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メルキゼデクの位

BFP編集部 2003年10月

メルキゼデクとは誰でしょう。聖書に登場するこの人物の名前を、多くの人が耳にしているにもかかわらず、彼についてはほとんど知られていません。

創世記14章に、メルキゼデクについて初めての記述があります。死海の南方にあるソドムと、その周辺の村落を打ち破ったケドルラオメル王は、ロトと彼の全財産を略奪しました。それを見たアブラハムと318人のしもべたちは、ケドルラオメル王とその連合軍を追跡して打ち破りました。そして、ロトとその財産、そしてとりこにされていた人々すべてを取り戻しました。

戦いから帰ってきた時、アブラハムは、シャレムの王メルキゼデクの祝福を受けました。「シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えた。」(創世14:18-20)

次にメルキゼデクについて書かれているのは、詩篇110篇です。「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」(詩篇110:1)で始まる、メシア(救い主)に関するダビデの詩です。神は、ダビデにとっても主であるメシアに語っています。そして4節でこう言われます。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』」

ヘブル書5章5節から6節には、イエスがメシアであること、また詩篇110篇を引用して、メルキゼデクの位にあって仕える者であることが書かれています。「完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(ヘブル5:9-10)

イエスがメルキゼデクの位に等しい大祭司であられるなら、「メルキゼデクとその祭司の位」について、もっと深く知る必要があります。また、イエスがこの位によって仕えておられるということには、どのような意味があるのでしょうか?

メルキゼデクとは誰か?

メルキゼデクとは称号であって、名前ではありません。ヘブライ語の文字通りの意味は、“私の王”(メルキ)“義”(ゼデク)です。ユダヤの賢者たちは、この人が義なる王であっただけでなく、ゼデクの王であったと言います。ゼデクとは、エルサレムを指す呼び名の一つです。エルサレムは正義の地として知られ、やがて神の神殿が建てられる、どのような不正や罪にも妥協しない場所でした。ヘブル書7章2節でパウロは、彼についてさらに深い理解を提供しています。「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」サレムとは、もちろんエルサレムを意味します(詩篇76:2)

ユダヤの賢者や学者たちの意見は、メルキゼデクがノアの長子・セムであるということで一致しています。これにはどんな重要性があるのでしょう。

セムもまた、それ自体名前ではなく、神の特別な働きを担う、ノアの息子の称号でした。ヘブライ語でセムは“名前”を意味します。ヘブル的思考では、名前は人格と同じ意味をもちます。セムは神のご人格やご性質について、神から直接教えを受けました。また、アダムの時代から起こったすべてのことを知っている人物として、“名前を運ぶ者”という役割を担っていました。セム(名前を運ぶ者)は、洪水を生き延び、後の人々にすべての知識を伝える者として神に選ばれました。彼は586年間生きました。神は彼をエルサレムの王、また大祭司として選ばれただけでなく、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの12部族に至るまで、族長たちの霊的指導者としても選ばれたのです。メルキゼデク(セム)は、族長たちに、いと高き神の知識について、また神との直接的なコミュニケーションのとり方について教えました。また、洪水以前に起こった出来事を言い伝えました。セムはまた、ヘブル人の父祖である、エベルの先祖でもあります。そのヘブル人たちは、選ばれた民族として、世界に神のメッセージと知識を伝えたのです。

メルキゼデクの位

では、メルキゼデクの位とは何でしょう?

永続的な祭司

簡単に言えば、それはレビ族が担っていた祭司職よりも優れた、永続的な祭司職です。この祭司は、神の知識を人間に与え、神との直接的なコミュニケーションを可能にします。このメルキゼデクの位は、約束されたメシアによってのみ成就され、彼によってその恩恵が私たちにも及びます。

この結論はいくつかのみことばによって立証されています。ヘブル書では、イエスがメルキゼデクの位に関係付けられ、この人物と彼の職務についてより明らかにされています。洪水前後を生きたメルキゼデクは、いと高き神の町エルサレムの王、また大祭司として神に任命されました。イスラエルの歴史の中で、一人の人が王と大祭司の両方に任命されたことはありませんでした。古代中東の他の国々ではあったかもしれませんが、二つの職務が独立しているイスラエルでは、このような習慣はありませんでした。メルキゼデクは、祭司であり王であるという点において、とてもユニークな存在でした。

肉ではなく、霊による地位

ヘブル書7章3節にはこう書かれています。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」ここには、メルキゼデクについての情報がぎっしり詰まっています。「父もなく、母もなく」とは、肉体の出生について言っているわけではありません。むしろ“メルキゼデクの位”を通して新しいことを始め、新しい方法で神を表すという、神によって選ばれた霊的立場について説明しています。同様に、私たちも神の救いを受け入れ、御国の一員として生まれ変わるとき、地上の家系にはもはや意味がありません。「果てしのない……系図に心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」(テモテ1:4)とさえ言われています。私たちは、「父もなく、母もない」新しい霊的家族です。私たちの新しいアイデンティティーは、父なる神にあります。

メルキゼデクに「系図がない」というのは、セムに子どもがなかったことを意味しているわけではありません。肉の子孫に受け継ぐことができない、霊的な職務について言っているのです。メルキゼデクの位を成就することができるのは、ただ一人の約束されたメシアによってのみです(詩篇110:4)。これはヘブル書7章3節の後半に説明されています。命の始まりとその終わりがなく、しかも永遠に私たちのための祭司としてとどまっておられる神の御子によって、メルキゼデクの霊的職務が遂行されるのです。

レビ系祭司よりも上位

メルキゼデクの祭司職は、レビのそれよりも偉大なものです。ヘブル書7章4節から10節では、アブラハムがメルキゼデクに敬意を払い、十分の一を捧げたこと、そしてその時レビはまだ“アブラハムの腰の中にいた”(生まれていなかった)ことから、メルキゼデクの位がアロンの位(レビ系の祭司職)よりも偉大であることを明らかにしています(5、10節)。上位の者であるメルキゼデクから、下位の者であるアブラハムとレビが祝福を受けたのです(7節)。

レビ系祭司はアロンの子孫たちが担いました。レビ系祭司職は神によって立てられ、民のために、いけにえを祭壇に捧げることによって神に仕えました。しかし、祭司たち自身も罪人であるため、いけにえを捧げる前に、まず自分自身のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。また、そのいけにえは罪を消し去るものではなく、一時的にそれを覆うだけのものであり、常に新しい捧げ物を繰り返し捧げなければなりませんでした。この祭司職は、メシアであられるイエスによって完成され、レビ系祭司の役割は終わりました。

メシアによる祭司職

メルキゼデクの祭司職は、メシアが永遠に担われます。ヘブル書7章11節はこう結んでいます。「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。」言い換えれば、律法はただ、人間は罪深く、神のあわれみと救い、罪の許しを必要としているということを示しただけでした。「律法は何事も全うしなかったのです。」(ヘブル7:19)。イエスは、私たちのために世の罪を取り除く、神の小羊として完全な捧げ物となってくださり、祭司職を全うされました(ヨハネ1:29)。

ヘブル書7章12節には次のように書かれています。「祭司職が変われば(レビ系のものからイエスにあるメルキゼデクのものへ)、律法も必ず変わらなければなりません。」イエスによるたった一度の完全なあがないの御業のゆえに、もはや祭司が民のために捧げ物をする必要はありません。イエスは律法と預言を完成し、神の約束を成就されました(マタイ5:17-18)。

ヘブル書では、イエスについてこう宣言しています。「このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの(レビ系の)大祭司とは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
(7:26-27)

イエスは祭司職を成就されただけでなく、罪を犯したことのない者として、レビ系祭司には制限されていた問題を解決されました(ヘブル4:15)。イエスは、レビの系図からではなく、ユダ族からお生まれになりました(ヘブル7:13-14)。肉の営みによって続いたレビ系の祭司ではなく、“メルキゼデクの位”による、朽ちることのない命の力による祭司となられました(16-17)。レビ系祭司は人間であり、罪の問題を解決しないまま死にました。しかし、イエスは永遠に生きておられ、罪がなく、地上の宮ではなく天におられる父のところに直接行き、とりなしをしてくださるのです。ヘブル書8章1節から6節にはこうあります。「私たちの大祭司は永遠の天におられる大能者の御座の右に着座された方であり(1節)さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者である。」(6節)

仲介者である祭司の役割が、イエスによって完成された今、人間の祭司制度は必要ありません。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ2:5)。彼は私たちの大祭司として、「もろもろの天を通って」父なる神の御前に罪を運び、その罪を永遠に取り去るためにあがないの血潮でそれを覆われました(ヘブル4:14)。これが、神が私たちに提供された、さらに優れた契約です。イエスの死は、ただ罪を覆われただけでなく、一度ですべての罪を取り除かれました。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。……キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(ヘブル10:10、14)

新しい契約のメシアについての神の約束

イエスは栄光ある新しい契約を成就してくださり、ご自身の血潮によって私たちを清めてくださり、永遠の命を約束してくださいました。

「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。……わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:8-12)

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(ヘブル9:11-15)

このあがないを受け取るためには、主によって提供された救いを、新しい契約の下で受け取る必要があります。救い主イエスの到来によって、古い契約における罪といけにえの儀式は廃れたものになりました。それは、彼がその要求を完全に満たすことができたからです。しかし、これは古い契約が廃れ、効力のないものになったという意味ではありません。いけにえを捧げるためのレビ系祭司の働きはもはや必要ないとしても、旧約聖書に書かれている神の約束や契約、戒めは現在もなお有効です。

これは私たちにとって何を意味するのか?

罪といけにえに関する旧約の律法は、大祭司であり王であるイエスがそれを成就されたことによって、より優れた許しの律法に置き換えられました。また、レビ系祭司の位は、神との直接的な交わりをもちませんでしたが、今や、罪のために代価を払われた、大祭司であり王であられるメルキゼデクの位にあるイエスを信じる者は、神との個人的な関係を結び、交信することができます。

イエスが十字架にかけられ、神殿の幕が裂けた時、神の御霊はそこを離れ、すべて信じる者の心に住まわれました(テモテ1:14、コリント3:16-17、6:19)。イエスにより、御霊を通して神の知識を受け、直接的な交わりをもつための扉が開かれたのです。神の知識や真理、そして知恵を、御霊によって他の人々にもたらすとき、私たちは神に仕える新しい祭司、王の祭司となるのです。レビの祭司制に従う必要はありません。私たちは律法から自由にされており、今や大祭司イエスの恵みの中にいるのです。それを人に伝える者たちに、イエスは神の知識を与えてくださいます。

イエスはメルキゼデクの位をどのように成就されたのでしょうか。イエスは神であられる一方、メルキゼデクのように、人間でもあり(ヘブル7:4、テモテ2:5)、王の祭司であり(ゼカリヤ6:12-13)、正義に満ちた方であり(イザヤ11:5)、平和の君であり(イザヤ11:6-9)、生涯の始まりがなく(ヨハネ1:1)、生涯の終わりもなく(ローマ6:9、ヘブル7:23-25)、人間の力によって大祭司となったのではありません(ヘブル5:5、詩篇110:4)。

ヘブル書によると、私たちは救い主イエスを通して、父なる神との新しい関係に移されています。アロンの位がもたらす律法を超え、メルキゼデクの位がもたらす恵みと祝福へと私たちを移してくださったのです。この偉大なる方が来られ、日々、とりなしてくださっています。もはや神と私たちの間に、人は必要ありません。イエスご自身がこの、さらに優れた契約の保証であり(ヘブル7:22)、そこに神との直接な交わりを保ってくださる聖霊がいらっしゃいます。何とすばらしい、栄光ある関係をもつことができるのでしょう!これは、旧約の聖徒たちが切に求めたものでした。

私たちが頂いた恵みは計り知れません。神がどんなにすばらしいことをしてくださったかを知り、恵み深い神によって惜しみなく与えられているこの大きな贈り物を、豊かに用いていこうではありませんか。
エルサレムからシャローム

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