、現実逃避ともいうべきものに逃げ込んでいます。彼らにとって、キリスト教とは、個人的な自己修養手段に過ぎません。修養のために聖書を読むが、その適用と実行には移らないのです。行動が必要とされるべきところに、無関心が行き渡っているのです。」(『アメリカを救おう』P.39)

著作家のジョージ・オルティス師は、その著書『ブループリント(設計図)』の中で、次のように語っています。

「もし、神が、その子供たちを、社会・政治的な面から隔離しようとされるなら、ヨセフはなぜ、パロの治世で活躍したのでしょうか?神はなぜ、ダビデを王として任命なさったのでしょうか?神はなぜ、ダニエルとモルデカイを政治の世界に送り込むために準備なさったのでしょうか?イエスの両親は、なぜ政府の国勢調査に応じたのでしょうか?イエスはなぜ『カイザルのものはカイザルに』と語られたのでしょうか?

イエスは私たちを、この世に、この現実世界に遣わされたからです。ちょうど、神がイエスを、この世にお遣わしになったのと同じように。良い社会を築き上げるためには、自然界と霊界とが調和のとれた協力関係になければなりません。私たちは選挙に投票し、働き、自分の国の政治に参加すると共に、自分の国のために祈る必要があります。私たちは『城壁に置かれた神の見張り人』となり、正義のために明らかな声を上げるべきなのです。」(同書P.122)

神とサタンの間には、この、驚くべき争いが続いています。結果、イスラエルはあたかも、両陣営の中間地帯という状況に置かれています。私たちは、隅の方に立って眺めていることもできますし、あるいは積極的に神の側に立って行動することもできます。BFPでは、神がイスラエルのために立てておられるご計画に従って、皆様が実際に行動できるさまざまな働きを担っています。イスラエルという国は神とサタンの戦場であり、神がご自分のことばを守られることを、世に示そうとしておられる場なのです。

神と共に、イスラエルと共に立つ

今回のティーチング・レターのテーマ「ご自分の御名のためにイスラエルを支える、神の側に立つこと」を思い起こしてください。神が、イスラエルに対するご自身の約束を守られる、忠実なお方であることを証明することで、諸国は、神が神であられることを知るようになります。

あなたの目は、ビジョンを捕らえましたか?

あなたの心は、感動を味わっていますか?

主の召しに対して、あなたは「はい。私はここにおります」と応答しますか?

イスラエルを巡る、何世紀にも及ぶ紛争は、多くの預言者や聖徒によって語られてきましたが、その行方は、私たちの上に、今日の私たちにかかっているのです。

神の御名に栄光が帰せられるために、皆様もぜひ、協力してください。そして、神のご計画に加わってください。学び、祈り、行動のすべてをもって、神の召しに応えてまいりましょう。

エルサレムよりシャローム

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